Ⅴ-Ⅴ 綾織黎明



 *四月二六日 金曜日 学生寮



 微かな光によって、僕は目を覚ます。

 いつもよりも暗いためか、なんとなく頭がスッキリしない。

 カーテンを開くと、しとしとと小雨が降っていた。

 道のあちこちに水溜りができていたが、雲の切れ間から太陽が見えているため、そろそろ止みそうだ。

 僕は起き上がり、思い切り背伸びをする。

 今日は金曜日……早いもので、もう週末だ。

 本当に、時の流れというのは一瞬で過ぎ去ってしまうものだと実感する。

「…………」

 ふと綾織先輩の方を見れば、先輩は静かに寝息を立てていた。

 かけ布団が、呼吸と共にゆっくり上下している。

 激しい性格だけど、寝相はとてもいいみたいだ。

 そんなギャップになごやかな気持ちになりながら、僕はクローゼットから着替えを取り出し、制服に着替えることにした。



 *四月二六日 金曜日 並木道



「あの、先輩……質問があるんですが」

 僅か雨の匂いがする並木道を歩きながら、先輩の横顔を見上げる。

 スッと通った鼻立ちに、くっきりの二重……。

 眉間に皺さえ寄っていなければ、桃矢先輩や駒込さんに負けない位整った容姿だと思う。

 さっきまで降っていた雨はいつの間にか止んでいて、薄らとかかった雲の切れ間からは太陽が顔を覗かせていた。

「……んだよ」

 もうほとんど花の残っていない桜の木から、たまに水滴が落ちてくる。

 それが見事に鼻先に当たった綾織先輩は更にしかめっ面になり、頭上を睨みつけていた。

「先輩って、いっぱい食べるじゃないですか。朝ご飯は食べなくて平気なんですか?」

 昼夜共にあんなにたくさんの食事をしている綾織先輩だが、ルームシェアを始めてから朝食をとっているところを見たことがない。

「あのですね……もしも僕に合わせてくれているのなら、申し訳ないな……と」

「はぁ!? 誰がテメエなんかに合わせるか! 勘違いしてんじゃねーよ!」

 綾織先輩がぷんすかと怒りを露わにしながらこちらを振り返ったその時だった。

 向かう先の正門から、一人の生徒が近付いて来るのが見える。

 その人は肩まで伸びた、手入れの行き届いた黒髪を靡かせながら、僕達を見てニコニコと笑っていた。

「おはよー。綾織先輩って、本当にツンデレのテンプレートのセリフが似合うねえ。同室になってより一層仲良くなったみたいで、発案者のボクとしては嬉しい限りだよ」

「あ! 宮村先輩! おはようございます!」

 僕達に向かって笑顔のまま手を降ってくれたのは、宮村先輩だった。

 通り過ぎる女生徒達が、チラチラと先輩を見ては嬉しそうにしている。

「生徒会のお仕事ですか?」

「そうそう。昨日はたまーに抜き打ちである、遅刻検査に駆り出されてるの」

 僕の質問に、宮村先輩は腕につけられた『生徒会』の腕章を見せてくれる。

「は……ヒマそうな仕事だな」

 綾織先輩が悪い顔を浮かべるが……。

「この学園は、校則違反する生徒がごく一部しかいないからねぇ。その多くはキミ達の部活に集中しているわけだけど」

「…………」

 そうチラリと目線を合わされ、今度は綾織先輩が黙る番だった。

「でも珍しいなぁ。遅刻常習犯の綾織先輩と、こんな時間に会う日が来るとはねえ」

 宮村先輩はポケットから携帯電話を取り出すと、時間を確認する。

「……別に。今日はたまたま早起きしただけだ」

 フイ、と顔を逸らしながら、バツが悪そうに返事を返す。

「うんうん、そうなんだ」

 宮村先輩は何か意味ありげに頷いている。

「先輩、遅刻の常習犯だったんです……むぐ……っ」

 質問しようとしたところで、後ろから口を塞がれる。

 大きな手によって僕の口を覆ったのは、もちろん綾織先輩だった。 

「そうなんだよ。よく夜更かしして遊んだりしてたみたいだからねえ……。まあ、一番の原因は、寝坊したのにも関わらず、優雅に朝食をとってることじゃないかな」

「朝食を……」

 やはりさっきの僕の予想は間違いじゃなく……先輩は朝ご飯をちゃんと食べる人だったのだ。

 それなのにここ数日は……。

「いい意味で変わったんだねぇ。宮守くんのおかげで」

 宮村先輩は、僕の耳元でそう囁く。

 先輩の手が僕の頬に触れる寸前……僕の身体はすぐに綾織先輩の方へと引き寄せられる。

「……行くぞ」

「あ……はい!」

 まるで猫のように首根っこを捕まえられ、正面玄関へと連れて行かれる。

 二又になっている大きな階段の前で、ようやく手が離され、僕は乱れた衣服を整えた。

 ここはもう、上級生との別れ道だった。

「先輩、やっぱり朝食……」

「うるせえ。テメエは自分の心配だけしてろ」

 そう言うと先輩は、僕を置いてとっとと自分の教室に向かってしまった。



 *四月二六日 金曜日 教室



「おっはよー! 四季くん!」

 教室に入るとすぐに小鳥遊くんが大きく手を振ってくれた。

 既に浅倉くんも席に座っていて、いつも通り携帯電話で真剣にゲームをしているようだ。

 イベント……というやつがまた始まったのだろうか。

「おはようございます。なんだか今日は一段と笑顔が輝いていますね」

「えへへー。分かるー?」

 僕の言葉に小鳥遊くんは両手で両頬を押さえながら、再びニコニコと笑う。

「月曜日が祝日だから、明日から三連休じゃん? 今日から泊りで勉強会するんだー!」

 それは納得のいく理由だった。

 僕はチラリとタブレットを確認する。

 確かに月曜日が祝日を表す赤い日になっていた。

 危ない危ない、特に意識していなかったため、普通に学校に来てしまうところだった。

「……いっつも一緒にいてよく飽きないよね」

 浅倉くんがボソッと漏らす。

 確かに、二人はいつも一緒にいるイメージだ。

「いつもじゃないもーん。それにボク達、まだ学生だよ? 塾とか色々あるんだから」

「ふーん。意外と真面目なんだ」

「ボクはともかく、サラがね。やるべきことはちゃんとやらないとダメだよって。サラはさ、お医者さんになるのが目標だから……だからあんまりワガママ言って、サラの夢の邪魔をするのは良くないし」

「恋人の夢のために、自分を律するなんて素晴らしいです!」

 僕が小さく拍手すると、小鳥遊くんは笑顔で頭を掻く。

「いやー照れるなぁ」

「ふーん」

 しかし浅倉くんの返事は素っ気ないものだった。

「ちょ……塩対応過ぎない?」

「別に。いつ別れるかもしれないのにさ、そんなに入れ込んで怖くないのかなって思っただけ」

「へ?」

 ドライな浅倉くんの返答に、小鳥遊くんは大きな目を更に見開く。

 そしてしばらく考えた後、若干の苦笑いを浮かべながら浅倉くんを見た。

「そりゃ怖いけど……サラは誠実な人だから、変な別れ方はしないと思う。そりゃあ別れた後は寂しいと思うけど……でも、サラと過ごした時間は、絶対に嫌な思い出にはならないと思うから……だから怖くないよ」

「……っ」

 今度は浅倉くんが驚く番だった。

 浅倉くんは手元にあった携帯電話を見つめながら、小鳥遊くんの言ったことを頭の中で反芻しているようだった。

 邪推かもしれないけれど……もしかして、誰かと重ねているのだろうか……。

「俺は……」

 震える声で言いかけた時、担任の先生が教室へ入って来た。

「…………」

 僕達は流れに任せて席に座る。

 浅倉くんは、携帯電話をカバンの中に入れてもなお、一点を見つめて考えごとをしているようだった。



 *四月二六日 金曜日 学食



「みんなに……残念なお知らせがあるんだ……」

 いつもの席に全員が集まり、各々が食事をし始めるのと同時に……恭次先輩は悲しそうな顔をしながら俯いた。

 ヘアピンで止めた長い前髪から暗い影が落ちている。

「なんだよ、改まって」

「どうした?」

 孔洋先輩と桃矢先輩が、心配そうに顔を覗き込む。

 いつもは元気な恭次先輩が落ち込んでいる姿を見て、僕も心配になる。

「実は僕……しばらく部活に出られないんだ」

「え……どうしてですか?」

 それには思わず僕も口を開いてしまう。

 あんなにも部活の時間を大切にしていた、恭次先輩がどうして……。

「……海外留学の準備」

「へ?」

 ぽつりと呟いた言葉に、僕達は顔を見合わせる。

「え、オマエ……留学すんの?」

 重い空気の中、一番最初に口を開いたのは孔洋先輩だった。

「今年の夏……まだハッキリ決まってないんだけど六月くらいからかなぁ。イギリスに行く……予定。あくまで予定ね。でも僕、英語めちゃくちゃ苦手だから……それまでにない身に付けろって、家庭教師の先生がスペシャルコースを親に提案したんだよ。余計なことを……」

