第13話「元婚約者と、それぞれの道」



朝霧が遺跡を包む早朝、アサギは一人、カフェの準備をしていた。昨日の騎士団の訪問以来、なんとなく落ち着かない。


「今日は、どんな紅茶にしようかしら......」


茶葉の棚を見つめながら、ふと立ち止まる。指先が、奥にしまい込んだ小さな缶に触れた。王城にいた頃、エドワード王子が好んでいたアールグレイ風味の茶葉。なぜか捨てられずに、持ってきてしまったものだ。


「......いえ、やめておきましょう」


首を振り、いつものダージリンを手に取る。過去に囚われている場合ではない。


「アサギー! 大変だよ!」


フィーが慌てた様子で飛び込んできた。


「今度は一人だけど、すっごく立派な馬車が来てる!」


窓から外を覗くと、見覚えのある紋章を掲げた馬車が止まっていた。王家の紋章。それも、第一王子専用のものだ。


「......来たのね」


アサギは深呼吸をした。いつかは向き合わなければならないと、わかっていた。


扉が開き、エドワード・フォン・ヴァイスハイト第一王子が入ってきた。金髪に青い瞳、端正な顔立ちは相変わらずだ。ただ、以前より少しやつれたように見える。


「アサギ」


低い声が、静かな店内に響いた。


二人の間に、重い沈黙が流れる。フィーが心配そうに、アサギの肩にとまった。


「......いらっしゃいませ」


アサギは努めて明るく微笑んだ。


「お席にどうぞ。すぐに紅茶をお持ちします」


「アサギ、私は客として来たわけでは......」


「でも、せっかくいらしたのですから」


アサギは有無を言わせず、エドワードを窓際の席に案内した。朝の光が差し込む、一番いい席だ。


エドワードは困惑した様子だったが、促されるままに腰を下ろした。目の前に、見慣れたティーカップが置かれる。


「今日の紅茶は......」


アサギは一瞬迷い、そして決めた。


「アールグレイ風味です」


エドワードが顔を上げた。それが自分の好みの茶葉だということを、アサギが覚えていてくれたことに驚いている。


優雅な手つきで紅茶を注ぐアサギを、エドワードはじっと見つめていた。かつて、王城で毎朝のように見た光景。でも、何かが決定的に違う。


「どうぞ」


差し出されたカップから、ベルガモットの上品な香りが立ち上る。エドワードは、ゆっくりと口をつけた。


「......美味い」


思わず呟いた言葉に、アサギは小さく微笑んだ。


「よかった。しばらく淹れていなかったから、味が落ちていないか心配だったの」


「変わったな、アサギ」


エドワードは、まっすぐにアサギを見つめた。


「王城にいた頃の君は、もっと......」


「怯えていた?」


アサギが静かに言葉を継いだ。


「ええ、そうね。いつも誰かの顔色を窺って、自分の意見も言えなくて」


「そんなことは......」


「いいえ、本当のことよ」


アサギは穏やかに微笑みながら、向かいの席に座った。


「私は、籠の中の鳥だった。綺麗な籠だったけれど、それでも籠は籠」


エドワードは押し黙った。否定できない。彼自身、アサギをそういう存在として見ていた。美しく、従順で、政略結婚の道具として申し分ない令嬢。


「でも、今は違う」


アサギは店内を見回した。


「ここには、私の居場所がある。自分で選んだ、自分だけの場所」


「......すまなかった」


エドワードが頭を下げた。


「私は、君を一人の人間として見ていなかった。ただの政略の駒として」


「エドワード様......」


「様はいらない」


エドワードは苦笑した。


「今の私たちは、ただの......何だろうな。元婚約者?」


「それも、なんだか寂しい呼び方ね」


二人は顔を見合わせ、そして初めて、自然に笑い合った。


レオンが店の奥から顔を出した。


「おい、大丈夫か?」


警戒心むき出しの元傭兵に、エドワードは興味深そうな視線を向けた。


「君が、昨日騎士団が話していた」


「レオンです」


アサギが紹介する。


「この店の用心棒で、私の大切な仲間」


「そうか」


エドワードは立ち上がり、レオンに向かって軽く頭を下げた。


「アサギを守ってくれて、感謝する」


「......なんだ、案外まともな奴じゃねえか」


レオンがぼそりと呟く。エドワードは苦笑した。


「王子という肩書きを外せば、私もただの人間だ」


「ふん、そりゃそうだ」


フィーが二人の間をふわふわと飛び回る。


「ねえねえ、エドワードさんもスコーン食べる? アサギの作るスコーン、すっごく美味しいんだよ!」


「フィー......」


アサギが慌てるが、エドワードは優しく微笑んだ。


「ぜひ、いただこう」


焼きたてのスコーンが運ばれてくる。エドワードは一口頬張り、目を見開いた。


「これは......本当に君が作ったのか?」


「ええ。最初は失敗ばかりだったけど」


アサギは懐かしそうに語り始めた。初めてスコーンを焼いた時、真っ黒に焦がしてしまったこと。フィーが味見係を買って出てくれたこと。レオンが文句を言いながらも、失敗作を全部食べてくれたこと。


