第8話「取り憑かれた商人と、浄化の紅茶」


 穏やかな午後、遺跡カフェには心地よい風が吹き込んでいた。アサギは新しく仕入れた茶葉の整理をしながら、今日のお茶請けのラベンダークッキーの仕上げをしていた。


「いい香り〜!」


 フィーがオーブンの前で、きらきらと目を輝かせている。ラベンダーの優しい香りが、カフェ全体を包み込んでいた。


「もう少しで焼き上がるわ。今日は特別に、蜂蜜も少し多めに入れたの」


「やったー! でも、なんで今日は特別なの?」


 アサギは窓の外を見た。遠くの山々がうっすらと紫色に染まっている。


「なんとなく、今日はラベンダーの紅茶が飲みたい気分だったの。きっと誰かが、癒やしを求めて来るような予感がして」


 その時、カフェの扉がゆっくりと開いた。入ってきたのは、大きな荷物を背負った行商人だった。しかし、その顔色は土気色で、目の下には深いクマができている。


「いらっしゃいませ」


 アサギが明るく声をかけたが、商人は力なく頷くだけだった。よろよろと椅子に座り、大きくため息をつく。


「あの...大丈夫ですか?」


 心配そうに近づくアサギに、商人は疲れ切った声で答えた。


「すみません...最近、変な声が聞こえるんです...」


「声?」


「ええ...耳元で誰かがずっと囁いているような...でも、振り向いても誰もいない...」


 商人は頭を抱えた。


「もう何日も眠れなくて...商売も手につかない...」


 その時、フィーが突然大声を上げた。


「きゃー! アサギ、あれ! あの人の肩に、変なのがいる!」


 フィーが震えながら指差す先を見ると、確かに商人の右肩に、小さな黒い靄のようなものがまとわりついていた。よく見ると、それは人の顔のような形をしている。


「あれは...悪霊?」


 レオンがいつの間にか店内に入ってきていた。剣に手をかけながら、慎重に商人に近づく。


「おい、あんた。いつからその声が聞こえるようになった?」


「え? ええと...一週間ほど前からです。古い屋敷跡で野宿をした翌日から...」


「やっぱりな。憑かれてる」


 レオンの言葉に、商人の顔がさらに青ざめた。


「憑かれてる!? じゃあ、私はどうしたら...」


 パニックになりかける商人を、アサギは優しく制した。


「大丈夫です。きっと、何とかなりますから」


 アサギは、ふと閃いた。紅茶には人の心を癒やす力がある。それなら、悪霊にも効果があるかもしれない。


「ちょっと待っていてくださいね」


 アサギは奥へ行き、特別な紅茶の準備を始めた。いつもは普通の水を使うが、今回は遺跡の奥にある泉の水を使うことにした。あの泉の水には、不思議な清らかさがある。


 慎重に湯を沸かし、選んだのは白茶。そこに、庭で摘んだばかりのラベンダーを少し加える。


「アサギ、何してるの?」


 フィーが心配そうに覗き込む。


「特別な紅茶を淹れているの。きっと、これなら...」


 アサギは自分の直感を信じることにした。王城にいた頃は、いつも誰かの指示に従っていた。でも今は違う。自分の感覚を信じて、行動できる。


 丁寧に茶葉を蒸らし、透明なティーポットに移す。淡い金色の紅茶に、ラベンダーの紫色がふんわりと混ざり合う。


「綺麗...」


 フィーが見とれている間に、アサギは紅茶をカップに注いだ。立ち上る湯気が、なぜか普通の紅茶より輝いて見える。