 ムスッとした表情のまま、言葉を続ける恭次先輩に、不安そうな顔をした桃矢先輩が揺れる感情を押し殺すように口を開く。

「期間は……どの位になるんだ?」

「うーん。そんなに長くはならないと思うけど……。まあ、イギリスってオカルトの宝庫だし……行ってみたいとは思ってたんだけどね……」

 きっとその部分は恭次先輩の本音なんだろう。

 でも、突然留学が決まるなんて何あったのだろうか。

「そう考えるといいな、イギリス! ロックの聖地じゃん! つーか言葉って現地で身につけるんじゃないのかよ?」

「さすがに、全く話せない状態で行くのもね……」

「あーそりゃそうか」

「読めるんだけど、喋れないんだよ。日本人の典型的パターンね」

「ああいうのは場馴れが大事だって言うからな。オレの初ライブの時は緊張したけど、今はだいぶ慣れたもんだぜ」

「……その度胸については、こーようの方が上だって認めるよ」

 恭次先輩は大きくため息を付くと、指先でグラスに入ったアイスティーの縁をなぞる。

「僕さ、別に親の会社継ぐとか、どーでもいいんだけど……でも、海外でビジネスしたいとは思ってるんだよね。最近、とーやが夢に向かって頑張ってる姿を見てさ……僕も触発されたんだ」

「東郷……」

 海外留学の話は急に決まったわけじゃなくて、恭次先輩の中では少しずつ計画していたものだったんだ。

 それが、桃矢先輩に背中を押されて前進する形になった。

 桃矢先輩にとっては少し残念な話だけれど……。

 僕達はまだ高校生で……それでも、少しずつ自分の将来に目を向けていかないといけない、大切な時期になってきたんだ。

「…………」

「どしたの、四季くん? 僕がいないと寂しい?」

「……はい」

「へ……? あ、あらヤダ。この子、やっぱり素直で可愛いわ」

「何で急にオネエ口調なんだよ」

 動揺を隠せない恭次先輩に、孔洋先輩が助け舟を出す。

「寂しい……ですけど、でも……僕は恭次先輩の夢を応援してますので……っ」

「ありがと、四季くん。ま、一生会えないわけじゃないんだからさ、また落ち着いたら放課後、ワイワイやろう! 学校には来てるから、ここでも会えるし」

 そう優しく言うと、恭次先輩は僕の頭をそっと撫でてくれた。

「ほら、笑って? 末っ子のそんな顔見たくないよ? ね? こーよう」

「なんだ、その設定。つか今日、オレもバイトだから部活休むぞ」

「俺も……今日、撮影があるから……」

 孔洋先輩に続き、桃矢先輩も申し訳なさそうに静かに言葉を漏らす。

「お。ついにメジャーデビュー?」

「……いや、まあ、雑誌の片隅にちょこっと載るだけだけどな。この前の撮影に駒込が来なかったらから延期になったんだと。また穴空いたら困るってことで、ついでに呼ばれたんだよ」

「…………」

 綾織先輩と僕の動きが同時に止まる。

 間違い無くあの日のことだ。

 駒込さんにはとても悪いことをしてしまった。

「それじゃ、暫くは部活を休みにしようか。部室は開放してるからいつでも使っていいからね。ひとまず……ゴールデンウィーク明け位には全員で集まれたらいいな」

 恭次先輩はパンと、手を叩く。

「あ! といっても、各自、ちゃんとオカルト収集については通常通りちゃんとするんだよ! 面白いネタ探しといてね!」

 そ言葉に、僕達は苦笑いを返す。

 みんなの集まる時間が減ってしまうのは悲しいけれど……それでもきっと、みんなの気持ちが離れることはないんだ。

 だって、あの部室はみんなの……大切な居場所なんだから。



 *



「ん?」

 学食から教室に戻る直前……廊下の窓から、部室棟を通る人影が見えた。

 スラリと高い身長に、肩甲骨までの長さの三つ編み……。

 間違いない。

 先程、僕達より先に学食から出て行ってしまった……その人だ。

「綾織先輩……」

 唇だけで呟いたのと同時に、僕の足は勝手に部室棟へと向かっていた。

 特にそこに行きたいわけでもないし、先輩に用事があるわけでもない。

 ただ……気持ちが勝手にそこに向かっていた。

 いつも放課後に行く道をなぞるように階段を上がり、三階へ向かう。

 部室棟へ向かう廊下には誰もいなかった。

 生徒は中庭を挟んで向かい側の教室で勉強をしているからだ。

 コツコツと、小さな自分の足音だけが廊下に響く。

 誰の声も存在もない廊下。

 なんだか不思議な世界に迷い込んでしまったみたいだった。

 しばらくそんな空気を楽しんでいると、いつの間にか部室の前に到着していた。

 僕は少しだけ扉を開けて、その隙間から室内を覗き込む。

 思った通り、綾織先輩は窓際の席に座っていて……ただ、その外を眺めていた。

 それだけでもとてもサマになっているのは、綾織先輩の容姿のせいだろうか……。

 一五センチほど開いた窓から、柔らかな春風が入り込み、先輩の長めの前髪を揺らしていた。

「お一人ですか?」

「!」

 ドアを開くのと同時に後ろから声をかけると、まるで幽霊でも見たような顔がこちらへ振り返る。

「テメエ、何でここに……」

「えっと……先輩がここに来るのが見えたので」

「…………」

 先輩は一瞬しまったという表情をしたが、すぐにいつものムスッとした顔に戻る。

「もうチャイム鳴りますよ」

「知ってる」

「教室、戻らないんですか?」

「サボる」

 簡潔に言われた。

「ええー……ダメですよー……自分を律せず、楽な方ばかりに逃げるのは良くないとおじいちゃんも言っていました」

「……死んでもうるせえ爺さんだな」

 綾織先輩はこれ見よがしにため息をつくと、不貞寝するように机の上に頭を伏せる。

 どうやらこれ以上僕と会話をする気はないようだ。

「あの……先輩とおじいちゃんって、『エデンの園』ガーデンオブエデンを通してのお知り合いなんですよね?」

「………ああ」

「何故おじいちゃんと親しかったんでしょうか? 先輩は、『エデンの園』ガーデンオブエデンで、どういう地位にいる方なんですか?」

「オレは……」

 先輩は口を開きかけ……。

「何でもねぇよ……テメエには関係ないだろ」

 しかし、言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。

「それはそうなんですけど……」

 少し気落ちした声を出すと、先輩は頭を机に落としたまま横を向き、片目だけで僕を見る。

「……オレは、『エデンの園』ガーデンオブエデンに拾われて、育てられた。爺さんには、そこで世話になっただけだ」

 目線を逸らしながら素っ気なく答える。

『エデンの園』ガーデンオブエデンに拾われたって……」

「……オレは公衆トイレで産み落とされた後、捨てられてたらしいからな」

「え……!? ど、どうして……そんな……」

「さあな。母親の年齢が相当若かったっていうのはなんとなく訊いたが……別にそれ以上は知りたくもねえな。どうせその背景なんて碌なもんじゃねえだろ」

 目が覚めてしまったのか、先輩は再び自席にドカッと座り直し、その上に足を放り出す。

「で。魔法の使い方が下手くそだったから、あの鬼軍曹……爺さんに面倒見てもらっただけだ」

 綾織先輩は時折入ってくる風に当たりながら、気持ち良さそうに目を細めた。

 どこからか飛んできた桜の花びらが一枚、机の上に舞い落ち……二人の視線が交差する。

「……桜を見ると、思い出すんです。病院の窓から、おじいちゃんと見た桜を……」

「あの鬼軍曹と、ねぇ……」

「この前も仰ってましたね。おじいちゃん、そんなに厳しい人だったんですか?」

「……いい意味でも悪い意味でも昔の人間だったな。言われて分からないヤツは、殴られて当然って感じの」

「全然想像つきません……」

 僕の記憶にあるおじいちゃんは、とても優しくて……僕の我儘に何でも付き合ってくれた。

 金色と銀色の混じる髪に、顔周りに蓄えた白い髭。

 笑うとできる目尻の大きな皺。

 おじいちゃんは世界大戦、唯一の生き残りだと聞いているけれど……あのおじいちゃんが戦争に参加していたなんて、全く想像できない。

「……おじいちゃんのこと、教えてくれてありがとうございました。僕にとって、おじいちゃんだけが唯一の家族だったんです。だから……どうしてもおじいちゃんのことが知りたくて……それで……」

