第9話

残りの夏休みは、ずっと変わらず日雇いの仕事や訓練をこなして日々を過ごした。


運の悪いことにできれば一緒には働きたくない相手と何度も一緒の班に配属されて全くついてないと思った。


彼は俺たちのような立場の弱いものを見つけては、力で言葉で他者を威圧し嬲り、自らの優位性を誇示することに余念がない男で、彼と一緒に仕事をすると、何人かが仕事の途中でいなくなるようなこともしばしばだった。


仕事中何度も暴言を浴びせかけられたり暴力を振るわれたりしたけれど、何故だか不思議と耐えることができた。


体に鞭打って働いた後のある日の休日、俺はいつものように朝起きて厩舎の掃除と馬の世話をした。その日は荷運びの仕事の無い日だった。


俺は馬房に着くと学園の職員たちと協力して全ての馬に水をやって餌を食べさせ、それから体を綺麗にしてやる。それが終わるとすぐに寮へ戻って自分の朝食を摂り、また馬場へ戻った。乗馬の訓練のために。


午前九時にも関わらず夏の日差しはもう肌を焼くほど暑くなり始めていた。じんわりと汗を感じながら厩舎へ到着する。俺は鼻歌なんて歌いながら厩舎に入ると、アルベルトが俺の視界の中に飛び込んできた。彼は俺がこれから乗せてもらう予定の馬の頭を撫でているところだった。


彼はいつも俺を驚かせる。俺は心底驚いて開いた口がふさがらなかった。今日王子がここにいるなど知らなかった。


そうして驚き立ちすくむ俺に彼が遅れて気がついた。すぐに、俺の内心の動揺をよそに、その顔に満面の笑みが浮かぶ。


そして、自分の長い脚を動かし、ゆったりとした動きでアルベルトがこちらへやって来た。金髪と青い瞳が光を受けて煌いている。朝からなんとまぶしい男だろうか。


何とはなしに、地味な自分の姿を振り返った。


夏の日差しがかんかんと照りつけ、その日差しを受けて旺盛に繁茂する雑草が風に揺れているなかに、学園の厩舎はある。用がない生徒が進んで近づくことのない学校の片隅にあって、馬の匂いと草いきれが辺りに立ち込めるような場所なのに、王子はやって来ていた。


どういうわけかその似つかわしくない彼の存在によって、平民である自分のほうが場違いな場所に入り込んでしまっているような錯覚を覚えさせられた。どう見ても、場違いなのは相手のほうのに。


彼には自分のいる場所を、自分がいるべき場所へと変えてしまうような雰囲気があった。


「何故ここに……」


俺の口から意図せず小さな呟きが漏れた。


しかしアルベルトはそれにはどうやら気が付かなかったようで、朝から溌剌とした声で話しかけてきた。


「やぁ。おはよう、キース。久しぶりだね」

「……ええ、はい。お久しぶりです」

「元気だったかい?王都は暑いね」

「はい、おかげさまで……。殿下もお変わりないようで良かったです」

「うん。避暑地へ行っていたからね。つい最近帰ってきたところだよ」

「そうなんですね」


随分長い間姿を見かけなかったのは、王都を離れていたからかと思った。それに避暑地とは。さすが王子。


そう思っていた俺は、とっさに辺りを見渡した。彼の友人のデミアンもいるかもしれないと思ったからだ。しかし、どうしたわけかこの日は侯爵家子息の姿はなかった。代わりに離れた場所に護衛の兵の姿が見えた。気づかなかった……。


「ですが、どうしてこんなところに……?」

「以前君は午前中は馬の世話と乗馬の訓練をしていると言っていただろう?だからね、ちょっと見学に来たと言うわけだよ」


さらりととんでもない発言を差し込んできた。まさか、今日俺はこいつと一緒に馬に乗らないといけないなんてことはないよな……?


