第42話

 七月十八日、金曜日。

 午前七時半に、敦子は芽依の自宅であるタワーマンション前に自動車で到着した。


「芽依ちゃん、おはよう」

「おはようございます」


 明るい挨拶をした芽依を助手席に乗せ、敦子は自動車を走らせた。

 今日はこれから、テレビCMの撮影だ。

 敦子はこの時間帯は、まだ少し眠かった。ドリンクホルダーには、芽依を拾う前にコンビニで購入したアイスコーヒーがある。うるさく動いているエアコンの下、プラスチックカップは結露していた。

 フロントガラスから差し込む日差しは、とても強い。今は車内に居るとはいえ、これから屋内で撮影が行われるとはいえ――今日も暑い日になりそうだと、敦子は思った。


「もうちょっとで夏休みだね」


 赤信号で停車した際、敦子はアイスコーヒーを一口飲み、ふと漏らす。

 学生はいいなぁ。そう付け足しそうになったが、芽依の仕事の予定は割と埋まっているため、控えた。


「どこか遊びに行きたいところある?」

「連れて行ってくれるんですか?」

「そういうわけじゃないけど……。でも、場所次第じゃ考えるよ」

「わたし、敦子さんとナイトプール行きたいです」

「却下。私もう、水着着れる歳じゃないし……。ていうか、中学生が行っちゃダメでしょ」

「えー。余裕で誤魔化せますよ」


 水着とはいえ、芽依の素肌を公共の場で晒していいのだろうか。敦子はそのように考えていると、信号が青色に変わり、自動車を走らせた。

 芽依がどのぐらい真剣なのかわからないが、ませていると敦子は思った。そう捉えたことが――仕事では大人びた姿を求められているが、自分は子供扱いしているのだと確かめた。


「あの……敦子さん、どうなってます?」

「何が?」

「次のオーディション」


 敦子はピクリと僅かに動揺するも、前方を眺めながら運転を続けた。

 夏休みの話題を振ったのだから、その件に触れられてもおかしくないと理解する。だが、芽依が以前から訊ねる機会を伺っていたように感じた。


「チーフから貰ったアドバイスだと、試行数かずを打つべきなんだけど……私はそうは思わない。むやみに受けるより、慎重になりたい」


 芽依の問いに対して論点が少しずれているのを、敦子は理解している。だからこそ、改めて答えた。


「ごめん……。慎重に探しているから、もうちょっと待ってくれない?」


 探しているのは事実だ。だが、以前ほど血眼になってはいない。

 テレビCMという大きな案件が舞い込み――ここ最近は浮かれていたと、敦子は反省した。その意味では、罪悪感があった。

 そう。あくまでも、芽依は俳優になることを望んでいる。テレビCMに出演するのとは、また違う。

 敦子はその願望に、まだ応えられていない。


「ちなみにですけど……敦子さんは、どんな役を探しているんですか?」


 何気ない口調だった。

 敦子は前方を眺めて運転しているため、芽依がどのような表情をしているのか、わからない。だからこそ、芽依が見透かしたうえで訊ねているようにも感じた。


「そりゃ、芽依ちゃんは大人の役だよ。やっぱり二十歳ぐらいが良いと思う」


 正直に敦子は答えた。否、隠す必要が無い。

 確かに、その役を探している。今回の案件といい『路線』は決して間違っていないと、手応えがある。これからも続けていくべきだという考えは、変わらない。


「へぇ。なるほど……」


 芽依の相槌が、敦子はなんだか素っ気なく聞こえた。

 表情が見えないが、芽依が不満に感じるわけがないと思った。

 しかし――どうしてか、敦子はふと先日の打ち合わせを思い出した。まるで他人事のように、芽依がぼんやりとしていた。


「とりあえず、今日のところは……大切な案件しごとなんだから、しっかりこなしていこう」


 きっと、あれは何かの見間違いだったのだろう。

 敦子はどちらかというと良くない印象を振り払うため、そちらに注意を向けた。


「はい」


 芽依の力強く頷く声が、敦子は聞こえた。

 思えば、風邪をひいてからは、芽依と何か隔たりのようなものがあった。一連の流れで微かな違和感を覚えるが、敢えて追わなかった。



   *



 午前八時に、敦子は撮影スタジオへ到着した。

 広いスタジオだった。スタッフも、十五から二十名ほどが居る。敦子がこれまで関わってきた中で、間違いなく最も規模が大きい。

 敦子は緊張感が込み上げるが、芽依は落ち着いた様子だった。


「頑張ろうね」

「はい」


 小声で交わした後、芽依がスタイリストに連れて行かれた。


「おはようございます。本日は、よろしくお願いいたします」


 敦子はひとりで挨拶に回った。

 依頼者側の社長と広報担当、広告代理店の営業とプロデューサー、そして映像制作会社の面々――ひとしきり終え、敦子が疲れた頃だった。


「水澄さん、入ります」


 準備を終えた芽依が、姿を現した。

 深い赤色の袖無しワンピースに身を包んでいた。ウエスト部分がシェイプされ、細さが際立っている。

 事前に聞いていた通りだった。それでも実際に見ると、長身かつ艷やかな長い髪であるため、とても映えていると敦子は感じた。ただ、ひとつ――


「よろしくお願いします」


 にこやかな雰囲気だけが、格好と似合わない。確かに大人びてはいるが、物柔らかな優しさは今回の案件に求められていない。

 いや、撮影前の挨拶としては正しい。敦子はそう理解するものの、なんだか不思議な感覚だった。それは周りも同じだと、場の空気から察した。


「それじゃあ、リハいきましょう」


 広告代理店のプロデューサーが、進行を指示した。

 今回の撮影は、合成の背景を使用する。だから、白ホリゾントにはひとり用の高いテーブルと椅子が置かれているだけだった。

 芽依が椅子に座った瞬間――スタジオ内の空気が一変した。室内の温度が一気に下がったかのように、敦子は感じた。

 先ほどまでの芽依のにこやかさが、急に消えた。欠片も無く、全て消え去ったのだ。

 代わりに、凛とした雰囲気が立ち込める。敦子は、自分の背中がゾクゾクと震えた。

 僅か一瞬で、芽依の年齢がいくつか上がったように感じた。単に歳月が過ぎたのではなく、相応の経験を積んだからこその『貫禄』を醸し出している。誤魔化しようのない『本物』だ。