 僕がお礼を伝えきる前に、チャイムの音が鳴る。

 どうやら昼休み後の授業が始まってしまったらしい。

「あ……」

 先輩とお話ししていたら、つい時間が経つのを忘れてしまったようだ。

「困りました……ちゃんと学校に行くとおじいちゃんと約束しましたのに……」

「学校には来てんだから、別に約束破ってねーだろ」

 綾織先輩の言葉に、思考が止まる。

「そ……そういうことになるんでしょうか……」

「好きなように解釈しとけよ。爺さんだって、自分の伝えた言葉で苦しんで欲しくないだろ」

「……そう、ですね」

 僕を傷付けないように気遣ってくれる先輩の言葉に、小さく頷く。

 頑張ったから……今日は少しだけ、休ませてもらおう。

 あ、でも一時間だけ。

 最後の授業はちゃんと出ておこう。

 心の中で弁明を探していると……再び、優しい風が吹いた。

 


 *四月二六日 金曜日 放課後



「では、ボクはお泊まりデートなのでっ!」

 本日最後の授業が終わるのと同時に、小鳥遊くんは元気に立ち上がった。

「あ! 四季くん、あんまり無理しないようにね!」

 荷物をサッと、カバンを肩にかけ……颯爽と教室を出て行く。

「あ……はい」

 小鳥遊くんの言葉にチクリと胸が痛む。

 最後の授業には参加したのだが、体調がよくなかったため、一時間だけ保健室で少し休んでいた……ということにしておいたのだ。

「リア充め……」

 ぽつりと浅倉くんから恨み節が漏れた。

「微笑ましいですね」

「……別に」

 ふい、とそっぽを向かれてしまう。

 しかしその瞳は……なんとなく悲しい色を含んでいるように見えた。

「おい、孫。行くぞ」

「あ……」

 教室の入り口から僕を呼ぶ声がした。

 今日もクラス中の注目の的になっている。

「こっちもか……。ほら、四季くんもお迎え来たよ」

「ぼ、僕はデートじゃないですよ……!?」

「分かってるよ」

 浅倉くんは眉を下げて笑うと、軽く手を振る。

 僕は急足で先輩のところへ向かった。



 *四月二六日 金曜日 駅前

 