「ザント号に乗るのかい?」

「ええ、はい。そうです」


俺は警戒しながらそう答えた。


ザント号は授業で俺たちを乗せてくれる慣れ親しんだ馬であり、夏の間俺を乗せてくれる素晴らしい相棒だ。


「僕も手伝うよ」


すると、案の定不穏な言葉を吐いた。


そして彼はそう言うなりザント号を馬房から出して轡をとると歩き出した。


今アルベルトが楽し気にその馬に話しかけながら引いていく。その後ろ姿を俺は見ていた。王子は非常に浮かれているように見えた。


しばらく見送ってから、俺は仕方なくその後についていく。少し進んで、確認するように振り返ってこちらをみる。きちんと俺が着いてきていることを確認して、また彼は笑った。


俺は無言のまま戸惑いを押し殺して歩き、目の前の男がどういう意図でここへきたのかを考えていた。よくよく見てみれば、ちゃんと馬術用の装いに身を包んでいる。やる気満々じゃないか……。


馬場に到着すると、彼は俺にザント号を明け渡した。


馬に乗る前に、念入りにその状態を確認してから、俺は習った通りに馬の背に跨る。それからザント号に話しかける。いつもしていることだ。これをすると、馬が言うことを聞いてくれるような気がしていた。


アルベルトがそんな俺のやり取りの様子をじっと観察している。その視線が背中に突き刺さっているような気がする。


俺はなんとかその視線を頭から追い出して、授業で習った通りに常足でゆっくりと歩かせる。


週に一度しかない乗馬の授業は今年から始まったばかりだ。一年次は馬に関する知識や世話の仕方、乗馬の方法などの知識を入れる授業が三学期にあったのみで、平民の俺は今年の四月に初めて馬という生き物に乗った。


学園にいる馬の数は多くは無いので、実際に授業中に乗せてもらえるのは週に一度。


だから、俺の乗馬の技術は春から全くと言っていいほど上達はしていない。座学では馬の乗り方を習ったが、話に聞くのと実際にするのとでは、生き物を相手にしているだけに、全くの別物だった。


なんとしても好成績を維持したい俺にとっては、この乗馬という授業は鬼門だった。家で既に乗馬の練習をしてきているような貴族連中が上位成績を独占するだろうことは、授業開始後すぐに理解した。経験者と未経験者では全く違うのだ。


正確な馬の扱い方を身に付け、美しい姿勢で乗りこなせるようになる。それがこの授業の大目標ではあるが、歩かせることすら初心者の俺には難しかった。


「恐れてはいけないよ。不安は馬に伝わってしまうからね」


馬をしばらく歩かせていると、そう王子が声を掛けて来た。


さすが王子というべきか、彼から見ると、俺の乗馬は問題だらけのようだった。


「恐れているように見えますか?私としては普通なのですが……」


俺は柵に寄り掛かって俺の動きを観察している男に向かって答える。


「それじゃあ無意識なんだね。僕から見れば上半身が堅いよ。しかも、上半身に変な力が入っているせいで、下半身にも余計な力が入っているんだ。そのせいで馬が不安になっている」

「わかりません」

「ここだよ。ここに力が入っている」


アルベルトがおもむろに近づいてくると、そう言って止まっている俺の側に来た。長い腕を伸ばすと、馬上の俺の背に彼の手が触れた。それからついでのように太腿を叩く。


「一度深呼吸してみよう。首や肩周りをほぐすんだ。ゆっくりね」

「はい」

「どう?力は抜けた?」

「たぶん……」

「じゃあもう一度、馬を進ませて。最初は常足、それから僕が合図をしたら速足へ移行して。焦らず落ち着いて」

「歩きの練習しか許されていないのですが」

「僕が見ているから大丈夫」


王子が見つめる中、俺は再び馬を歩かせる。ザント号は気性が学園にいる馬の中で一番落ち着いている。落ち着いているというよりも、むしろのんびりしていると言っても良いくらい穏やかな性格の馬だった。だから、一人での乗馬の練習を許されているともいえる。


そののんびり屋の馬が俺の指示に従ってゆっくりと歩く。俺は教師に言われたことを思い出しながら馬の動きに合わせて体を動かす。


「うーん。まだ硬い気がする」

「そうですか?」

「乗っているだけで疲れるだろう?」

「はい」

「それは、動きが馬と連動していないからだよ。馬の脚の動きに合わせて自分の体もリズムを刻むんだ。常足だからまだいいけれど、速足、そして駈足になったときにそれでは、君だけでなくザント号にも負担が大きい。お互い気持ちよく走れないし、怪我の原因にもなる」