 そう。この艷やかな笑みは――十四年だけの人生経験で絶対に至らない。敦子は、芽依が間違いなく自分より年上に見えた。

 それでいて、十四歳特有の肌艶が上手く溶け込んでいる。芽依にしか出せない美しさも放っていた。


「なぁ……真依ちゃん、ほんまにCM初めてなん?」


 近づいてきた依頼者の社長に、敦子は訊ねられた。興奮を抑えている様子が伝わった。

 衣装や化粧が加わったこともあるだろう。芽依の雰囲気が、打ち合わせの時よりもさらに磨きがかかっている。


「はい。そうですけど……」

「ありがとうな……。あの子の『はじめて』貰えたんが、光栄や。感謝しても、しきられへん」


 まだ撮影本番前のリハーサルにも関わらず、依頼者から頭を下げられ、敦子は戸惑った。

 しかし、彼女の気持ちを理解できた。商品の売上を引き上げるだけの、最高のCMになる確信が、敦子はこの時点であった。

 そして、芽依のCMデビュー作にこれ以上ない手応えを得た。さらに伸びることは明白だ。


「甘いだけじゃ、もの足りない」


 芽依はテーブルに肘をついたまま最中を一口食べ、キャッチコピーを言い放った。


 リハーサルから本番までを、予定通り午前中に終えた。

 昼食を含む休憩後、午後からは宣伝用の写真撮影に移った。


「芽依ちゃん、お腹大丈夫? お弁当もがっつり食べたけど、苦しくない?」


 撮影の合間に、敦子は芽依にペットボトルの冷たい茶を小まめに飲ませた。

 順調に進行しているが――撮影のため仕方ないとはいえ、芽依は沢山の最中を口にしている。

 敦子は、見ているだけでも胸焼けがしそうだった。


「全然大丈夫ですよ。美味しいんで、いくらでも食べれます。ていうか、甘いのと塩っぱいのあるの、無限ループでヤバくないですか」


 芽依は和やかに茶を飲むも、撮影が再開すると一瞬で雰囲気が切り替わった。

 その早さに敦子は未だついていけず、戸惑った。


 撮影はさらに順調に進み、午後二時過ぎには終盤に差し掛かった。

 芽依に疲れている様子もなく、問題なく終わりそうだと敦子は思っていると――


「はぁ、なんとか間に合うた」

「美澄さん!?」


 スタジオに、芽依の母親の美澄沙樹が現れた。

 訪れることを、敦子は芽依からも沙樹本人からも聞いていない。そもそも、芽依が知っていたのかもわからない。

 何にせよ、直前まで仕事だったのか――沙樹の慌てている様子から、驚かせるような意図は無かった。


「せっかくのCMやから、見たかったんですわ。うわぁ……芽依ちゃん、今日もべっぴんさんにしてもろて……」

「残念ながらCM撮影はもう終わりましたけど、あとで仮合成のチェックもあるんで、一緒に見ましょう。とにかく、凄いものが出来ましたから」

「それは楽しみやなー」


 落ち着いたからだろう。沙樹は敦子から一旦離れ、周囲に挨拶へ回った。

 その様子を眺めながら、敦子はオーディションを終えてから沙樹と初めて会うことに気づいた。

 おそらく、結果は芽依から聞いているはずだ。だが、敦子からは直接伝えていない。

 敦子の胃がキリキリと痛む。可能であれば触れたくないが、マネージャーとして――美澄母娘にオーディションを紹介した者として、保護者おとなとも顛末を見届けないといけない。


「ちょっといいですか?」


 挨拶を終えた沙樹が戻って来ると、敦子はスタジオの隅へ場所を移した。

 本来であれば、オーディションの件は撮影終了後に触れるのが筋だ。しかし、敦子は敢えて撮影中に触れた。卑怯だという自覚があった。


「オーディションのこと……力及ばず、申し訳ありませんでした」


 敦子は深々と頭を下げる。

 だが沙樹が慌てて制止した。


「大西さんのせいとちゃいますから、顔上げてください。確かに残念でしたけど……今回に繋がったんが、大万歳ですわ」


 そのように諭され、敦子の胃痛は和らいだ。沙樹の言葉を素直に受け止めたかった。

 しかし――風邪で寝込んだある日、現実か夢か不確かだった出来事が、未だに気がかりだった。


「芽依ちゃん、その……家で落ち込んでたりしてませんでしたか?」


 訊ねるならば、それだった。自分の目の届かないところでの、芽依の様子を知りたかった。


「残念がってましたけど、次頑張るねん言うて、すぐに張り切ってましたわ」


 沙樹の言葉に敦子は安心するが、芽依が沙樹に『素顔』を隠していることを思い出した。理想の娘を演じた結果が『それ』ならば、結局のところはわからない。

 しかし、続く沙樹の言葉に――あらゆる前提が覆ることになる。


「オーディション落ちたん、これが初めてとちゃいますしね」



(第14章『おとな』 完)


次回 第15章『こども』

敦子は芽依を遊びに行く連れて行く。

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