 僕と綾織先輩は学校からまっすぐに駅前までやって来た。

 駅前はいつも通りたくさんの学生がいて、笑顔と共に友達と歩いている。

「一八時まで、まだ時間がありますね」

「……そうだな」

 僕はワクワクしながら辺りを見回す。

 駅前ならたくさん時間を潰す場所がある。

 今なら僕のリクエストに付き合ってくれるかもしれない。

 映画にゲームセンターにカラオケ……興味を唆られる場所は無限にあった。

 シャッター通りならここからそんなに時間もかからないし……少し位なら寄り道もできるだろう。

「先輩、僕……色々と行きたい場所が……」

「……今日は遊びに来てるワケじゃねえ」

 ぴしゃりと言葉を返される。

「そ、それは分かっていますけど……」

 先輩の後について歩きながら、僕は小さく答える。

「あ! あそこでクレープ売ってますよ!」

「おい……!」

 僕はピンク色のキッチンカーを模した小さなクレープ屋さんへ駆け寄り、その前に掲げてあるメニュー表を見る。

 チョコクレープなどのオーソドックスなものから、期間限定、春のイチゴクレープもある。

「クリームブリュレクレープなんて、見るからに美味しそ――――あわわ……っ!」

 メニュー表に心躍らせていると、すぐにやって来た綾織先輩によって首根っこを捕まえられ、元ルートへの道に引きづられてしまった。

「また今度にしろ!」

「……はぁい」

 猫のように小さく返事をすると、綾織先輩はようやく首元から手を離す。

「……これから危険な場所に潜入するっつーのに、緊張感のないヤツだな」

 再び足を動かしながら、先輩は独り言のように呟く。

「多少は緊張していますけど……でも、ようやく事件の真相に近付くと思うと、そっちのワクワク感の方が強いです」

「とんだじゃじゃ馬だな……」

「ヤダな先輩。それ、女性に向かっていう言葉ですよ」

「…………」

 先輩は再び盛大に溜息を付くと、僕の頭を小突いた。

「四季くん!」

 その時。

 突然名前を呼ばれ、ビクリと肩が震える。

 声の方向へ振り返れば、そこにはデート中らしき小鳥遊くんと成瀬川先輩が一緒に歩いているところだった。

「小鳥遊くん……!」

「びっくりした! こんなところで会うなんて奇遇だねえ!」

 小鳥遊くんは嬉しそうにこちらへ向かって走って来てくれる。

 教室で見るよりも表情がいくらか明るい気がするのは、気の所為じゃないだろう。

「綾織先輩と……お出かけ?」

 小鳥遊くんは不思議そうに僕達を見る。

「そう……ですね。今日はたまたまちょっと調査……じゃなくて、行くところがあると言いますか……」

 ついうっかり今日の目的を話してしまいそうになり、綾織先輩に睨まれてしまった。

 僕は誤魔化すように肩を竦める。

「あ、もしかして二人共遊びに行くの? だったら、一緒に行こうよ! なんだかダブルデートみたいじゃない?」

「……頭湧いてんのか」

「コラコラ、綾織。そういうこと言わないの」

 成瀬川先輩が自分の口に人差し指を当てる。

 綾織先輩は眉間にシワを寄せながら、フンと横を向いた。

 そういえば、綾織先輩って三年生なのに……他の二年生達からあまり敬語使われてないんだな……。

 なんだかんだで、慕われている感じがするのは気のせいじゃないはずだ。

「でも、本当に意外。綾織って、誰かと出かけたりすることないと思ってた」

 成瀬川先輩が嬉しそうに綾織先輩を見る。

「別に、オレが誰と出かけたって勝手だろ」

「それはそうなんだけど。でも、それが宮守っていうのが……なんだか分かる気がするなぁ」

「どういう意味だ」

「……うーん、何ていうんだろ。フィーリングがね、合いそうな二人だとは思ってたんだ。だからやっぱりそうなんだなって」

「意味分かんね」

「うん。勘だからね。でも俺の勘は当たるから」

「…………」

 微笑む成瀬川先輩に、綾織先輩は再び大きなため息をついた。

「……行くぞ、孫」

「え? もう行っちゃうの?」

 小鳥遊くんが残念そうにに訊いてくる。

「……これから二人で出かけるんだ。邪魔すんな」

「え……」

 綾織先輩の言葉に、小鳥遊くんの動きが止まった。

 そしてすぐに成瀬川先輩が小鳥遊くんの両肩を掴む。

「アズ、二人の邪魔しちゃダメだよ」

「…………」

 綾織先輩はようやくそこで、自分の発言の重さに気付いたようだ。

 顔色がサーッと青く変わっていく。

「い、今のは……だな……っ!」

 先輩が弁明をしようとした瞬間、すぐ近くから黄色い歓声が聞こえた。

 道を挟んだ反対側に小さな噴水があり、数十人の人だかりができていることに気がつく。

 集まっているのは女子高生が多く、すぐ横の友達同士で飛び跳ねながら嬉しそうにその中心を見守っているようだ。

 何人かの大人や、カメラを持った人が数人立っている。

「撮影……?」

 そういえば今日は桃矢先輩が、雑誌の撮影があると言っていたことを思い出す。

 僕達は自然とそこへと目を移す。

 その中心にいたのは……。

「あ……駒込」

 成瀬川先輩がぽつりと呟いた直後。

「紗々羅さんっ!」

 その中心から、一人の人物が大きく手を振りながら走ってきた。

 結構距離があったのだけれど、駒込さんはすぐに成瀬川先輩を見つけられたようだ。

 爽やかな風が、金色の髪を優しく揺らしている。

 駒込さんは嬉しそうに成瀬川先輩の目の前で立ち止まると、慌てて手櫛で髪を整えた。

 そして雑誌からそのまま出てきたかのような笑顔を向ける。

「こんにちは! こんなところで会うなんて運命ですね!」

 呆気に取られる僕達などまるで目に入っていないようで、駒込さんは熱い視線を成瀬川先輩に向けている。

「今日も撮影? 忙しそうだね」

「そ、そんなことないです! いつでもヒマです! 良かったら今からお茶でも……!」

「ちょっとちょっとちょっと!」

 僕達と一緒に呆然と立ち尽くしていた小鳥遊くんが、ようやく現状を把握したようだ。

 イライラしたように半笑いしながらわざと足音を立てるようにして、駒込さんの前に立つ。

「駒込悠希! 何、勝手に人の恋人をお茶に誘ってるわけ!?」

「……いたんだ、小鳥遊梓馬……小さくて見えなかったよ」

「ち……!? よくも禁句を……!」

「そういえば熱下がっちゃったんですね。あの時は大人しくて良かったのに。残念」

 駒込さんはそう言って肩を竦める。

 たぶん、僕が小鳥遊くんの代わりに集会に出た時のことを言っているのだろう。

「言わせておけばこの……」

「アズ、落ち着いて」

 成瀬川先輩が小鳥遊くんを宥めるように頭に手を置く。

 それに便乗した駒込さんが、横からさらに口を挟んでいく。

「そうですよ。僕はただ、お茶に誘ってるだけです」

「だーかーらー! 恋人の目の前でお茶に誘うっておかしいでしょって話なんだけど!?」

「やだなぁ、ただカフェに行くだけですよ? そんなに心が狭いと、紗々羅さんも窮屈ですよ?」

「そ、そんなことないし! そもそも、その下心アリアリな顔で言われて説得力ないんだけど!?」

「えー、困りましたねー。顔は褒められたことしかないんですけど」

 そう言って口を尖らせる駒込さんの顔も、やはり端正なものだった。

「コイツ……いっつもボクのこと揶揄って……!」

「揶揄ってません、本気です」

「こーまーごーめーっ!」

「アズ」

 成瀬川先輩が静かに小鳥遊くんの名前を呼んだ。

「ごめんね、駒込。お茶は行けない。アズを傷つけたくないんだ」

「紗々羅さん……」

 駒込さんの瞳が揺れる。

 一瞬だけ悲しげな表情を浮かべ……そして。

「そういうとこも素敵だと思います……! 僕、二番目でも全然構いませんので!」

「コイツ……」

 小鳥遊くんの怒りと共に、辺りの空気がひんやりと冷えてくる。

 どうやらまた魔法を発動させようとしているようだ。

「……では、氷で刺される前に退散しますね。また、気が向いたら、ぜひ声かけてください」

「うん。それじゃ。撮影頑張って」

 成瀬川先輩の返事に駒込さんはニッコリと笑うと、元来た道を戻って行く。

「あ、駒込さん!」

 僕はその背中に声をかけた。

「あの……桃矢先輩もいらっしゃるんですか?」

「うん。いるよ。今はカレが撮影中だから、抜けてこれたんだ。宮守くんがいたって、伝えておこうか?」

 駒込さんの言葉に、僕は静かに首を振った。

「いえ、邪魔しちゃ悪いので……『応援してます』って、桃矢先輩のファンが言っていたとお伝え下さい」

「分かった。伝えておくね」

 そう言ってニッコリと笑うと、駒込さんは今度こそ撮影の場所へ入って行った。

「まったく! 油断も隙もないっ!」

 小鳥遊くんはまだご立腹のようだ。

 頬を膨らませながら、地団駄を踏んでいる。

 それを見た成瀬川先輩が、小鳥遊くんを安心させるように背後からそっと抱き締めた。

「大丈夫だよ、アズ。俺はアズ一筋だから」

「サラ……!」

 一瞬にして二人の幸せ空間が作られていく。

「何見せられてんだこれ……」

 綾織先輩が疲れたように僕の肩に肘を乗せる。

「仲良しですよね、二人」

 僕がその空間に当てられていると……。

「……おい、そろそろ行くぞ」

 先輩に背中を軽く押された。

「あ、はい……!」

 僕は二人の邪魔をしないよう、静かにその場を去ることにした。



 *四月二六日 金曜日 シャッター通り



 僕達は多少の寄り道――――主に僕が様々な店に引き寄せられてしまったことが原因なのだが……を挟みながら、ようやくシャッター通りまでやって来た。

 時刻は夕方一七時を少し過ぎたところだ。

 だいぶ日も長くなり、まだ太陽も十分に出ているのだが……。

 電球の切れた電灯がたくさんあるためか、やはり通りは暗い。

 あちこちに空き缶やコンビニ袋に入ったゴミが放置されていて、下水の臭いも漂っている。

 やはりここは進んでいく時代から切り取られてしまった空間のように感じた。

 今日は不思議なことに、榎田えのだ高校の生徒とは誰ともすれ違わない。

 とっくに下校時刻が過ぎているとはいえ、誰も通らないというのは変ではないだろうか。

 そんなことを考えていると、綾織先輩が小さな声で呟く。

「後ろ、付けられてるな……」

「え……」

「バカ。振り返るな」

「! は、はい……」

 僕達は至って普通の会話をするように、話を続ける。

「例の……『魔法道具』マジックアイテムの関係者でしょうか?」

「…………」

 綾織先輩は何かを考えた素振りを見せ……そして。

「来い」

 すぐ右の曲がり角で曲がる。

 僕達が向かう『シャッター通り』のゲームセンターの裏への道……にはまだ早い場所だ。

 その道は両脇をコンクリートブロックの塀によって挟まれていて、その塀の奥には年季の入ったアパートが所狭しと建てられていた。

 道の先も何かの建物の裏になっているようで、行き止まりになっている。

 もしも逃げ込むのが目的だったとしたら、完全にアウトな場所だろう。

 その建物の裏を背にしてようやく先輩は立ち止まり、後ろを振り返る。

 僕もそれにつられてそちらを見るが……。

「いない……」

 僕達の後ろには誰も付いて来ていなかった。

 夕方の冷たい風が頬を撫でる。

 紫色に染まる空も相まって、なんだか不気味な雰囲気だ。

「……いや、いる」

「え……」

 綾織先輩はメイン通りの方を睨みつける。

 先輩の視線の先……確かに、こちらからは見えない死角になっている場所に、一人分影が伸びていることが確認できた。

 距離にして三〇メートルほどだろうか。

 声をかけたり、戻ったりしたらすぐに逃げられてしまう距離だ。

「……逃がすかよ」

 先輩はそう小さく呟くと、睨みつける目を更に細めた。

 その瞬間……空気が揺れた気がした。

 それは風ではない。

 例えるなら、目を瞑っていても、目の前に他人の手があることが分かるように……。

 確かに何かが横切ったのだ。

「え……っ! 嘘……っ!?」

 僕達が注視していた場所から、驚きの声が漏れるのが聞こえた。

 そしてそこにいた人物は、まるで見えない何かによって引きずられるように、僕達の前に

 僕がどうしてそう判断したのかというと、その人の足が地面についていなかったのだ。

 その人物は黒いジーンズに黒いパーカーを着て、フードを被っていて……。

「え……この人、昨日……アミューズメント施設にいた……」

「……んだと」

 先輩は僕の言葉に反応する。

 するとすぐに、その人が被っていたパーカーが捲くられる。

 それも間違いなく先輩の魔法だろう。

 納得したのもつかの間、僕はその人物の顔を見てすぐに声を上げた。

「あ、浅倉くん!?」

「…………」

 先輩の魔法によって拘束されていたのは、紛れもなく浅倉くんだったのだ。

 眼帯をしていない方の目が、ギロリと綾織先輩を睨みつける。

 しかし全身を押さえつけられているのか、それ以上は何もできないようだ。

「テメエ……何やってんだ。今回の件……まさかテメエが『魔法道具』マジックアイテムを売り捌いてたってことか?」

 綾織先輩が一歩前へ踏み出す。

 浅倉くんは苦しそうに顔を歪めながら、綾織先輩を睨みつける。

「そんなわけないでしょ。危険な『魔法道具』マジックアイテムについて、自分で調査してただけ」

 いつも僕と話す時とは真逆の態度で、綾織先輩に言葉を返す。

「なんでテメエが調査する必要がある。まさか、アイツらに……」

「……個人の意思だよ。俺が勝手にやってる」

 浅倉くんは小さくそう言うと、地面を見つめる。

「この事件、たぶん……兄さんも関わってるから」

「え……お兄さんが……?」

 その言葉に、僕は思わず聞き返す。

「……読んだのか?」

「兄さんを……じゃないよ。むしろ兄さんを探してるんだ。読んだのは昨日の不良達の頭。安心して、俺の痕跡はちゃんと消してあるから」

「……そういうのは、テメエの魔法を使えば楽勝だろうな」

「それは結果論で……。触るまでが一苦労なんだよ……ねえ、いい加減離してくれない?」

「…………」

 その言葉を受けてすぐ、浅倉くんの足が地面についた。

 どうやら綾織先輩の魔法が解かれたらしい。

「あの……二人はお知り合いなんですか?」

「顔見知りってだけだ」

 僕の言葉に、綾織先輩はそっぽを向く。

 あまり深く訊いて欲しくないようだ。

 そういえば、入学式の後日……浅倉くんに、まだ名前も知らない綾織先輩を探していると言った時、その特徴からすぐに先輩だと気付いてくれたことがあった。

 全く接点が無さそうな二人なのに、一体どういう知り合いなんだろう……。

 お互いの魔法についても詳しく知っていそうだし……。

「……最近、兄さんが家に帰ってこないから……何かに巻き込まれてるんじゃないかって」

 ぽつりぽつりと浅倉くんが言葉をこぼす。

「お兄さんが?」

「うん……あの女に入れ込んでるだけなら見逃しておこうと思ったんだけど……。あれから色々調べてると……今回の事件に関わってそうだったから」

「だから最近、その格好でこの辺りを偵察していらっしゃったんですか?」

「……うん。意外と色んなところで目撃されちゃって困ったけどね。小鳥遊くんにも嘘付いちゃったな……。でも……欲しい情報は大方、手に入ったから……だから今日も取引が行われるであろう、ここに来れた」

