第7章『偽りなき僕へ』
暁人の部屋はいつも静かだった。絨毯の上を歩く足音すら吸い込まれ、時計の針の音すら聞こえない。まるで音が存在しない空間——それは、彼の理想の“家”だったのかもしれない。
僕はその空間の中で、微笑んでいた。いつものように、綺麗に整えられた服を着せられ、髪を撫でられ、甘い紅茶を口に含む。暁人の視線が、紅茶の縁越しに僕を見ていた。
「今日のノアは、とても綺麗だ」
そう言われるたび、胸が小さく震える。喜びではない。けれど、不快でもない。その中間にある、何か言葉にできない“揺れ”のような感覚。
「ありがとう」
微笑んでそう答える僕に、暁人は満足そうに目を細めた。その笑顔に、僕はきちんと応えた。演じている、と気づいていながら。
——本当にこれが、僕なんだろうか?
そんな疑問が、最近になって、たびたび脳裏をかすめるようになっていた。
焼き印の痕はまだ赤く腫れ、じんじんと疼く。それは確かに僕の中に残る、暁人との“証”だった。けれど、それが“僕”という存在を示すものなのか、それとも“ノア”という仮面を固定するための枷なのか——判断がつかない。
暁人は、僕を愛してくれる。優しくて、慈愛に満ちて、すべてを捧げてくれる。けれど、僕がふと視線を逸らすだけで、彼の指先は僕の顎を掴み、正面に向けさせる。
「ノア、君は僕だけを見ていればいい」
その言葉に、僕はまた微笑んで頷く。演技は、もう板についていた。けれど、演じていると自覚した瞬間から、胸の奥に黒いものが湧き出していた。
夜。
暁人に抱かれながら、僕は甘い吐息を漏らしていた。彼の手はいつもより執拗で、熱を持った掌が何度も腰を撫で、唇が耳の裏をなぞる。体は反応していた。拒めない、抗えない、慣れてしまった感覚。
だけど、心は冷めていた。
この快楽は、僕のものだろうか? それとも、“ノア”という役のための義務?
「気持ちいい? ノア……君の中が、僕を求めてる」
耳元で囁かれ、背筋がぞくりとする。でも、それは歓びではなかった。
——僕は今、誰を演じてる? ノア? それとも……リク?
頭の中がぐらりと揺れる。快感に身を委ねながらも、心はどこか遠く、冷たい水の底に沈んでいた。
朝、目を覚ましたとき、自分の手がうっすらと首元に当てられているのに気づいた。
夢の中で何かを掴んでいたような感触。けれど目が覚めた途端、手はただの肉の塊のように感じられた。
ゆっくりと起き上がり、浴室へ向かう。鏡の前に立った僕は、しばらくの間、言葉を失っていた。
そこに映っているのは、“僕”ではなかった。
肌には爪痕。首筋には紫がかったキスマーク。胸元にはあの焼き印。どこか他人の身体のように、鏡の中のそれは、僕の動きに合わせてわずかに動く。
「……誰……?」
思わず口に出した。だけど声すらも違って聞こえた。
暁人が背後から腕を回してくる。いつものように、後ろから抱きしめられる。
「ノア、おはよう。今日もいい子だった?」
甘い声音。けれど、その優しさが、鋭利な刃のように僕の皮膚をなぞっていく。僕は震えながら、鏡越しに彼を見た。
「暁人……僕……ノアでいいのかな……?」
ふと、そう漏らすと、彼の表情がすうっと固まった。けれどすぐに、何事もなかったように、首元にキスを落とす。
「当たり前だよ。君はノアだ。世界で唯一、僕のために生きてる存在」
——生きてる? 本当に?
僕の中で、なにかが軋んだ。
夜になっても、その違和感は消えなかった。暁人に触れられれば触れられるほど、身体は反応してしまう。でも心がどんどん遠ざかっていく。まるで、快楽の中に沈んでいくたびに、“僕”が希薄になっていくようだった。
そしてその夜、僕はついに、引き出しの奥に隠していたものを取り出した。
——刃。
以前、暁人にすべて取り上げられたと思っていたのに、ひとつだけ隠し持っていた。ほんの小さな、カッターの刃。
それを、震える手で握る。
「……ノアじゃない……僕は、僕を思い出さなきゃ」
刃先が皮膚に触れる。傷の痕が疼く。焼き印の下をなぞるように、刃を滑らせる——ほんの少しだけ。
血が滲んだ。痛みが走った。
そして、涙が零れた。
やっと“自分”がそこに戻ってきた気がした。
僕が再び自傷をしたことに、暁人はすぐに気づいた。
その夜、彼が着替えさせるとき、胸元の絆創膏がずれて、赤い痕が露わになった。焼き印のすぐ下。浅く、それでも確かに新しい。
暁人の手が止まり、しばらく動かなかった。部屋の空気が凍りついた。
「……ノア、これは?」
優しい声。けれど、それは氷のようだった。僕は目をそらした。
「僕……ごめんなさい。でも、どうしても……」
言葉にならなかった。理由なんてなかった。ただ、あのとき、自分を感じたくて。自分がまだ“リク”だと確かめたくて。
暁人は、ゆっくりと息を吐き、手のひらで僕の頬を叩いた。
——ぱしん。
乾いた音が響く。
叩かれたのは、初めてだった。
けれど、不思議と痛くなかった。ただ、涙が、頬を伝った。反射のように。
「ノア、君はもう“自分”でいる必要なんてない。君は僕のためだけに存在してる。だから、自分で壊れようとしないで」
「……でも……僕は……」
「君を壊すのは、僕の役目なんだ」
そう言って、暁人は僕を抱きしめた。強く、逃げられないほどに。腕の中で、僕の呼吸は浅くなる。
彼の唇が、傷の上に落ちる。舌が、血の味を吸い込むように滑る。
「君がどうしても“壊れたい”なら、僕が、もっと深く壊してあげる」
そのまま、ベッドに押し倒される。いつもの愛撫とは違う、どこか荒く、どこか祈るような熱を帯びた動き。
啜られ、噛まれ、啼かされる。痛みと快楽が、交互に、境界を曖昧にしながら、僕の奥を貫いていく。
「ノア……もう逃がさない。君がどこにいても、誰の中にいても、僕のものだ」
その言葉が胸に突き刺さった。やがて、何も考えられなくなった。世界には暁人の声と、熱と、重みだけが残った。
そして、僕は理解した。
——僕は壊れることでしか、自分を保てない。けれど、壊してくれるのが暁人なら、それでいい。
それが、僕にとっての“愛”のかたちなのだと。
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