第4話:孤独な調査と忍び寄る影
長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」
第四話:孤独な調査と忍び寄る影
翔太に信じてもらえなかった翌日、恵の心は鉛のように重かった。それでも、会社へ向かう足取りには、昨日までとは違う種類の決意が宿っていた。翔太が頼りにならないのなら、自分で証拠を掴むしかない。危険は承知の上だ。
オフィスに足を踏み入れると、すぐに佐藤の姿が目に入った。彼は何人かの同僚と談笑しており、その表情はいつもと変わらず温和だ。恵は努めて平静を装い、自分のデスクへと向かった。佐藤と目が合ったが、彼は軽く会釈しただけで、特に変わった様子は見せなかった。昨夜の恵からの電話について、翔太から何か聞かされているのかもしれない。だが、それを悟らせるような素振りは一切ない。
(あの男……本当に何を考えているのか分からない)
恵は、佐藤の底知れなさに改めて恐怖を感じた。だが、怯んでいる時間はない。
まず、佐藤の行動パターンを把握する必要がある。彼がいつ席を立ち、誰と接触し、どこへ行くのか。そして、可能であれば彼のPCや私物を調べるチャンスを窺う。
恵は仕事をするふりをしながら、神経を研ぎ澄ませて佐藤の動きを観察した。彼は午前中、ほとんど自席で作業をしていたが、時折、後輩の田中と短い会話を交わし、何か指示を出しているように見えた。田中は、恵の視線に気づくと、サッと目を逸らし、どこか落ち着かない様子だった。
(田中くんは、明らかに動揺している。彼なら、何か突破口になるかもしれない)
昼休み。多くの社員が社員食堂や外へ食事に出る中、佐藤は自分のデスクで弁当を広げ始めた。恵は、これをチャンスと見た。
「佐藤さん、お昼ご一緒してもいいですか?ちょっと、翔太の歓迎会のことで相談したいことがあって」
恵は、できるだけ自然な笑顔を作って佐藤に話しかけた。内心では、心臓が早鐘を打っていた。
佐藤は一瞬、恵の顔をじっと見つめたが、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「ああ、水野さん。もちろんいいよ。なんだい、相談って?」
その目は、値踏みするような、それでいて全てを見透かしているような、不気味な光を湛えているように恵には感じられた。
恵は、当たり障りのない歓迎会の余興のアイデアなどを口実に、佐藤の反応を窺った。佐藤は親身にアドバイスをくれるふりをしながらも、時折、鋭い質問を挟んでくる。
「そういえば水野さん、昨日は桐島くんに何か連絡したのかい?彼、少し様子がおかしかったように見えたけど」
「いえ……別に、大したことでは……」
恵は言葉を濁した。佐藤は、確実に探りを入れてきている。
食事が終わり、佐藤が給湯室へ食器を下げに行った隙を狙って、恵は彼のデスクに近づいた。ほんの数秒。PCはパスワードでロックされている。引き出しは鍵がかかっているものと、そうでないものがある。鍵のかかっていない一番上の引き出しをそっと開けると、そこにはありふれた文房具や書類が並んでいるだけだった。
(ダメだ、これじゃ何も……)
焦りが募る。その時、引き出しの奥に、小さなUSBメモリが紛れているのが目に入った。何の変哲もない、黒いUSBメモリ。しかし、恵の直感が、それが何か重要なものである可能性を告げていた。
手に取ろうとした瞬間、背後から声がかかった。
「水野さん、そこで何をしているんだい?」
佐藤の声だった。彼は、いつの間にか給湯室から戻ってきていたのだ。その声には、明らかに不審の色が滲んでいた。
恵は心臓が凍りつくのを感じた。咄嗟に引き出しを閉め、振り返る。
「あ、いえ、佐藤さんの使っているペンが素敵だなと思って、どこのメーカーのものか見せていただこうかと……」
我ながら苦しい言い訳だった。
佐藤は何も言わず、恵の顔をじっと見つめた。その沈黙が、恵の不安を極限まで高める。数秒が永遠のように感じられた。
やがて、佐藤はふっと表情を緩め、いつもの笑顔に戻った。