「それって……浅倉くんが魔法を使って調べたということですか?」

「そうだよ……俺の魔法は……相手の記憶を読めるものだから」

「記憶を……ということは、宮村先輩と同じなんですね」

「……まあ、そうだね。大体そんな感じ」

 浅倉くんは少し気まずそうに笑うが、しかしすぐに綾織先輩の方を見上げた。

「ああ……でも、綾織さんがいるならちょうどいい……っていうか。えと……協力して欲しいんだけど。きっと、俺と同じこと調べているん……だよね?」

 そう言って、自信なさげに上目遣いをする。

「この事件の黒幕を暴くために魔法使いたいけど……たぶん、俺がこの格好で近付いても、すぐに兄さんにバレちゃうと思うんだ。兄さん……俺の魔法を警戒してるから……。でも、綾織さんの魔法があれば……たぶん上手く行くと思うから……」

 そこで浅倉くんは僕へ顔を向ける。

「……だから、一芝居打って欲しいんだ」

「…………」

 綾織先輩はそれには答えず、何かを考えるように腕を組んだ。



 *四月二六日 金曜日 ゲームセンター裏



 時刻は一八時の五分前。

 僕はシャッター通りをまっすぐに、待ち合わせの場所へと歩く。

 まだ少し太陽が見えているというのに、誰もいないこの空間は、なんだか異質に思えた。

 しかしそのことで僕の足が竦むことは無かった。

 思った通り、そこは桃矢先輩と来たことがある場所だからだ。

 あの時と同じく……道のあちこちに煙草の吸い殻や、粉々になったガラス片が落ちていて、やはり治安の悪さが窺えた。

 薄暗いのも相まって不気味な雰囲気だ。

 しばらく歩くと、シャッターの降りたゲームセンターが現れた。

 あの時は半分空いていたけれど、今日は『死者の楽園』エリュシオンの集会がないため真っ暗だ。

 僕はその手前の道を曲がり、街灯のない路地裏へと足を踏み入れる。

 足元で、小さな影が動いた気がした。

 虫か、またはネズミのような小動物か……あまり考えたくなかった。

 歩き続けると、ようやく月明かりに照らされたポッカリと開いた場所に出る。

 そこには一〇人程の人が集まっていた。

 僕が現れるなり、その場にいた全員の視線がこちらへ集まったのが分かった。

 その視線の冷たさに、足元からゾワっと鳥肌が立つ感覚を覚えた。

 集まっていたのは全員が学生のようで、この辺りの高校の制服を着用していた。

 やはり一番多いのは榎田高校だ。

 四方を建物に囲まれたその場所の最奥で、一人の影が壊れかけたプラスチック製の青いベンチから立ち上がるのが見えた。

「今日は全員で一一人か……。みんなビビっちまって情けねえな。これじゃあ金になんねーよ」

「!」

 その人物は浅倉くんの予想通りの人物……浅倉くんの兄である、浅倉奏さんだった。

 お兄さんのまるでプロレスラーのようながっしりとした身体と高い身長が、長い影を作る。

 今日は彼女さんはいないようだ。

 一つ一つのパーツは浅倉くんに似ているが、身に纏う雰囲気はまるで違う。

 僕と目が合うなり、僅かに瞳を揺らした。

「オマエ……どっかで……」

 その言葉に、僕は心臓が大きく跳ねたのが分かった。

「えっと……会うのは二度目ですね。あの時は、浅倉くんも一緒でしたが……」

「響……? ああ、駅前での時か……」

 お兄さんは納得したように頷く。

 首元に付けられた金色のネックレスが、鈍い光を反射する。

 お兄さんは僕のすぐ近くにまでやってきて、二人でしか聞き取れない声で会話を続けた。

「どうしてここで売人をされているのですか? あの時は、『魔法道具』マジックアイテムについて、何も知らないようでしたが……」

「ああ。その通りだ。オマエらがくれた情報を元に、この仕事を見つけたんだからな」

 僕達が持ってきた情報によって、この件について興味を持たれてしまったのか……。

 それでも僕達よりも早くその地位に辿り着いているということは、情報収集能力は僕達よりもずっと上なのかもしれない。

「で? オマエも『魔法道具』マジックアイテムに興味を持ったのか? それとも……」

 お兄さんの低い声が、すぐ耳元で鼓膜を揺らす。

「俺から、情報を引っ張り出そうとしているのか?」

 切れ長の目が、ギロリとこちらを見たのが分かった。

 背中に冷たい汗が流れるのを感じる。

「……っ」

 ここでボロを出してはダメだ……。

 僕は必死に平静を装いながら、あくまで客としてここにいることをアピールする方法を考える。

「どうしたよ。顔色が悪いぜ?」

 お兄さんは慣れた手つきでオイルライターを取り出し、着火する。

 シンとした空間で、煙草からパチパチと小さな音が鳴るのが聞こえた。

「あ……」

 思わず声が漏れた。

 ジローさんと、メイドさんが言っていた言葉が鮮明に思い出されたからだ。



『それだと薬物や香水の可能性もあるが……。煙草に限定するなら目星をつけたソイツが、パチパチなる煙草を吸ってたら……黒の可能性がある』

『パチパチ……ですか』

『あのね、インドの煙草でそういう銘柄があるみたいだよ。私はメイドだからそういうの良く分かんないけど』



 どうやら、彼らの言っていたことは当たりのようだ。

「……僕がどうしてこの場所にいるのか、ご存知ですよね」

 複合施設での出来事を知っているのか、カマをかけてみる。

「ああ。俺がコレを売ったヤツに声かけたんだろ? 強くなりたいって言って」

「そうです。それ以外の理由はないですよ」

 僕の予想通り、彼の記憶はちゃんと読まれていたんだ。

 だからこそ、僕は今日……ここに来ることを許された。

 それなら、下手に言い訳をする必要はない。

 僕は力が欲しくて……お金ならいくらでも出す予定で、この場にいるという設定なのだから。

「なるほどな」

 僕のその言葉を待っていたかのように、お兄さんは僕から離れて行く。

「……なら、信じてやる。オマエ、椿乃学園だろ? カネは持ってそうだからな。さて……どういう『魔法道具』マジックアイテムがお望みだ? 攻撃力を上げるもの、魔法自体を変更するもの……出す金額によっちゃ、威力の高いヤツを売ってやってもいいぜ」

 その瞬間、辺りにざわめきが広まる。

 学生達の空気が変化したのが分かった。

 お兄さんは口角を釣り上げながら、ゆっくりと人だかりに向かって歩いて行く。

 風が、ふわりと香辛料の臭いを運んできた。

 やはり、成瀬川先輩が行方不明になった時……先輩を連れて行った、もしくはすぐ近くにいたのは……お兄さんだったのだ。

 お兄さんは手に持った小さなアタッシュケースを地面に置き、それを露天商のように広げる。

 その中には、アクセサリーを模した『魔法道具』マジックアイテムが丁寧に並べられていて、簡単な効果が書かれた紙と値札が、細い針金のようなもののでくくり付けられていた。

 集まっていた学生達は我先にとそこへ雪崩込んでいく。

 僕はその様子に圧倒され、一歩離れた場所で見ていることしかできなかった。

 しかししばらくするとその群れも捌け、購入していないのは僕一人になっていた。

「残り物に福はないぜ?」

 お兄さんは僕を見て笑う。

「……まあいいや。オマエは時間がかかりそうだからな、ちょっと待ってろ」

 そう言うと、お兄さんはポケットの中から青い宝石の付いただけのシンプルな形の指輪を取り出し、自分の指にはめた。

「おい」

 お兄さんは、自分が購入した『魔法道具』マジックアイテムに夢中になっている学生達に向かって一声かける。

 するとその場にいた全員が、バタバタと倒れだしたのだ。

「な、何を……」

 驚いてお兄さんに話しかけるが、しかしお兄さんは慣れたようにその指輪を外すと、再びポケットにしまった。

「安心しろ。ここに来た記憶を消しただけだ。記憶を弄るっていうのは脳に負担がかかるからな。気絶してしばらく起きないってだけだ」

「記憶を……? 貴方の魔法は、記憶操作……なのですか?」

「違う。でも、この『魔法道具』マジックアイテムを使えばそれが可能になる」

 お兄さんは足元に置いてあるアタッシュケースをつま先で軽く蹴る。

 月明かりに照らされた宝石達が、ガシャンと音を立て不気味な光を放った。

「どういうことでしょうか?」

「説明が必要か? どうせオマエの記憶も消されるんだぞ」

「……ですが、今ここで、この『魔法道具』マジックアイテムを購入するための商品説明としては、その情報は欲しいところです」

「それは一理あるな」

 お兄さんは納得したように頷くと、そのケースの中から小さな赤い宝石が付いたブレスレットを取り出した。

「ここに付いてるタグ。『大×二』って書かれてるだろ? これは自分の魔法の威力が二倍になるって目安の数字だ」

「威力が二倍……?」

「オマエが風の魔法使いだとして、その威力が蝋燭の火を一本消せるものだとしたら、消せる本数が二本になる……簡単に言うとそんなもんだ。その威力が大きくなればなるほど、金額も上がっていく」

