第22話

「だから、雛ちゃんが……」


 自分の中での思考に、夢中になっていたらしい。名前を呼ばれて、私はびくりと肩を揺らした。


「えっ……!」

「雛ちゃん、もしかして、ぼんやりしてた?」

「あ、すみません……」

「別に、謝らなくてもいいけど……。うふふ、珍しいわね」


 侑李さんの微笑みに、申し訳なさが募る。もう一度謝罪をすると、今度はデコピンをされてしまった。


「何度も謝らないの! ほら、犬ちゃんの名前を、雛ちゃんが付けてあげたらいいんじゃないかしらって話をしていたのよ」

「えっ! 私がですか⁉」


 予想外の内容に、つい大きな声が出た。


 けれど、侑李さんは特に戸惑う様子もなく、にこにこしながら頷いた。


「で、でも……」

「気に入らなかったら、犬ちゃんだって言うでしょうし。ここにいる間だけでも、名前があった方が便利でしょう。いい加減、犬ちゃんって呼ぶのもどうかと思っていたしね」

「それなら、私じゃなくても……侑李さんや、澄子さんの方が……」

「あら。だって、犬ちゃんのことをここで一番よく知っているのは、雛ちゃんでしょう? なら、雛ちゃんが一番適任じゃない」

「で、でも……。犬神さんだって、私に名前を付けられるのなんて、嫌ですよね⁉」


 犬神の青年に視線を向けると、彼はきょとりと首を傾げた。


「別に、いい」

「やっぱり嫌ですよね! ……って、え⁉」


 まさかの快諾である。驚いて視線を向けると、青年はツンとそっぽを向きながら、再び口を開いた。


「だから、別にいい」


 な、な、な、何で⁉ 名前って、すっごく大事じゃない?


 私は困惑して、眉を下げる。侑李さんの名前の意味が立派だったこともあって、自分に名付けができる気がしなかった。


 けれど、そんな私に追い打ちをかける様に、青年が呟く。


「……名前も、悪いものじゃないと、思った」


 青年の瞳が柔らかく和んでいて、言葉以上に青年が侑李さんの話に感化されたのだということがわかった。……わかって、しまった。


 責任重大すぎる!


 内心、だらだらと汗をかく。


「ほら、犬ちゃんもこう言っていることだし。ばっちり名付けちゃいなさいよ、雛ちゃん!」


 今だけは侑李さんの明るさがつらい。


 青年が、何も言わずにこちらを見つめている。その瞳が、らんらんと輝いていて、期待されているのだとありありと伝わった。


 うう、困る。困るよ……。


 だって、私が犬神さんのことを一番よく知っているって言ったって、所詮私が知っていることだって、そんなに多くないのだ。


 そう、例えば、好きな食べ物とか、そのくらいで……。


「あ……」


 思わず漏らした声に、侑李さんが即座に反応した。


「あら、何、何? 何か、思い付いたの?」

「あ、あの……。安直なんですけど、『ユズキ』はどうかと思って……」

「ユズキ? どういう字?」


 私は、キョロキョロと部屋を見回して、文机の上に置いてあったメモ帳とペンを取りに立ち上がる。机の上で、『柚希』とメモ帳に書いてから、それを持って再びふたりの元へ戻った。


「可愛い名前」


 侑李さんが、私の書いた文字を見てニッコリと笑う。


「俺、柚子、好きだ」


 青年が無邪気な笑顔を浮かべる。その可愛い笑顔を見て、侑李さんがなるほどね、と頷いた。


「雛ちゃん、この子が、柚子が好きだって知っていたのね」

「はい。……というか、知っていることなんて、本当にそれくらいなんですけど」

「あら、だって、それは雛ちゃんしか知らない話なのよ。だからこれは、間違いなく雛ちゃんにしか付けられない名前だわ。ほら見て、あの子もとっても喜んでるわよ」


 青年は、私が名前を書きつけたメモを、じいっと見つめている。


 それから、何かを確かめるように、メモの字を指でなぞって、再びじっと見つめる。そんなことを、繰り返していた。それは、私の目からも、彼が喜んでいるように映った。


「ねえ、柚子じゃなくて、柚希なのには、何か意味があるんでしょう?」


 不意に、声の調子を落とした侑李さんが、囁き声でそう尋ねてきた。どうして、わかってしまったのだろう。


 私は、恥ずかしい気持ちを押さえて、囁き返す。


「私が知っている彼の好きなものが、柚子だけだったので……。柚子を始まりにして、彼の『好き』が沢山増えて、彼の希望になったらいいなって。そんな、独りよがりな気持ちです」


 チラリと侑李さんの顔を盗み見ると、彼は今まで見た中でも、一番優しい顔をしていた。


 私は面食らって、思わず顔を逸らしてしまったのだけれど、侑李さんの残した言葉だけが、ずっと耳の奥に残っていた。


「素敵な名前だわ。……本当に」


 青年……柚希が家に来て、三か月が経とうとしていた。

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