エドワードは、生き生きと話すアサギの姿を、複雑な表情で見つめていた。


「君は、本当に幸せそうだ」


「ええ」


アサギは迷わず頷いた。


「私は今、本当に幸せよ」


沈黙が流れた。でも、それは先ほどまでの重苦しいものではなく、穏やかな静寂だった。


「実は」


エドワードが口を開いた。


「父上......国王陛下から、君を連れ戻すよう命じられている」


「そうでしょうね」


アサギは落ち着いていた。予想していたことだ。


「でも、私は戻らない」


「わかっている」


エドワードは窓の外を見つめた。


「正直、私も君を連れ戻したくない。こんなに生き生きとしている君を、また籠に閉じ込めることなど」


「でも、王命ですものね」


「そうだ。だから......」


エドワードは懐から書類を取り出した。


「これを」


アサギが受け取って中身を確認すると、そこには正式な王位継承権放棄の書類があった。サインをすれば、完全に王族との縁が切れる。


「随分と用意がいいのね」


「君なら、きっとこう答えると思っていた」


エドワードは優しく微笑んだ。


「これで、君は本当に自由だ。誰も君を連れ戻すことはできない」


アサギは書類を見つめた。これにサインをすれば、過去との完全な決別。でも......


「その前に、一つ聞いてもいい?」


「何だ?」


「エドワードは、私のことを......その、少しでも」


言いかけて、アサギは首を振った。


「いえ、なんでもない」


「愛していたか、ということか?」


エドワードが静かに言った。アサギは顔を赤らめた。


「......ごめんなさい。今更、聞くことではないわね」


「いや」


エドワードは真剣な表情で、アサギを見つめた。


「正直に言おう。私は君を愛してはいなかった。少なくとも、男女の愛ではなかった」


アサギは静かに頷いた。わかっていたことだ。


「でも」


エドワードは続けた。


「君は大切な存在だった。妹のような、守るべき存在として」


「妹......」


「リーゼロッテとは違う意味でな。君はいつも不安そうで、誰かが守ってやらなければと思っていた」


エドワードは自嘲的に笑った。


「結局、それも君を見下していたということだ。君には、守られるより、自分の力で生きる強さがあったのに」


「そんなことは......」


「いや、事実だ」


エドワードは立ち上がった。


「アサギ、君の幸せを心から願っている」


「エドワード......」


「そして、もし許されるなら」


エドワードは少し照れたような表情を見せた。


「また客として、この店に来てもいいだろうか」


アサギは、満面の笑みを浮かべた。


「もちろん! いつでも歓迎するわ」


「君の淹れるアールグレイは、王城のどの給仕より美味い」


「お世辞はいらないわよ」


「本心だ」


二人は笑い合った。初めて、対等な立場で。


「そうだ」


エドワードが思い出したように言った。


「リーゼロッテが、君に会いたがっている」


「リーゼ?」


「ああ。昨日の騎士団の報告を聞いて、是非行ってみたいと騒いでいる」


エドワードは困ったような顔をした。


「あの子は昔から君に憧れていてな。今回の件で、ますます憧れが強くなったらしい」


「まあ」


アサギは嬉しそうに微笑んだ。リーゼロッテ王女は、エドワードの妹で、アサギより二つ年下。活発で好奇心旺盛な王女だ。


「もちろん、歓迎するわ。でも、お忍びでいらしてもらわないと」


「心得ている。あの子も変装が大好きだからな」


「......上手くいくといいけど」


アサギは苦笑した。王女の変装は、いつも派手すぎて失敗するのだ。


エドワードは懐から小さな袋を取り出した。


「これは?」


「茶葉だ。東方の珍しいもの。店で使ってくれ」


中を覗くと、見たことのない茶葉が入っていた。かすかに花のような香りがする。


「ありがとう。大切に使わせてもらうわ」


「では、そろそろ失礼しよう」


エドワードは席を立った。


「書類は、準備ができたら王城に送ってくれ」


「ええ」


店の出口で、エドワードは振り返った。


「アサギ」


「何?」


「幸せになれ。君には、その資格がある」


「エドワードも」


アサギは優しく微笑んだ。