「それが、魔法の強化ということですか」

「その通りだ。自分の持っている魔法の基礎攻撃力が大きければ大きいほど、威力が上がる」

 僕の頭の中で、この前、浅倉くんと話したゲームの内容が思い出される。

 要はこの『魔法道具』マジックアイテムというのは、サポートカードみたいなもので、元のキャラクターの基礎攻撃力を強化してくれるものなのだ。

「で、威力を上げる以外のものもある」

 お兄さんは今度は青色の宝石が付いたピアスを取り出した。

 そのタグには『変+火』と書かれていた。

「これは、自分の魔法自体をまるっと変えるものだ。ここに『+火』って書かれてるだろ? これを使えば、自分の魔法が火を出すものに変化する」

「そんなことが……」

「もちろん威力は自分の基礎値と同じだから、威力が変わることはないけどな。まあ、自分の魔法を偽る時なんかは便利なんじゃね? そんなこと、滅多にないと思うけどな。だから単純に威力上げるヤツの方が売れてるよ」

「例えば、この『魔法道具』マジックアイテムを、組み合わせて使用することはできるのですか?」

 僕は先程お兄さんが説明してくれた二つを指差す。

「自分の魔法を変えて威力を二倍するってことか……。理屈上は可能だな。ただ、『魔法道具』マジックアイテムへの負担は大きくなる」

「暴発の危険性が上がるということでしょうか」

「その通りだ。ま、何事にもリスクはつきものだからな」

「そんな危険なものなのに……求める人は多いのですね」

「そりゃあ、少しでも強くなりたいからな。自分の能力が簡単に伸びるのなら、それに越したことはないだろ」

 ゲームとは違い、自分の魔法の基礎能力を上げることなんかできない。

 ましてやガチャによって引き直しを行うことなんかできないのだ。

 だからこそみんな、この眉唾物のにしがみついているのだろう。

 それが決して悪いことだとは思わないけれど……。

 僕の心の深いところに……なにかモヤモヤとしたものが生まれ始める。

「あの……最後に、一ついいでしょうか?」

 僕の質問に、お兄さんの眉毛がピクリと動く。

「どうして……成瀬川先輩を危険な目に遭わせたんですか?」

「へえ……良く分かったな。連れてったのが俺だって」

 お兄さんは再び煙草を取り出し、その独特の臭いを辺りに充満させる。

 どうやら隠す気はないようだ。

「……オマエ、『死者の楽園』エリュシオンの人間か?」

「違います……けど、学校の後輩です」

「なるほどな」

 お兄さんは僕の言葉に納得したように一度笑うと、煙草を口から出し、吸い殻を床に捨てる。

「忠告だよ。成瀬川は……色々と近付き過ぎた」

「色々……?」

「ああ。一学生が、首を突っ込んではならない領域だ。つっても、実際に命令を出したのは俺じゃねーけどな。成瀬川の記憶を消しただけじゃ、忠告は伝わらないだろ? だから、見せしめにしただけだ」

 その返答に、僕の心のモヤモヤとしたものが、形を作っていくのが分かった。

「つまり……この『魔法道具』マジックアイテムは、組織的に売買されている――――貴方の後ろには、更に危険な人達が付いている……ということでしょうか?」

「……なるほど、オマエも勘がいい部類らしいな」

 僕の言葉に、お兄さんはクックッと喉で笑う。

「だが、あまり首を突っ込むのはやめておけ。成瀬川は情けで助けてやっただけだ。二度目はない」

「……貴方に命令をしているのは、誰なんですか?」

「さあな。俺だって記憶を操作されてる。俺はこの『魔法道具』マジックアイテムを売って来いという、誰かの指示に従ってるだけさ」

「そんなの……っ! 貴方はそれでいいのですか……!?」

「いい。俺には金が必要なんだ。せっかく手に入れた割のいい仕事……手放してたまるかよ」

 そう吐き捨てる。

 お兄さんは、お金に困っているのだろうか。

「さて、お喋りはここまでだ。買う気はあんのか? ないなら、このままオマエの記憶を消して、仕事完了だ」

 お兄さんは再びポケットに手を突っ込むと、先程使用した指輪を取り出そうと――――したところで、自分の身体の違和感に気付いたようだ。

「なんだ……? 身体が……」

 力が入らないのか、困惑の表情を浮かべながらその場にしゃがみ込む。

「やっぱり下っ端は何も知らねえみたいだな」

「!」

 僕はその声の方へと振り返る。

 いつの間にか背後に、月の光を背にした綾織先輩と浅倉くんが立っていた。

「響……?」

 お兄さんの目が、浅倉くんを捉え……大きく見開かれる。

「こんばんは、兄さん」

 浅倉くんは抑揚のない声でそれに答える。

「何でオマエがここにいる……」

「……兄さんを取り戻すためだよ。そろそろこの『魔法道具』マジックアイテムの事件から、足を洗って貰おうと思って」

「なんでそれを……! オマエは魔法使いじゃない……え?」

 困惑した表情を返すお兄さんに、また一歩浅倉くんが近付く。

「え……? お兄さんは、浅倉くんが魔法使いだと知らないんですか……?」

 でも、この前路地裏では……何か知っていそうな雰囲気だったのに。

「……うわ。記憶、弄られすぎ。しかもへったくそ。兄さんの原型保ってるだけじゃん」

 僕の質問に、浅倉くんは小さく悪態をつく。

 不機嫌を露わにしながらお兄さんの元へと近付いていく。

 そしてゆっくりと手を伸ばし、抵抗できないお兄さんの髪の毛を撫でるように触れた。

「ぐ……っ」

 その瞬間、お兄さんの表情が一変する。

 みるみる顔色が悪くなっていくのが分かった。

「……ふうん。ロックがかかってる」

「どういう意味だ?」

 浅倉くんの言葉に、綾織先輩は怪訝そうに眉を顰める。

「兄さんに『魔法道具』マジックアイテム売買の話を持ちかけた人間の顔と声に、ノイズが入ってるってこと」

「例の記憶操作の魔法使いか」

「そういうこと。あーあ、なんか何重にも上書きされて、ぐっちゃぐちゃになってる。これじゃあ、記憶の混同起こりまくりでしょ。どうやったらこうなるのさ……――――でも」

 浅倉くんが目を細める。

「こんなの簡単に解除できるけどね」

 浅倉くんは集中するように、目を瞑り……大きく息を吐く。

「ほんとに兄さんは……。いつもいつも危険なことに首を突っ込んで……俺がどれだけ心配してるか……ああ、もう。絡まったコードみたい。綺麗に解くの面倒くさいな……」

 続けてそうぼやくと、僕と綾織先輩をチラリと見て……指の先に力を入れる。

「ま、いっか。とりあえず……全部元に戻すよ」

 全部……?

 僕が質問しようとしたその時、突然お兄さんがその場で倒れ込んだ。

 しかし浅倉くんはその華奢な手で再びお兄さんの頭を撫でると、愛おしげに目を細める。

「……ああ、そういうこと」

 浅倉くんは納得したように、一人頷くとお兄さんの頭からゆっくりと手を離した。

「犯人が分かったのか?」

「ん」

 腕を組みながらその様子を観察していた綾織先輩を、自分の近くに呼ぶ。

 そして小さな声でそっと耳打ちした。

「あー……」

 綾織先輩の眉間に再びシワが寄る。

「なるほどな、自分のフィールドなら強化するのも簡単か……抜かったぜ。つーか、よく考えりゃ、一番怪しいじゃねえか」

『魔法道具』マジックアイテムを色々使って、何人も人間を媒介させて、尻尾を掴まれないようにしてたみたい。まさか逆に記憶を読まれるとは思わなかったんだと思うよ」

「そりゃそうだ。敵さんも、まさか自分の上位互換がこんな近くにいるなんて思わないだろ。自分の魔法に自信を持ってんだからな」

 綾織先輩はそう言って鼻で笑う。

「孫」

「はい……?」

「テメエの推理、当たってたみたいだぜ」

「そ、そうなんですか……!?」

 少しでも役に立てたことに嬉しくなり、思わず両頬に手を当てる。

 でも、一体どのあたりが当たっていたのだろう。

「となると……やっぱり孫にやらせるしかねーな……」

 突然出てきた自分の名前に、僕の動きが止まる。

「そう言うと思って、記憶を上書きしておいたよ。たぶん相手は兄さんと接触して記憶を読むはず。だから宮守くんが『魔法道具』マジックアイテムの、更に強力な物を欲しがってるってことにしておいた。小鳥遊くんや俺だと、疑われると思うから。それならたぶん……相手から接触してくるはずだよ」

