第6章『純化の儀式』
静かな部屋に、ぱちん、という火花の音だけが響いていた。
ロウソクの炎が床に映る。その淡い光に照らされて、僕は全裸のまま膝をついていた。足首には黒いベルト。手首も、ゆるく縛られている。けれど逃げようとは思わない。むしろ、こうして拘束されていることが、安心だった。
「今日から、君を“純粋な器”にする」
暁人が、鋏を手にして近づいてくる。刃先が光を反射し、鋭い冷たさを宿していた。
「リク……いや、君はもう“リク”じゃない。名前も、過去も、全部消してしまおう。君は僕だけのもの。僕だけの“人形”だ」
その言葉に、胸がざわついた。でも、拒否したくなるような不快さはなかった。ただ、体温が上がっていく。熱に浮かされるように、意識が甘くなる。
「ほら、力を抜いて。怖くないよ。これは、君を僕のものにするための“儀式”なんだから」
髪を一房、指に絡め取られる。じょきり、と音がして、髪が落ちた。次の瞬間、肌に鋭い痛みが走る。
「っ……」
鋏の先で、肩を浅く切られていた。血が、少しだけ滲む。暁人はその血に指を這わせ、それを自分の唇に含む。
「美味しい。君の中身が、僕に流れ込んできたみたいだ」
狂っている。でも、その狂気のなかにある“僕だけ”という言葉が、どうしようもなく甘い。
暁人は肩の傷に口づけを落とし、舌でぬぐった。焼けるような感触。痛みと快感が溶けあう。
「もっと綺麗になろうね。名前も、声も、全部脱がせてあげる」
その声は、神父のように優しく、処刑人のように冷酷だった。
暁人は鋏を置くと、次に取り出したのは細い金属の器具だった。
「今から君の身体に、少しだけ“しるし”をつけよう」
指先に冷たい感触が触れる。胸元に、小さな金属の円盤が当てられ、ギリギリと押し付けられていく。
「っ……ぁ……」
熱い。鉄が肌を焼く匂いが立ち上がる。焼き印——。それがどういう意味を持つか、考えるまでもなかった。僕は、彼の印を刻まれている。二度と消せない、“僕は暁人のもの”という証明。
「これで、君の心も身体も……完全に僕のものだ」
暁人の声は、陶酔の色を帯びていた。
痛みが残る胸元を撫でられると、皮膚がびくりと震える。それだけで、身体の奥が熱を帯びるようになっていた。
「気持ちいい? それとも痛い? ……どっちでもいい。君が僕に反応してくれるだけで、愛しい」
そして、彼の指がゆっくりと脚の間へ滑り込む。拘束された手では防げない。逃げようとも思えない。
指は容赦なく、痛む場所すらもなぞっていく。既に何度も使われ、腫れているその場所を、ためらいなく弄ぶように。
「……んっ……やっ……」
喉が震え、かすれた声が漏れた。反応を見た暁人は、満足そうに笑った。
「声、出たね。じゃあ……もっと深く、愛してあげる」
唇が首筋を這い、手はさらに奥へと沈み込む。内側が熱を持ち、理性が崩れていく。苦しいのに、幸せだった。
彼の手の中で壊されていく——それが、今の僕のすべてだった。
鋏の音が止み、暁人は無言で僕のあごをつかんだ。そのまま、ゆっくりと顔を近づける。
彼の瞳は、何かに飢えた野獣のようだった。けれど、そこにあるのは単なる欲望ではない。もっと深く、もっと重たい何か——たとえば“所有”への確信。彼の中では、すでに僕は“彼のもの”という前提でしか存在していないのだ。
僕の唇に彼の唇が触れる。やわらかく、でも逃がさない圧。舌が入り込み、口内の隅々を暴いていくように動く。唾液の熱が喉を這い、意識がまた遠のく。
暁人はキスを終えると、額を合わせ、吐息を重ねながら囁いた。
「君の中にあるすべての記憶、痛み、名前——ぜんぶ、僕にちょうだい。焼き尽くして、代わりに僕を刻む」
その言葉の直後だった。彼は手にしていた金属の焼き印を、蝋燭の炎の上にかざした。じりじりと熱される音。鉄の匂いと、蝋の匂いが混じり合い、空気が濁る。
「怖い?」
僕は震えながらも、首を横に振った。
「嘘でもいいんだよ。君が“怖い”と思っている間に、君の心がもっと柔らかくなるから」
そして——焼き印が、胸の左上に押し当てられた。
「——ッ……!!」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。皮膚が焼ける音、焦げる臭い、全身に走る閃光のような痛み。それなのに、不思議だった。どこか快感に似た余韻が、じんわりと身体を撫でていた。
「……君はね、痛みを感じるたび、僕のことを思い出すようになる。誰にも触れられない“呪い”みたいなものだよ」
暁人は、その焼き跡に優しくキスを落とした。
「リク……名前ってね、強いんだよ。名前があると、人は自分を手放せなくなる。だから、君から“リク”を消さなきゃいけない」
彼の言葉はまるで、自分の過去に向かって語っているようでもあった。
「僕も……昔、大事な“名前”を壊したことがある。でも、後悔してない。だって、壊さなきゃ、抱きしめることさえできなかったから」
その過去の“誰か”が誰なのか、僕には分からない。けれど、そこにある執着の深さだけは、肌で理解できた。
暁人が指先で僕の唇をなぞる。震える僕の顔に、やわらかい笑みを浮かべて——
「だから、君の新しい名前を贈るよ。“ノア”……いい音だろう?」
その瞬間、頭の中に響いた名が、血の中を流れはじめた。
リク。リク。リク。リク。リ——。……ノア。
断ち切られた。“僕”が、終わった。
数日が経ったある夜。暁人はベッドの傍で、何か古びた手帳のようなものを眺めていた。ページの片隅に、滲んだインクで書かれた名前があるのを、僕は見てしまった。
——Noah
その筆跡を、暁人は指でなぞっていた。優しい手つきだった。まるで、今の僕に触れるときと同じように。
「その名前……前にも誰かに与えたの?」
問いは、自然と口をついていた。暁人は一瞬動きを止めたが、微笑んだまま頷いた。
「うん。昔、大切だった人に。でも、その人は壊れてしまった。……僕が壊したんだよ」
胸が苦しくなった。自分が“唯一”ではなかったこと。代替としてこの名を与えられたこと。
けれど、それ以上に沸き上がってきたのは——嫉妬だった。
僕は、ゆっくりと自らのシャツに手をかけ、暁人の前で脱ぎ捨てた。焼き印の残る胸をさらけ出し、彼の膝元に這いつくばる。
「だったら……今ここにいる僕が、その“ノア”を超えてみせる。……壊れてもいいから、君だけの記憶になりたい」
その言葉に、暁人の目が細くなった。
「君はもう十分に狂ってる。でも……もっと壊してあげるよ」
その夜、暁人はこれまで以上に激しく、乱暴だった。唇を噛まれ、背中に爪痕を刻まれ、喉を塞がれ、意識の境目で喘ぐ。
「痛いの、嬉しいんだろう?」
「……うん、もっと……僕を、壊して……!」
その声を聞いた暁人の瞳が、ゆっくりと紅く染まっていくように見えた。
その夜の僕は、愛されたいのではなく、“忘れられたくなかった”のだ。たとえ、その愛が暴力の中にしかなかったとしても。
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