「お待たせしました。特別なブレンドです」


 商人の前にカップを置くと、悪霊がびくりと震えた。明らかに紅茶を警戒している。


「これを...飲めばいいんですか?」


「はい。ゆっくりと、味わってください」


 商人は半信半疑の表情だったが、カップを手に取った。最初の一口を飲んだ瞬間、その表情が変わった。


「これは...なんて優しい味...」


 紅茶が喉を通ると、商人の顔に血色が戻り始めた。そして、肩の悪霊が苦しそうに身をよじる。


「ぎゃあああ!」


 甲高い悲鳴と共に、悪霊が商人の肩から離れた。黒い靄は宙を漂い、逃げようとする。しかし、紅茶の香りが部屋中に広がると、次第にその姿が薄くなっていく。


「や、やめろ...消える...」


 悪霊の声が聞こえたが、それも次第に小さくなり、最後には完全に消えてしまった。


 商人は呆然としていたが、やがて涙を流し始めた。


「頭が...すっきりしています。あの嫌な声も...もう聞こえない...」


「よかった」


 アサギはほっと胸を撫で下ろした。自分の直感は間違っていなかった。


「本当にありがとうございます。これでやっと眠れます...」


 商人は何度も頭を下げた。


「あの、お代は...」


「いつもと同じで結構ですよ」


 アサギは微笑んだ。


「それより、ゆっくり休んでください。あ、これも良かったらどうぞ」


 焼きたてのラベンダークッキーを差し出すと、商人の顔がさらに明るくなった。


「これは...子供の頃、母が作ってくれたクッキーに似ている...」


 商人は一口食べて、また涙を流した。今度は、幸せの涙だった。


 しばらくして商人が帰った後、レオンが感心したように言った。


「まさか紅茶で悪霊を祓うとはな。神官も真っ青だぞ」


「私も驚いたよ〜。アサギの紅茶、すごい力があるんだね!」


 フィーが興奮気味に飛び回る。


「でも、きっと紅茶だけの力じゃないわ」


 アサギは泉の方を見た。


「この遺跡には、人を守る力があるのね。それが紅茶を通じて...」


「難しいことはわからないけど」


 レオンがいつものように肩をすくめた。


「とにかく、あんたの紅茶で人が救われた。それで十分だろ」


 その言葉に、アサギは嬉しくなった。確かに、理屈はわからない。でも、誰かの役に立てたことは確かだ。


 夕方になって、噂を聞きつけた人々が次々とやってきた。


「悪霊を祓う紅茶があるって本当?」


「私も最近、変な夢を見るんです...」


「息子が夜泣きをして...」


 アサギは一人一人に丁寧に対応した。全員に特別な紅茶が必要なわけではない。多くの人は、普通の紅茶と温かい会話で十分だった。


「人って、誰かに話を聞いてもらうだけでも楽になるのね」


 忙しい一日が終わり、アサギは片付けをしながら思った。


「アサギ、今日はいっぱい人が来たね!」


 フィーが疲れた様子で、テーブルに突っ伏している。


「でも、みんな笑顔で帰っていったから、よかった!」


「そうね。でも、あまり評判になりすぎるのも...」


 アサギは少し心配になった。自分はただ、美味しい紅茶を淹れて、人々の憩いの場を作りたいだけ。特別な力があるとか、奇跡の紅茶だとか、そんな風に言われるのは本意ではない。