「リズムと言われましても、馬は四本も足があるんですよ。小刻みの動きにどう合わせたらいいのかさっぱりわかりません」

「まぁ、うーん。そうだけどそうじゃないんだよなぁ。どうしたものか」


王子の言葉に俺は一度馬を止まらせる。


「ご指導いただいたのに、物覚えが悪くて申し訳ありません」

「気にしなくていい。上手く言えない僕のほうにも問題がある。こういうのは経験だし、誰にだって得手不得手はあるよ」

「もう少し、一人で練習してみます」

「いや……」


俺は気を使って練習するより一人の方が気楽だったので、そう言ってみたが、王子は何やら考え込むように黙り込んでしまった。機嫌を損ねてしまっただろうかと、不安になる。


ザント号が小さく鳴くのが聞こえた。


「そうだ。一緒に乗ってみようか」

「え?」


しばらく考える風だった彼が、頭を上げると突拍子もないことを言い出した。その顔には良いことを思いついたという、子どもっぽい表情が浮かんでいた。


「一緒に乗れば、僕の言っている意味が分かると思うんだ」

「いや、え?駄目ですよ。そんな、そんなことはできませんよ」

「大丈夫。僕は慣れているから」

「いえ、無理ですよ。さすがに私のような平民がご一緒するなど、許されません。護衛の方たちも見ています。彼らが何と思うか……」


俺は説得を試みた。どうあっても辞めさせねばならない。誰かに見咎められたらと思うと、気持ちが焦る。王子と二人乗りなど、さすがに不敬すぎると思った。


「気にしなくていい。彼らは護衛であってお目付け役ではないからね。だから、ほら、一度馬から降りてくれ。今から僕が手本になるよ。君は少し乗り心地が悪いとは思うけれど、我慢して僕の後に乗るんだ」

「いえ、できません。それなら、横で見ています。あなたが馬に乗って走ってるところを。それで十分です」


俺の内心の焦りを知ってか知らずか、王子は颯爽と馬の近くまでくると、戸惑う俺に馬から降りるよう言ってきた。


「駄目だよ。見てるだけなんて、全く意味がない」


そう言って身振りで俺を促すので、その指示に従って俺は馬から降りた。


手綱を彼に渡す。


「二人も乗れませんよ」

「大丈夫。この馬は雄だし、乗馬の授業でも、教師と生徒が二人乗りをしたりしてるだろう?」

「ですが……」

「いいから、僕が教えてあげるよ」


そう言うなり、彼はさっさと馬に跨ってしまった。俺の取り付けた鞍に跨ると、自分の後にあるスペースを手でたたいて促す。アルベルトの目が笑みのために細められる。そこに乗れと言うのか……。


逡巡する俺にアルベルトは笑顔の圧を強めた。仕方なく俺は王子の説得を諦めて、しぶしぶ彼の後へ乗る。伸ばされた手を掴んで、不安定ながらなんとか落ちることなくまたがることができた。


鞍無しで馬に乗るのは初めてのことで、その不安定さに戸惑う。


「不安に思うだろうけれど大丈夫。僕を信じて、僕の腰に手を回すんだ。しっかり掴まっていないと滑り落ちるからね」

「それは……」

「構わないよ。ほら、早く」


強引に俺の手を掴んで腰へと誘導するのに折れて、彼の腰に掴まった。思った以上にがっしりとしている。


「もう少しきつく。そう、いいね」


言われるがままに少し強いかなと思う力加減で腰を抱きしめると、俺たちは随分密着する形になった。俺の頬が広い背に触れる。


アルベルトの熱い背中越しに、彼の匂いがした。


緊張して鼓動が速まるのが分かる。


「リズム感はなかなか理解するのが難しいと思うから、僕のやるのをしっかり感覚で掴むんだよ。いいね?」

「はい」

「途中で手を離したらだめだよ。少し収まりが悪いとは思うけど我慢してくれ」

「大丈夫です。よろしくお願いします」

「うん。じゃあ行くよ」


そう言って、アルベルトが馬のわき腹を鐙で叩くと、ザント号が静かに歩き出した。


最初は常足でゆっくりと馬場を進む。俺が滑り落ちないかをアルベルトが繰り返し確認した。


「僕の背にもっと密着するんだ。腰の動きをよく注意して見るんだよ」


言われるがままに、その背にすがるように体を寄せて彼の動きに意識を向ける。


滑り落ちるような心配が無いとわかると、彼が速足へと移行した。ザント号がすいすいと進む。風が気持ち良い。


アルベルトが馬上で立つ座るを繰り返す。その動きは少しだけ俺を困らせた。


彼の腰の位置が上がったり下がったりを繰り返している。


俺はそれを意識して自分の中で反復した。


「辛くない?」

「……はい。大丈夫です」

「良かった」


俺の動揺を知らないアルベルトの、楽しそうな声が耳に届く。なんだか申し訳ない気がした。


彼の後にくっついて馬場を周回する。夏の日差しがじりじりと俺とアルベルトを焼く。じんわりと汗がにじむのを感じた。


俺はただじっと余計なことを意識しないよう気をつけながら、アルベルトの腰に手を回して、その背中に頬を押し付けていた。徐々に体が熱くなっていく。アルベルトの火照る体温を頬に感じながら、俺は彼の作るリズムをひたすら数えていた。