「……それが適任か」

 綾織先輩は僕を見ると、少し不安そうな表情をする。

「……っ」

 その時。

 倒れていたお兄さんが、呻き声を上げながら大きな身体を重そうに起こした。

 そして僕達三人を視界に入れる。

「ねえ……宮守くん」

「はい?」

「……ごめんね」

「え……」

 僕が謝罪の意図を聞き返す前に、浅倉くんはお兄さんの元への歩き出した。

だね、兄さん」

「……っ!」

 浅倉くんのその言葉に、お兄さんは立ち上がるどころか再び尻餅をついて、這うように後ろへと下がる。

「響……! オマエ……なんでここにいる……!?」

 お兄さんは怯えた表情のまま、それを隠そうと威勢を張りながら浅倉くんに凄みを利かせる。

 それは、この前浅倉くんと接していた時の余裕がある態度とは全く違う……まるで別人のようだった。

「アイツ……弄ってやがったな。全部元に戻すって、そういうことかよ」

「…………」

 綾織先輩の言葉に、浅倉くんは僅かに表情を動かす。

 しかし浅倉くんはそれを振り払うように息を吐くと、お兄さんの頬にそっと触れようと右手を伸ばした。

「触んな……化け物!」

 しかし今度は勢い良く払いのけられてしまった。

「…………」

 お兄さんの声が辺りに木霊する。

 拒絶された浅倉くんだが、表情は変わらない。

「酷いよ、兄さん……俺、こんなにも心配してたのに」

 払われた自分の右手を見つめながら、小さくため息をつく。

「は……っ。またそうやって俺の頭を弄んのかよ……! 意味分かんねえテキトーな記憶、埋めつけやがって……!」

 苦しそうに息をしながらも、お兄さんは必死で逃げ道を探しているのが分かった。

 瞳の奥にあるのは……恐怖の色だ。

「その狂った魔法で、自分の都合のいいように人の頭を弄って生きてきたんだ……オマエは特別だもんなぁ……? 浅倉家待望の『痣付き』なんだから……!」

「え……『痣付き』って……浅倉くんが……?」

 思いがけない言葉に、僕は浅倉くんを見る。

 『痣付き』ということは、神田さんやおじいちゃんと同じ……。

 『エデンの園』ガーデンオブエデンで、序列の順位を与えられているということだ。

「…………」

 浅倉くんは何も言わない。

 しかし小さく何かを呟いた後――――壁の方を向きながらいま着ている黒いパーカーの裾を捲り上げる。

『エデンの園』ガーデンオブエデン――――序列第七位、浅倉響」

 その真っ白な背中の右側。

 腰部分に、直径一〇センチ程の『聖痕』があった。

「あ……」

 以前綾織先輩が言っていた第七位って……浅倉くんのことだったんだ。

「宮守くんにだけは……知られたくなかったんだけどね」

 乱れた衣服を直しながら、浅倉くんは困ったように微笑む。

「ねえ……綾織さん」

「なんだ?」

「兄さんの動きを封じて。大人しくさせるから」

 浅倉くんの言葉に、お兄さんの顔に絶望の色が浮かぶ。

「っざけんな! これ以上俺に干渉すん――――っ!?」

 今にも掴みかかろうとする、お兄さんの動きが止まった。

 どうやら、綾織先輩の魔法が発動したようだ。

 それでもまだ、最後の抵抗をするかのように悔しそうに顔を歪める。

「くっそ……っ! なんでいつもいつも……っ! 人の頭ン中、好き勝手に弄りやがって……! 気持ちわりーんだよ……!」

「…………」

「今度は……だんまりかよ! 人の人生壊しといて……いい身分だな……っ! 言えよ……! オマエは俺の頭を弄って、俺と恋人ごっこしてるって――――」

「黙って」

 ついに浅倉くんが口を開く。

 お兄さんと同じ目線の高さにしゃがみ込み、身動きの取れなくなったお兄さんに抱き着き……右手を後頭部に回した。

「……っ」

 その途端、お兄さんの目と瞳孔が大きく開く。

 浅倉くんが魔法を使ったのだと、すぐに分かった。

「どうして……小鳥遊くん達みたいに……なれなかったのかなぁ……」

 小さく呟いた声は、風に乗って消えて行く。

 そして名残惜しそうに、お兄さんから身体を離した。

 お兄さんは放心状態のままその場に座り込む。

 浅倉くんがしていること……それが何なのか僕には分からなかった。

 けれど……浅倉くんは苦しんでいて、それが自分の力ではどうしようもないことなのだということは……なんとなく伝わって来た。

「ああっ! こんなトコにいた!」

 静寂を打ち壊すように、女性の甲高い声が辺りに響く。

 その声の方へ顔を向ければ、タンクトップに薄手のパーカー。

 そしてスキニージーンズを履いた、金髪の女性が立っていた。

 確かこの前……お兄さんと一緒にいたお姉さんだ。

 名前はリナさんと言ったっけ……。

 お兄さんのことを探していたのだろうか。

「え……何この状況。ちょっとカナデ! 何やってるの? しっかりしてよ!」

 一〇センチはあるだろう厚底のサンダルでお兄さんへ駆け寄ると、浅倉くんの横を通り抜け、お兄さんの肩を揺らす。

「っ」

 身体をゆすられたことで正気に戻ったのか、お兄さんは頭を抑えながらゆっくりと立ち上がった。

 そして、心配そうに覗き込むリナさんの顔をジッと見つめる。

「良かった……ケガしてない? 早く帰って――――」

「……誰だよ、オマエ」

 お兄さんはリナさんを見て冷たい声を発した。

「え……カナデ……? 何言って……」

 その発言に、リナさんの声が震えた。

 僕も綾織先輩の思わず袖口を掴む。

「……改竄したな」

 綾織先輩が一言、呟いた。

 お兄さんは不機嫌そうにリナさんの全身を一瞥する。

「オマエ、誰だっつってんだよ。……逆ナンか? まあ……条件によっちゃ、ついてってやってもいいぜ?」

「ちょっと……冗談でしょ……?」

 リナさんの声が震える。

 目の前の恋人が突然、自分の存在を忘れてしまったのだ。

 魔法の存在を知っている僕だって、俄かに信じられない。

 記憶というのは、一本の木のようなもので。

 姿、匂い、音……微かな記憶によって、他の記憶が次々に呼び起こされていくのだ。

 お兄さんの中で、リナさんという存在が完全に消えてしまっているのだ。

 そんなことができるなんて……。

「おねーさん」

 浅倉くんは戸惑うリナさんに後ろから声をかける。

 そして、お兄さんの右腕に……まるで恋人のようにギュッと抱き付いた。

「そういうことだからさ、俺の目の前から消えて。おねーさんも、別人になりたくないでしょ?」

「っ」

 リナさんの絶望した表情を見て、浅倉くんは微笑む。

 それは、勝ち誇った顔だった。

「な……んなのよ……っ」

 リナさんは躓きそうになりながら……シャッター通りへの道を駆けていく。

「悪趣味だな」

 綾織先輩が嘲笑ったのが見えた。

「何とでも言って」

 浅倉くんはまるで猫のようにツンと、そっぽを向く。

「自分に与えられた魔法を好きに使って何が悪いの? あー……倫理とかそう言う話は面倒くさいからやめてよね……。まともな倫理観なんて持ってたら、こんなことしてないんだから」

「別に非難なんかしてねーよ。便利な魔法で羨ましいって思っただけだ。好きなことし放題じゃねーか」

「……一応、俺の名誉のために言っとくけど、こうやって自分の欲の為に常に魔法をかけてるの……兄さんに対してだけだから。あとは『エデンの園』ガーデンオブエデンの命令に従ってるだけ」

「テメエの兄貴も、とんでもねーヤツに目をつけられたな」

「…………そうかもしれない」

 浅倉くんは小さくそう言うと、僕の方を見た。

「ひとまず、俺が力を貸すのはここまで」

 そう言って、悲しそうに微笑む。

「綾織さんがいるから、キミの記憶……消せないや。さっきも言ったけど……宮守くんには、見せたくなかったのになぁ……」

「浅倉くん……」

 今にも泣きそうな浅倉くんの顔に、僕は必死で考えを巡らす。

 もしも浅倉くんが辛い思いをしているのなら……僕は……。

「あの……っ! 浅倉くんが不安なら、今日の僕の記憶を消しても構いません……っ」

 そう叫ぶ僕の腕を、すぐに綾織先輩が強く掴んだ。

「黙ってろ。コイツが今日の記憶だけを消す保証がどこにある。テメエが見せたくないもの……全部見られる可能性もあるんだぞ」

「それは……」

「信用ないなあ……」

 浅倉くんはガックリと肩を落としながら、自虐的に笑った。

「まあ、しょうがないよね。さっきの見られたんだから……言い訳できない。俺は、『エデンの園』ガーデンオブエデンの命令とはいえ、今までそうやって色んな人の記憶を消したり、書き換えたりしてきたんだから。自業自得」

 浅倉くんはそう言うと、綾織先輩を見上げる。

「綾織さん。さっき言った通り……兄さんの頭に、宮守くんの記憶だけは残しておくよ。今日の夜中には、相手にそれが伝わるように手を打っとく。その他は……俺の都合のいいように変えるけど。例え犯人に記憶を読まれたとしても、足は付かない。俺の魔法は絶対だから」

