第3話:鈍色の真実と信じない瞳



長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」


第三話:鈍色の真実と信じない瞳


給湯室での衝撃的な会話と、その直後の佐藤との遭遇は、恵の心に鉛のような重りを沈めた。オフィスにいる間も、佐藤や田中の挙動から目が離せず、仕事は全く手につかなかった。一刻も早くこの場を離れ、落ち着いて対策を練らなければ。そう焦る気持ちとは裏腹に、定時までの時間は永遠のように長く感じられた。


ようやく解放されたのは、いつもより薄暗くなった空が窓の外に広がる頃だった。恵は逃げるように会社を飛び出し、雑踏に紛れながら駅へと急いだ。頭の中では、給湯室での会話が何度もリフレインし、佐藤の貼り付けたような笑顔がちらついて離れない。


「どうすれば……どうすれば翔太に信じてもらえる……?」


自問自答を繰り返しながら、気づけば自宅最寄り駅の一つ手前で電車を降りていた。少しでも歩いて頭を冷やしたかったのだ。人通りの少ない夜道を歩きながら、恵はスマートフォンを取り出し、翔太の番号を呼び出した。コール音が数回鳴った後、ようやく彼が出た。


『もしもし、恵?どうした、こんな時間に』

電話の向こうから聞こえる翔太の声は、いつもと変わらず明るく、そして少しだけ眠たそうだった。おそらく、連日の仕事と栄転準備の疲れが出ているのだろう。


「翔太、あのね……大事な話があるの。今、少しだけ時間もらえるかな」

恵の声は、自分でもわかるほど緊張で震えていた。


『ん?なんだよ、改まって。まあ、いいけど。手短にな』

翔太の口調は軽かった。恵の深刻さを、まだ彼は少しも感じ取ってはいない。


恵は一度大きく深呼吸をし、言葉を選びながら切り出した。

「実は……今日、会社で偶然聞いてしまったんだけど……」

給湯室での出来事を、できるだけ冷静に、客観的に伝えようと努めた。佐藤と田中の会話の内容、翔太の歓迎会が「完迎会」と呼ばれていたこと、そして「永遠の眠り」という不吉な言葉。


話し終えるまで、翔太は黙って聞いていた。恵は、彼の反応を固唾をのんで待った。どうか、信じてほしい。冗談だと思わないでほしい。


しかし、電話の向こうから返ってきたのは、恵が最も恐れていた種類の反応だった。

『……は?恵、お前、何言ってんだ?』

翔太の声には、困惑と、ほんの少しの呆れが混じっていた。


「本当なの、翔太!私、確かに聞いたの!佐藤さんと田中さんが……!」

恵は必死に訴えかけた。


『いやいや、待てよ。佐藤さんが俺を殺そうとしてるって?冗談きついぜ、恵。あの人が、そんなことするわけないだろ。いつも俺のこと気にかけてくれてる、良い先輩なんだぞ?』

翔太は、まるで突拍子もない作り話を聞かされたかのように、軽く笑い飛ばそうとした。


「でも、本当に……!『完迎会』って言ってたの!それに、毒物とか、グラスに何か入れるとか……」

恵の声は上ずり、涙が滲んできそうになるのを必死でこらえた。


『恵、お前、最近疲れてるんじゃないか?なんか、変な夢でも見たんだろ。それか、誰かの悪質な冗談を真に受けたとかさ』

翔太の言葉は、悪意はないのだろうが、恵の心を鋭く抉った。信じてもらえない。やはり、そうだったのか。


「夢なんかじゃない!現実なの!お願い、翔太、信じて!これはあなたの命に関わることなんだよ!」

恵はほとんど懇願するように叫んだ。


『わかった、わかったから、ちょっと落ち着けって。そんなに言うなら、明日会社で佐藤さんに直接聞いてみるよ。「俺のこと殺そうとしてるって本当ですか?」ってな。そしたら、きっと笑って「何言ってるんだ」って言われるだけだって』

翔太の口調は、どこまでも楽観的だった。恵の必死の訴えを、深刻なものとして受け止めようとはしない。


「そんなことしたら……!もし本当に計画してるなら、佐藤さんは絶対に警戒するわ!もっと巧妙に隠そうとするかもしれないし、計画を早めるかもしれない!」

恵は絶望的な気持ちになった。翔太のこの無防備さが、彼を危険に晒している。


『だーかーらー、計画なんてあるわけないんだって。恵、お前は昔から心配性で、色々考えすぎるところがあるからな。今回もきっとそれだよ。俺の栄転が決まって、少し舞い上がってるお前をからかおうとして、誰かがそんな悪戯を言ったんだろ』

「心配性で済む話じゃないの!」

恵は声を荒らげた。翔太のこの鈍感さが、今は憎らしくさえあった。彼は、恵がどれほど真剣に、そして恐怖を感じているのか、全く理解していない。


『とにかく、俺は大丈夫だから。そんな暗い話より、金曜日の歓迎会のこと考えようぜ!グランフォートホテルだぞ?最高の夜になるって!お前も、変なこと考えてないで、楽しみにしてろよ』

翔太はそう言って、一方的に話を打ち切ろうとした。


「待って、翔太……!」

恵が何かを言いかける前に、通話は切れてしまった。スマートフォンの画面には、無情にも通話終了の文字が表示されている。


「……どうして……」

恵はその場に立ち尽くした。夜風が頬を撫で、滲んだ涙を冷たく乾かしていく。

信じてもらえなかった。

翔太にとって、恵の言葉は「心配性の幼馴染の戯言」程度にしか受け取られなかったのだ。


絶望感が全身を支配する。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。翔太が信じてくれないのなら、別の方法を探すしかない。


そうだ、証拠だ。

翔太に信じさせるには、揺るがぬ証拠が必要だ。

佐藤たちが話していた「毒物」。それを手に入れるための具体的な計画。あるいは、彼らの会話を録音したもの。

それがなければ、誰も恵の言葉を真剣には取り合ってくれないだろう。


だが、どうやって?

素人の自分が、プロの犯罪計画の証拠を掴むことなどできるのだろうか。

危険すぎる。もし失敗すれば、今度こそ佐藤に気づかれ、自分自身がどうなるかわからない。


それでも、やるしかない。

翔太のあの能天気な笑顔を、守らなければならない。

恵は、唇を強く噛みしめた。鈍色の真実を、翔太の信じない瞳に、どうにかして映し出さなければならない。


歓迎会まで、あと二日。

タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

恵は、重い足取りで、再び自宅へと向かい始めた。頭の中では、次の行動計画が猛スピードで組み立てられようとしていた。孤独で、危険な綱渡りが始まる予感が、背筋を凍らせた。


(つづく)

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