それから、今度は俺の後にアルベルトが跨って二人乗りをすることになった。


太い腕が腰に回されて、くすぐったいような恥ずかしいような気にさせられる。


さすが慣れているだけあって、アルベルトはその力強い腕だけで俺を支えている。


「苦しくない?」

「はい」

「じゃあ、馬に指示を出して」


言われるがままに俺は馬を歩かせる。アルベルトの腰の動きを思い出しながら。


何度も背後からアドバイスを受けながら、俺は常足の練習をし、ある程度形になったと判断されてからは速足の練習もした。


休憩を挟みながら何度か繰り返し、後半の方は最初と同じようにアルベルトが俺の乗馬の様子を離れたところから観察してアドバイスをくれた。俺はただ彼の声に集中して言われるがままに馬を動かし続けた。


そうしていると、遠くで正午の鐘がなるのが聞こえて、ふと現実に帰る。もうこんな時間かと思った。


あっという間に三時間近くが過ぎていた。


「昼だ。そろそろ行かないと」


アルベルトがそう言った。


その一言が耳に入ったとき、懐かしい感覚を覚えた。それは幼い頃に幾度と感じたものだった。


けれど俺はその感覚を言葉にはせず、それとは裏腹の言葉を吐いた。


「わかりました」

「名残惜しいけれどね」


そう、王子が言った。


「アルベルト」


馬から下りて、厩舎へ戻ろうとしていると、どこかから彼の名を呼ぶ声がした。その声のした方を見ると離れたところにデミアンが立っていた。王子を迎えに来たらしい。


「迎えが来た」


残念そうな響きの声が耳に届いた。


「実はこの後、彼と出かけるんだ」

「そうなんですね。どちらへ?」

「知り合いの家で、音楽会があるんだ。演奏家の卵たちが集まる会だ。それにデミアンとともに呼ばれていてね」

「なるほど」

「折角動きが良くなってきたところなのに、ここで終わらせるのは中途半端で嫌なのだけれど仕方がない。ごめんね」

「いえ、これ以上は甘えられません。ありがとうございました。後は一人でやってみます」

「僕が教えたことを忘れないで」

「はい」


デミアンが来て、俺に挨拶すると、王子を引っ張って二人は帰っていった。


俺はその後昼食を摂り、午後は魔法の訓練をした。一日、有意義に過ごしたその疲れから、夜はすぐに眠りについた。


いつもとは全く違う一日だった。


そして夏休みの最終日になった。三人で外出する約束をしていた日だ。


俺は憂鬱な気持ちを抱えて目が覚めた。今日の予定のことを思うと、気持ちは際限なく落ち込んでいきそうだった。


約束通りに昼過ぎに図書館へ向かうと、二人が俺を待ち構えていた。二人を見た瞬間、俺の胸に曰く言い難い気持ちが湧き上がったけれど、俺はそれを無視した。


今日のことを思い浮かべる。


覚悟を決めろ俺。


「本日はよろしくお願いします」

「あぁ」

「うん、よろしく。ところで、君は今日も本を借りるのかい?」


アルベルトが俺に聞いてきた。俺はその質問に首を振って答える。


「お二人を待たせるわけにはいきませんので」

「そんなこと気にしなくていいんだよ」

「ありがとうございます。ですが、今日は良いんです」

「分かった。では、行こうか」


そう言うと、アルベルトが先頭に立って歩きだした。その後を俺とデミアンで追いかける。


以前と同じように車廻しに侯爵家の馬車が止まっていて、三人でそれに乗り込むと、馬車は軽快に走り出した。俺は憂鬱な気持ちを抱えて、馬車に揺られながらデミアンの家へ向かった。


目的は、以前頼んでいた俺のタキシードを受け取ることだった。それが今日侯爵家に届くことになっている。それに着替えてから、国立歌劇場へと向かう予定だった。


道中、アルベルトが無邪気に俺に会わないでいた間のことを尋ねてきた。俺はもっぱら馬の世話と乗馬の訓練の話をした。他に王子の耳に入れても問題のない話題といったら、それしか思い浮かばなかったからだ。