「ああ、これかい?ただの安物だよ。水野さんも気に入ったなら、一本あげようか?」
そう言って、彼は引き出しから別のペンを取り出し、恵に差し出した。その目は笑っているが、奥底には冷たい光が宿っている。
「い、いえ、大丈夫です!お騒がせしました!」
恵は慌ててその場を離れた。背中に突き刺さるような佐藤の視線を感じながら。
(見られたかもしれない……USBメモリのこと)
デスクに戻っても、動悸が収まらなかった。完全に失敗だ。佐藤に怪しまれた可能性が高い。これ以上、オフィス内で無闇に動くのは危険すぎる。
夕方、恵は意を決して田中に接触を試みた。彼が一人でコピーを取っているタイミングを見計らい、声をかける。
「田中さん、少しだけお話できませんか?」
田中は、恵の顔を見るなり、明らかに狼狽した。
「な、なんですか、水野さん……僕、忙しいんで……」
「お願いです、翔太さんのことで、どうしても確認したいことがあるんです」
恵は真剣な目で訴えかけた。
田中は周囲を気にするようにキョロキョロと見回し、小さな声で言った。
「……ここではまずいです。今日の帰り、駅前のカフェでなら……でも、本当に少しだけですよ」
恵は、僅かな希望の光が見えた気がした。
約束の時間、カフェの隅の席で待っていると、田中は約束通り現れた。しかし、その顔は青ざめ、憔悴しきっているように見えた。
「単刀直入に聞きます。佐藤さんと一緒に、翔太さんをどうするつもりなんですか?」
恵の言葉に、田中はびくりと肩を震わせた。
「な、何のことだか……僕にはさっぱり……」
「給湯室で聞きました。翔太さんの歓迎会は『完迎会』だと。そして、『永遠の眠り』を贈ると」
恵が核心を突くと、田中は俯き、震える手でテーブルの上の水を掴んだ。
「……あれは……ただの冗談ですよ。佐藤さんが、ちょっとブラックなジョークを言っただけで……」
彼の声は弱々しく、説得力に欠けていた。
「冗談であんな具体的な話はしません。毒物の準備もしているんでしょう?田中さん、あなたは本当にこのまま翔太さんを見殺しにするつもりですか?彼に何か恨みでもあるんですか?」
恵の言葉は、次第に熱を帯びていく。
田中はしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げ、苦しそうな表情で口を開いた。
「……僕は……ただ、佐藤さんに逆らえなかっただけで……」
その目には、恐怖と後悔の色が浮かんでいた。
「佐藤さんは……怖い人なんです。一度目をつけられたら、何をされるか……」
「それでも、人の命がかかっているんですよ!もし、今からでも協力してくれるなら……」
恵が言いかけた時、田中のスマートフォンが震えた。画面を一瞥した彼の顔から、サッと血の気が引いた。
「……すみません、もう行かないと。僕は、何も知りません。水野さんも、余計なことには関わらない方がいい。本当に……危ないですから」
田中はそう言うと、足早にカフェを立ち去ってしまった。テーブルには、手付かずのコーヒーが残されている。
(またダメだった……)
恵は深いため息をついた。田中は明らかに何かを知っている。そして、佐藤を恐れている。彼を説得するのは容易ではないだろう。
カフェを出ると、いつの間にか日が暮れかかっていた。一人で歩く帰り道、ふと背後に人の気配を感じた。振り返っても、雑踏に紛れて誰かは特定できない。しかし、見られているような不快な感覚が、首筋にまとわりつく。
(気のせい……?いや……)
恵は早足で歩き始めた。佐藤の影が、じわじわと自分の生活に忍び寄ってきているような、言いようのない恐怖を感じていた。
証拠を掴むどころか、自分自身が危険な状況に追い込まれつつある。
それでも、諦めるわけにはいかない。翔太を救うためなら。
孤独な調査は、まだ始まったばかりだった。そして、その背後には、確実に何者かの影が迫ってきていた。
(つづく)
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