「いつか、心から愛せる人が見つかりますように」


エドワードは少し驚いた顔をして、そして柔らかく笑った。


「ありがとう」


王子を乗せた馬車が去っていくのを、アサギは静かに見送った。レオンが隣に立つ。


「いいのか?」


「何が?」


「王族の立場を捨てるんだろ?」


「ええ」


アサギは迷いなく答えた。


「私には、もうここがあるもの」


フィーが嬉しそうに、アサギの周りを飛び回った。


「アサギはここにいてくれるんだね! やったー!」


「当たり前よ」


アサギはフィーを手のひらに乗せた。


「私の家は、もうここなんだから」


午後になると、エルフィーナが姿を現した。


「先ほどの方は、お帰りになったのね」


「ええ。エドワード......元婚約者です」


「優しい目をした方でしたわ」


大精霊は穏やかに微笑んだ。


「あなたを大切に思っているのが、よくわかりました」


「そうですね」


アサギは頷いた。


「でも、それは恋ではなかった。お互いに」


「恋だけが人の繋がりではありませんわ」


エルフィーナは千年の知恵を込めて言った。


「友情も、家族愛も、同志としての絆も、みな等しく尊いもの」


「そうですね」


アサギは店内を見回した。フィーが棚の整理を手伝い、レオンが薪を運んでいる。ここには、血の繋がりはないけれど、大切な家族がいる。


夕方、常連客たちがやってきた。


「アサギさん、今日は王子様が来たって本当?」


商人のマルコが興味津々で聞く。


「ええ、いらっしゃいました」


「で、どうなったんです?」


「お茶を飲んで、お帰りになりました」


あっさりとした答えに、客たちが拍子抜けする。


「それだけ?」


「それだけよ」


アサギは楽しそうに微笑んだ。


「でも、また来てくださるそうです。一人の客として」


「へえ、王子様も常連になるのか」


「身分なんて関係ないさ」


レオンがぶっきらぼうに言った。


「ここじゃ、みんな同じ客だ」


「その通り!」


フィーが元気よく頷いた。


「王子様も、商人さんも、騎士さんも、みーんな平等!」


客たちが笑い合う。確かに、この遺跡カフェでは、身分や立場は意味を持たない。ただ、紅茶を愛する人たちが集う場所。


その夜、アサギは書類にサインをした。さらさらとペンを走らせる。不思議と、迷いはなかった。


『アサギ・フォン・ローゼンベルク、ここに王位継承権を放棄し、一般市民となることを宣言する』


これで、本当に過去との決別だ。でも、後悔はない。


「アサギ、大丈夫?」


心配そうなフィーに、アサギは笑顔を向けた。


「大丈夫よ。これで私は、本当に自由になったの」


「自由かあ」


フィーが首を傾げる。


「自由って、どんな感じ?」


「そうね......」


アサギは考えた。


「明日、何の紅茶を淹れるか、自分で決められること。誰に遠慮することもなく、自分の好きなように生きられること」


「それって、今までもそうじゃなかった?」


「ふふ、そうね」


アサギは気づいた。書類上の自由なんて、実はもうどうでもよかったのだ。心が自由であれば、それで十分。


「明日は、エドワードがくれた茶葉を試してみましょうか」


「わーい! 新しい紅茶だ!」


レオンが呆れたように言った。


「お前ら、能天気だな」


「そうかしら?」


アサギは首を傾げた。


「難しく考えすぎても、紅茶は美味しくならないもの」


「......まあ、それもそうか」


レオンも小さく笑った。


窓の外では、満天の星が輝いている。明日も、新しい一日が始まる。新しい出会いがあるかもしれないし、懐かしい人が訪れるかもしれない。


でも、それでいい。


アサギは静かに店を閉めた。明日のために、ゆっくり休もう。エドワードとの再会は、新しい関係の始まりだった。元婚約者ではなく、一人の友人として。


きっと、これからも色々な人が訪れるだろう。そして、みんなが紅茶を囲んで、温かい時間を過ごす。それが、アサギの選んだ人生。


自由で、温かくて、幸せな人生。


星明かりの下、遺跡カフェは静かに眠りについた。明日も、きっといい日になる。アサギは、そう確信していた。


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