彼は何がおもしろいのか、俺の話すただの乗馬の話に熱心に耳を傾け、アドバイスをくれる。そして興味深そうに輝く青い瞳に俺を映した。


そうやって三人で馬車の中、他愛のない会話をしているとすぐに目的地についた。今日は侯爵夫人は出迎えの中に居なかった。


到着後すぐに客間へと案内されると、待ち構えていた職人の手によって俺はすぐに髪の毛を切られた。わざわざ侯爵邸お抱えの職人を呼び出していたようで、俺はされるがままに髪の毛を整えられた。


それから、丁度俺の髪が切り終わったころに別の者たちが到着した。見ると、あの時店で応対してくれた白髪の男性ミゲルと採寸してくれたケインだった。それから知らない女性も一人いた。


「ミゲル、さっそく完成したものを見せてくれ」


デミアンが声をかける。


ミゲルと呼ばれた男が後ろに控えているケインに目配せして、スーツケースから完成品を取り出した。


ちらりと見えたそれはとても素晴らしいもののように見えた。


「最終確認を行いますので、こちらにお召し替えを」


ケインが言う。


俺は、ケインに案内されて、隣の部屋に移動する。女性も俺たちの後について移動してきた。


俺はすぐに制服を脱ぐよう言われる。ここで脱ぐのかと目で尋ねると、ケインは当然だと言うように頷いた。傍に控えている女性も、当たり前のような顔をしている。そういうものなのか。


俺は仕方なく服を脱ぐ。新しい下着を買っておいて良かった。


スラックス、シャツ、ジャケット、靴などなど一つずつサイズが合っているかを確認される。


全てを着用し、そのバランスを前後左右から確認され、ケインがほっとしたように頷いた。問題ないらしい。良かった。


俺がタキシードを身に付けたままで二人の居る部屋へ戻ると、アルベルトとデミアンは優雅にお茶を飲んでいるところだった。二人がそろってこっちを見た。


「うん。注文通りの出来だ」


デミアンが言う。


「なかなか似合っているじゃないか、キース」


アルベルが感心したように言う。


「ありがとうございます」


俺はデミアンと殿下と、用意してくれたミゲルたちに向ってそれぞれ礼をいった。


二人は鷹揚に頷き、ミゲルたちはは恭しく頭を下げた。


そして、別のスーツケースを空けると、またも新しくタキシードを取り出す。それを見たデミアンが立ち上がって別室へ移動した。どうやら、彼も新しく誂えていたようだった。


「さて、では僕も着替えてこよう」


そういうと、アルベルト王子も別室へ移動する。


しばらくして、着替えた二人が部屋へ戻ってきた。


ミゲルたち一行がデミアンの新調したタキシードの出来栄えを確認してから退室していったあと、今度はお仕着せをきた男が入室してきた。俺に向かって、デミアンの従僕のギャゼルだと自己紹介した。


「御髪を整えさせていただきます。こちらへ」


そう言われて、一人ずつまた別室に移動する。


アルベルトとデミアンに続いて俺が別室へ案内されると、そこで人生初の整髪料を使って、髪の毛をそれっぽく撫でつけられた。鏡に映る自分が、全くの別人のように見えた。


全ての準備が完了したあと、まだ時間に余裕があったのでお茶を飲んで時間を潰してから再び馬車に乗り込んだ。シルクハットをかぶらされ、絹の手袋を身に付けさせられた。それから、アルベルトが手づから俺の胸ポケットに美しくハンカチーフを差し込んで、その出来栄えに良しと言って俺に笑いかけた。


このどれか一つでもなくしたらどうしようかと、俺はそんなことばかりが気になって、アルベルトの笑顔に曖昧に笑うことしかできなかった。


再び馬車に乗って俺たちは移動した。しばらくゆられた後で馬車を降りると、目の前に王立歌劇場があった。


夕暮れの茜色の空を背景に、種々の照明に明るく照らし出され、その存在感をはっきりと露わにしてそれは俺の目の前に存在していた。


その贅沢の粋を集めて建てられた外観の華美さは決して下品なものではなく、計算されつくした照明の灯によって荘厳な雰囲気を醸し出してさえいたけれど、それは俺を威圧しているようにも思われた。