「考えすぎだ」


 レオンが皿を片付けながら言った。


「お前はいつも通り紅茶を淹れてればいい。それで救われる奴がいるなら、それでいいじゃないか」


「レオン...」


「第一、今日の商人だって、紅茶の力だけじゃない。お前の優しさに救われたんだ」


 レオンは照れくさそうに顔を背けた。


「ま、俺も...その...いつも救われてるしな」


「えー! レオンも素直じゃーん!」


 フィーがからかうと、レオンは真っ赤になって怒鳴った。


「うるせぇ! 皿洗い手伝え!」


 いつもの賑やかな夜。アサギは二人のやり取りを見ながら、幸せを感じていた。


 その夜、商人のマルコから手紙が届いた。


『本当にありがとうございました。久しぶりにぐっすり眠れました。これは感謝の気持ちです。珍しい茶葉を同封しました。きっと、素敵な紅茶になると思います』


 包みを開けると、見たことのない青い茶葉が入っていた。不思議な良い香りがする。


「明日、試してみましょうか」


「うん! きっと美味しいよ!」


 フィーが期待に目を輝かせる。


「でも、その前に」


 アサギは商売道具の茶器を見回した。


「浄化の紅茶のレシピを、ちゃんと残しておかないとね」


 ノートを取り出し、今日の出来事を記録する。泉の水、白茶、ラベンダー。そして何より大切なのは、相手を思いやる心。


「これで、また一つ、大切なレシピが増えたわ」


 窓の外では、月が優しく遺跡を照らしている。今日救われた商人も、きっと同じ月を見ているだろう。


 翌日から、マルコは定期的にカフェを訪れるようになった。珍しい茶葉や、各地の面白い話を持ってきてくれる。


「これは東の国の茶葉です。花のような香りがするでしょう?」


「本当! 素敵な香りね」


 アサギは新しい茶葉に心を躍らせる。


「アサギさんの紅茶のおかげで、商売も順調です。お客さんとゆっくり話ができるようになりましたから」


 マルコの表情は、初めて会った時とは別人のように明るい。


「それに、最近は良い夢を見るんです。母の夢です」


「それは素敵ね」


「ラベンダークッキーのおかげかもしれません。あれ以来、母のことをよく思い出すんです」


 マルコは優しく微笑んだ。


「悪い記憶に囚われていた分、良い記憶も封じ込めていたんでしょうね」


 アサギは、紅茶の新しい力を知った。それは、ただ悪いものを消すだけでなく、良い記憶を呼び覚ます力。


「紅茶って、本当に不思議ね」


 その日も、カフェには様々な人が訪れた。疲れた旅人、悩みを抱えた村人、ただ美味しい紅茶を求めてやってくる常連客。


 アサギは一人一人に心を込めて紅茶を淹れる。特別な力なんて、いつも必要なわけじゃない。大切なのは、相手を思う気持ち。


「今日も一日、お疲れ様でした」


 夕暮れ時、セオドアのところへ紅茶を持っていくと、亡霊騎士が珍しく質問してきた。


「聞いた...悪霊を...祓ったと...」


「ええ。でも、私は何も特別なことはしていません」


「謙遜することはない...お前の紅茶には...確かに力がある...」


 セオドアは遠い目をした。


「昔...この地にも...似た力を持つ者がいた...」


「そうなんですか?」


「茶の巫女と...呼ばれていた...人の心を...癒やす者...」


 新しい遺跡の秘密。アサギは興味深く聞いていたが、セオドアはそれ以上語らなかった。


 カフェに戻ると、レオンとフィーが明日の準備をしていた。


「おかえり〜! セオドアさんは元気だった?」


「ええ。今日は昔の話を少ししてくれたわ」


 アサギは茶の巫女の話をした。レオンが考え込むような顔をする。


「もしかしたら、お前はその巫女の...」


「まさか」


 アサギは笑った。


「私はただの元令嬢。紅茶が好きなだけよ」


 でも、心の奥では少し気になっていた。なぜ遺跡は自分を受け入れたのか。なぜ紅茶に不思議な力が宿るのか。


「ま、考えても仕方ないか」


 レオンが肩をすくめた。


「大事なのは今だ。明日も客が来る。それでいいだろ」


「そうね」


 アサギは微笑んだ。過去の謎も気になるけれど、今を大切にしよう。明日も、心を込めて紅茶を淹れよう。


 その夜、アサギは夢を見た。古代の遺跡で、誰かが紅茶を淹れている夢。その人は優しく微笑みながら、同じように人々に紅茶を振る舞っていた。


 目が覚めると、枕元に一輪のラベンダーが置かれていた。誰が置いたのかはわからない。でも、不思議と温かい気持ちになった。


「守られているのかな」


 朝日と共に、新しい一日が始まる。今日も誰かが、癒やしを求めてやってくるだろう。アサギは、その人のために、最高の一杯を淹れようと決意した。


 遺跡カフェの紅茶は、ただの飲み物ではない。それは、人と人を繋ぎ、心を癒やし、時には奇跡を起こす。でも一番の奇跡は、ここに集う人々の優しさなのかもしれない。



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