行くか、と言ってアルベルトが歩き出す。その後を二人ついて歩く。


貴族専用の入場口から場内に入ると、すぐに劇場の支配人がやってきた。ずっと待っていたのだろうか。


かなり上の立場の人間なのだろうに、王子に頭を下げて自らで俺たちを案内してくれるようだった。俺たちは三人固まってその後についていく。


さすがに、随一の人気をもつ演劇とあって、辺りは人でごった返している。貴族は外出時は従者をつれていくので、この込み具合はそのせいもあるのだろう。途中、従者の控室が目に入った。


そんな人混みの中を進むアルベルトを見た貴族連中が、次々に道を空けていく。ときおり、アルベルトやデミアンに挨拶がかかった。相手が随分年上の貴族であっても、彼らは全く普通のことのように立ち止まって簡単な会話を繰り広げた後で、優雅に一礼して先へと進んでいく。移動した先で幾度か同じことが繰り返されたために、俺らの進みは酷くゆっくりしたものだった。


二人が一斉に視線を集めているために、その後ろにくっついている俺にも人々がちらちらと視線を投げかけている。誰なのかを探るような視線と、口元を隠しながら噂しあうのが目に見えた。しかし、誰一人俺には話しかけることはないし、俺も口を開こうなどとは思わなかった。


二人が立ち止まって話をしているようなときは、俺のせいで彼らに変な噂がたつことのないよう、俺はしっかりと両足に力を入れて姿勢良く立ち、ただ前をじっと見ていることしかできなかった。


本当は内装や周囲の人たちの格好などをもっとよく観察したい衝動に駆られていたけれど、なんとかそれを堪えて、まるで自分が銅像にでもなってしまったかのように、その場に立ち尽くした。


時々、俺が誰なのかを問う声が目の前の会話の合間合間に聞こえてきたが、学園の友人だという言葉で二人が封殺してくれて、俺を紹介するというようなことはなかった。俺はただ無言で、できるかぎり優雅に見えるように一礼するだけにとどめた。そうすると、相手もそれ以上深くは詮索してこなかった。


もし仮に紹介などされても、紹介を受けた貴族のほうが困っただろうし、俺も何も話すことなどなかったので、ありがたかった。


「いやすまない。久しぶりに顔を合わせる人が多すぎて、一人ずつ対応していたら随分時間がかかってしまった」


アルベルトが申し訳なさそうに言う。


「いいえ、お気になさらず。私は大丈夫です。お気遣い感謝いたします」


どこで人が聞いているかわからないので、専用のボックス席に入るまでは、会話に気をつけなければいけない。


「うん。さて、こっちだ」


支配人に先導されながらたどり着いたのは王族専用のボックス席だった。三階席からの眺めは圧巻の一言で、眼下には人がところせましと座って開演を今か今かと待ち構えているようだ。左右を見渡せば、俺たちと同じようなボックス席やバルコニー席に、きらびやかな衣装に身を包んだ貴族たちが、優雅にお茶を飲みながら腰かけているのがみえる。


俺たちも給仕から飲み物をそれぞれ受け取った。


「今日の劇は、お二人はもうすでに観劇されたのですか?」

「そうだな。私はこれが二回目だ」

「僕は付き合いでこれが三度目だよ。しかし、とてもよくできた脚本で繰り返し見ても新しい気づきがあるから飽きないんだ。期待してくれ。脚本だけでなく、俳優たちの演技も圧巻だ。音楽もすばらしい」

「そうなんですね」

「恋愛をテーマにしているけれど、この劇に関しては男の僕たちでも十分楽しめる。さぁ、始まるようだ」


ざわざわとしていた喧騒が、照明が落とされるのに合わせて静かになっていく。


ふと、隣を見ると俺の視線に気づいたアルベルトが楽しそうに笑った。


劇は身分違いの男女の恋物語だった。


貴族の男が学者の娘と恋に落ちる話で、三幕構成の劇だ。第一幕は二人の出会いと深まる関係が描かれていた。休憩を挟んで第二幕では、身分違いながら結ばれる二人と、しかし許されざる恋のために二人の関係は無情にも引き裂かれ、その悲しみの中で女が自殺し、一人残された男が悲しみに暮れるという筋書きだった。


合間合間にアルベルトが俺の方を向いて、次から面白くなるんだ、だとか、この後すごい展開がやってくるぞ、などと本当に楽しそうに話しかけてきた。俺は、その無邪気な言葉に、いつも以上に、感情を込めて驚いたり面白がったり笑ったりして見せた。


誰かと同じものを見て同じ気持ちを抱くという経験は、悲しみ以外の共感は、俺にはほとんど初めてのことだった。


二幕まででヒロインが死んでしまったために、話がこれで終わってしまったかのように見えたが、まだ第三幕が残っている。


アルベルトが、ここからがこの脚本の真骨頂なんだ、と囁いた。俺はその言葉に、このあとの展開がどうなるのだろうと俄然興味が湧いた。


静かに幕が上がって舞台に主人公が登場した。彼は、恋人の死を嘆きひたすらに神に祈っていた。すると話は思いもよらない方向へ進みだした。


彼の願いを聞き届けた神の恩寵によって、男は女の死の前へと時を遡ったのだ。そして、彼は彼女の死ぬ未来を変えるために様々な困難を潜り抜けて、最後には二人で隣国へと駆け落ちするというところで話が終わった。


会場には割れんばかりの拍手が巻き起こっていた。俺も拍手を贈った。


良くできた話だったと思う。演技もすばらしく、音楽は情感がこもっていて感情を揺さぶった。


特に途中の剣戟の場面は迫力があり、息をもつかせぬ緊張感があった。主人公の男が華麗に追っ手を切り伏せる場面は、俺の心を掴んだ。


カーテンコールの後、人々が徐々に捌けていく。俺たちは急ぐ必要もないので、出された茶を飲みながら感想を言い合った。


「どうだった、キース?初めての観劇は」

「すばらしかったです。こんな素晴らしい物を特等席から見ることができて、お二人には感謝してもしきれません」

「それは良かった」

「特にあの剣戟の場面はすごかったです。手に汗を握るほどでした」

「男はみんなあそこを褒めるんだ」

「話の筋書きも私には斬新なものに感じられました。神が時間を巻き戻すなんて、今まで聞いたこともない展開で、第三幕は何が起きるか目が離せませんでした」

「そこが、この劇を特別なものにしているんだ。誰も思いつかない。時を巻き戻すなんて、聞いたこともない。主人公の男が神に祈る場面は真に迫っていて心を揺さぶられるし、それが神が彼に手を貸すという話の流れに説得力を与えていた」

「あの演技のおかげで主人公役の男は一気に名を上げたと聞く。脚本家も。彼女の次回作が楽しみだ」

「女性が脚本家なのですか?」

「あぁ、そうだと聞いている。ものすごい才能だ」

「全くもって同意するよ。女性らしい鋭い感覚で、登場人物たちの感情の機微を見事に描き切っている。男と女の深い悩みや慟哭、喜びや恐れや、そういったあらゆる感情の変化が、この物語を特別なものにしている」


アルベルトが思い出すように目をつむる。


「これほどの人の愛を描いた物語は今後当分は出てこないだろうが、この筋書きを真似した作品はこれから世に多く出回るだろうな」

「あぁ、デミアンの言う通りだろうね。オペラにもこの話の筋書きが取り入れられるんじゃないかと僕は予想しているよ。全くもってすばらしい話だからね。まぁ、話は素晴らしいけれど、実際の生活であれほど起伏に富んだ人生を経験するのは、ちょっと御免被りたいかもしれない。僕だったら心と体がもちそうにないから」

「そうだな。まぁ、貴族の私たちには関係のない話だとも言える。だからこそ、却って貴族たちに持て囃されるという結果になったのかもしれないが」

「政略結婚ではあれほどの大恋愛は無理だからね」


アルベルトが含み笑いしながら言った。デミアンが同意するように頷く。


「そういうものなのですか?」

「あぁ、君は知らないか。僕たち貴族はだいたいが親の決めた相手と結婚する。もちろん家にもよるけれど、ほとんどの貴族はまず好きな相手との結婚は無理だろうね」


遠くを見るような表情で王子が言う。


「ある日突然、この人がお前の結婚相手だと言って連れられてこられる女性。お膳立てされた出会い、お膳立てされたロマンス、お膳立てされたゴール。安定はあるけれど、気持ちが燃え上がるような出来事は起こらない。お互い利害関係は織り込み済みで結婚するんだ。だから、あれほどの絆が生まれるような関係にはなかなかなれないだろうよ」

「甘んじて受け入れなければならないことだがな」

「殿下には婚約者はいるのですか?」


俺はふと気になって聞いてみた。


「あぁ、そうか。君は知らないのか。実はね、まだいないんだ」

「そうなんですか?」

「僕と年齢の合う女性がいなくてね。未だに結婚の話は宙に浮いたままなんだよ」


俺は学園の女生徒たちを思い浮かべる。いっぱいいるが?


「色々とね、条件が合わないんだ」


俺が何を思い浮かべているのか分かったのだろう。アルベルトが首を振り振り俺に話す。


「僕と娶せたいと思うような好条件の家には僕と年齢の合う女子がいなくて、どこもみな残念なことに男子ばかりなんだ。あるいは、家格の釣り合いが取れて年齢が近くても王家とあまり関係の良くない派閥のご令嬢だったり」

「アルベルト」


デミアンが遮った。


「うん、分かってる。それ以外だと伯爵家以下の貴族家にしか妙齢のご令嬢がいないという状態だ。年齢差を気にしないのであれば、候補に挙がる女性は一応何人かいるんだけれど、彼女たちはことごとく僕より十以上も年が上か下でね。年上は跡継ぎの点から考慮には入れられないし、年下のご令嬢方は結婚できる年齢になるのに相当待たなくてはいけないんだ。だから、僕に今婚約者はいないんだ。彼女たちは僕よりもむしろ弟との方が年齢的に釣り合うくらいだよ」


アルベルトが肩を竦めて言う。


「親友のデミアンのところは家格も王家との関係性も申し分ないんだけれど、彼のところも例にもれず男兄弟しかいない。もし仮に女の子がいたら喜んで結婚するんだけどなぁ」


貴族の結婚というのもなかなかに大変なようだった。


それから、馬車の用意が整った旨の知らせが届いて、俺らはやっと席を立った。


帰り際、貴族でごった返す玄関ホールの中で、学園の同級生らに出くわした。もちろん貴族だ。そして、名前は知っているがほとんど話をしたことのない奴らだった。


彼らは、アルベルトとデミアンに恭しく礼をして、今日の観劇についての感想や、近況を語り合った。その最中ちらちらとこちらに向けられるいくつもの視線に気づいていたが、それらを俺は無視した。


同級生の内の一人が、俺を指し示して誰かと問うた。本当に俺が誰か分からなかったらしい。アルベルトが俺の名を告げると、驚きの後に含み笑いが辺りに広がった。


彼らは俺の格好を暗に揶揄しながら、アルベルトとデミアンに暇を告げると帰っていった。


やっとのことで歌劇場を出ると、目の前に侯爵家の馬車が止まっていた。俺たちはそれに乗り込んで、ゆっくりと帰路についた。


「キース。今日はとても楽しかった」

「殿下。こちらこそ、ありがとうございました。貴重な経験をさせていただきました。本当に、本当にすばらしい劇でした」

「それならよかったよ。今後も機会を作って色々と見て回ろう。次はオペラなどがいいかもしれない。僕はオペラが好きだ」


アルベルトが無邪気にそう言った。


俺は一つ息を吸う。帰り際の一場面が思い出された。あの含み笑いが耳に聞こえるようだった。


「その話なのですが、殿下」


俺はやっとのことでそれだけを言った。


笑っていたアルベルトが、怪訝そうな顔をした。デミアンが片眉を上げた。


「もう、これ以上はご迷惑をかけられません」


俺はやっとのことでそれだけを言った。


「どういう意味かな?」


剣のある声が車内に広がった。


「言葉通りの意味です。私はやはり、あなたの友人には相応しくありません。この夏休みを、私は存分に楽しむことができました。本当にありがとうございました。ですが、どうかお付き合いは今宵を最後にお願いしたいと思います。誠に勝手な話ではございますが、どうか、殿下の今後のためを思って、私とは距離を置いてくださるよう、お願い申し上げます」


そう言って俺は頭を下げた。


驚愕に見開いた目で、アルベルトが俺を見ていた。その横で、デミアンが無表情に俺を見ていた。


俺は、二人の顔を見たくなくて、もう一度頭を下げた。


彼らが俺のことを受け入れてくれていることが分かって嬉しかったけれど、やはり一緒にはいられないと思った。俺の心が、二人といることに耐えられなかった……。


長く付き合えば付き合うほどに、彼らと自分との立場の違いを、痛いほど意識せざるを得なくなるのが分かっていたから。


楽しい夢は、美しい夢のままにしておきたかった。

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