「……好きにしろ」

「うん……ありがと」

 浅倉くんは軽く頭を下げると、強くお兄さんの腕に抱き付いた。

「帰ろう、兄さん……」

「……ああ」

 お兄さんは焦点の定まらない目で、浅倉くんを見る。

 そして、少し前かがみになると……浅倉くんの柔らかな髪に唇を落とした。



 *四月二六日 金曜日 学生寮



 僕と綾織先輩はお互い何も話さないまま、学生寮まで辿り着いた。

 部屋の鍵を開けば、朝と変わらない光景が広がる。

 僕はまっすぐに自分のベッドに向かい、制服のまま仰向けに倒れ込んだ。

 大きく息を吐き出したところで、制服が皺になることを思い出す。

 それでも僕は身体を起こす気になれなかった。

 ただ天井を見つめ、頭の中を巡る色々なことを整理しようと試みる。

 やはりテストと違い、答えのない問題を考え続けるのは苦手だ。

 ずっと病院で過ごしていたことで、人並みの経験や価値観を持っていないことも足を引っ張っている要因だと思う。

 ……そんな言い訳で自分自身を慰め、そしてまた解決できない問題へのジレンマとなる。

 ふと横目で綾織先輩を見れば、慣れた手つきでネクタイをほどき、制服から部屋着へと着替えている途中だった。

 ガッシリとした恵まれた体格が、やはり羨ましい……なんて、現実逃避に走る。

 僕がここでどんなに悩んでいても、何も解決しないというのに。

 僕はいつの間にか瞼が重くなってくるのを感じた。

「寝るなら着替えてからにしろ」

「あ……はい」

 綾織先輩の言葉に、僕は慌ててくっつきそうになる瞼を開く。

 気だるい身体を起こし、ベッドの上に座った。

 綾織先輩の着替えが終わったところで、ずっと考えていた言葉が、ぽつりと口から飛び出した。

「浅倉くんは……お兄さんが好きなんでしょうか……」

「見た通りだろうよ。とんだ異常性癖者だな」

 鼻で笑いながら、ナイフのような言葉が返ってくる。

 思ったことをそのまま言葉にするのは、先輩の長所でもあるんだけど……。

 今はそれを受け止める余裕はなかった。

「クラスメイトの裏の顔に幻滅したのか?」

「……してない、です。もしも……もしも僕が同じ魔法を持っていたとしたら……用途はどうであれ、きっと……使ってしまうと思いますから……」

 好意を持った人に対してそれを行うかは分からない……。

 けれど、自分が何かに悩んでいたとして……それを自分の魔法の力で解決できるとしたらきっと……。

 誰だってその力に頼ってしまうだろう。

「お兄さんの記憶を弄っていたということは……浅倉くんの魔法は、記憶を読む以外のこともできるということですか?」

「ああ。記憶の改竄や消去……それから洗脳。何でもできる。便利なもんだ」

「洗脳……」

 物騒な単語に、僕は心が重くなるのを感じた。

「……先輩は、揺るぎない価値観を持っていて……たまに羨ましいです」

「は? バカにしてんのか?」

「してないです。だって先輩は……何が起こったって、悩んだり立ち止まったりすること……ないじゃないですか」

「…………」

 先輩は一瞬言葉を飲み込んで、しかしすぐに口を開く。

「……オレには関係ないことだからな」

 そう言ってそっぽを向く先輩の目は、何か悲しげな色を帯びているように見えた。

 上手く言えないけれど……。

 先輩の突き放すような言葉は、一般的に言う『冷たい』とは違う気がする。

 だって……先輩は本当は優しいことを知っているから。

「浅倉くん……苦しそうでした……」

「そりゃそうだろ。好奇心で使った力が、取り返しの付かないことに繋がることだってある。動かす力が大き過ぎんだよ。ハイリスクハイリターンって言葉があんだろ。結局アイツのやり方は、墓穴掘ってんだよ」

「そう、ですね……。もしも自分にそんな力があったとしたら……きっと『普通』では無くなってしまうと思います……だって、他の人との基準が違ってきてしまうのですから」

「よく分かってんじゃねーか。巨大な力を持つ者なんて、碌なヤツいねーよ。なんでも好き勝手できるんだからな。夢見るのやめといた方がいいぜ。特に『エデンの園』ガーデンオブエデンの痣付きなんて、ほとんどが狂ってる。常識人を絵に描いたような人間なんて、あの無能位だ」

 綾織先輩の言葉に、酷く納得した。

 確かに神田さんは面倒見がいい、優しいお兄さんというイメージだ。

「おじいちゃんも、言っていました。大きな力を持つ者は……心が壊れやすいと」

「…………」

「産まれた時から辛い運命を背負うことが決まっているのだから……せめて迷わずに、正しい倫理観を持って生きるためには、大人が手を差し伸べないといけない。その子が、間違った道に進んでしまう前に……と」

「……相変わらず、綺麗事しか言わない爺さんだな。自分はとんでもねえ汚い世界で生きてきたくせに」

 先輩はそう言って俯き、長い前髪で顔を隠す。

「先輩は、どうしてそんなに『エデンの園』ガーデンオブエデンの関係者について詳しいんですか?」

「……テメエには関係ないだろ」

「それは……そう、ですけど」

 距離が近づいたと思ったら、また逃げてしまう。

 先輩は初めて会った時から、僕に対して大きな壁を作っているのだ。

「この前も言ったが、『エデンの園』ガーデンオブエデンには関わるなよ。爺さんは、『エデンの園』ガーデンオブエデンがテメエを巻き込まないように今まで上手に隠してたんだ。それを無駄にするようなことすんじゃねーぞ」

「…………」

「なんだよ」

 言葉を止めた僕を、先輩は怪訝そうに見つめる。

「先輩は、優しいですね……」

「…………は?」

「先輩だって、おじいちゃんと同じで……僕を気にかけてくれるじゃないですか。僕……ずっと病院にいて……接していた人がおじいちゃんだけだったので、分からないことだらけで……。だから、先輩の言葉に凄く助かってるんです」

 ちょっとぶっきらぼうで、不器用な人だとは思うけど……。

 今の僕には、無くてはならない人だと思うから……。

「僕……先輩がいてくれて良かったです」

「テメエ……なんでこのオレがここまで面倒見てやってるか、本当に分からねえのか?」

「え……」

 綾織先輩の声が低くなった……と思った瞬間。

 何か……見えない強い力に両肩を押され、ベッドの上に押し倒されたことをようやく理解した。

 遠くで俯いた先輩の姿が見える。

 まるで全身を釘によって磔にされているように、僕の身体はピクリとも動かない。

「何、都合のいいように解釈してやがる……。テメエの面倒見てんのは、爺さんに頼まれてるからだ……! テメエ個人なんかどうでもいいんだよ」

 綾織先輩が魔法を使ったのだと、離れた場所から一歩ずつこちらへと歩いてくる先輩の姿によって理解する。

「そのクソみてえな、何も知らない目が……何よりもウザイんだよ! 爺さんにずっと守られて、大切にされてきたお坊ちゃんが!」

 今度は先輩本人によって、両腕をベッドに押し付けられる。

「っ」

「何でテメエばっかり爺さんに……っ! オレだって……」

 骨が軋むような強い力で手首を掴まれ、思わず声が漏れる。

「オレはこの魔法がなければ、爺さんと会うことも無かった……のに……っ! 何の取り柄もないテメエが……何で……こんなにも爺さんに大切にされてんだよ……! 死ぬ前も死んでからもずっと……テメエのことばっかりだ!」

 先輩は右手を僕の手首から話すと、僕の首元をそっと撫でる。

 喉仏を通り、そしてその先へと手が侵入していく。

 人に触れられることに慣れていない身体が、瞬時に総毛立ったのが分かった。

 何かが胸元を擦る感覚がして、それが何か確認すれば……。

 先輩は、おじいちゃんがくれたドッグタグを……ガラス玉のような瞳で見下ろしていたのが見えた。

 僕は自分の目頭が熱くなっていることに気がついた。

 視界が涙で歪むのは、恐怖なのか悲しみなのか……自分でも分からなかった。

「せん、ぱ……」

 自然と、僕の口から声が漏れる。

 ツーっと、何かが頬を伝ったのが分かった。

 それを見て先輩は、一瞬だけ驚いた表情になり……。

 ドッグタグから手を離し、枯れた声で言葉を発した。

「なんで……目の色が爺さんと同じなんだよ……。血、繋がってねーくせに……」

 ようやく先輩と目が合う。

 その目が嫉妬の色を宿していることに、ようやく気がついた。

 ボーっとする頭で、先輩の出生を思い出す。

 先輩とおじいちゃんの関係――――。

 親がいない先輩にとっては、おじいちゃんが親代わりで……。

 その愛情を一身に受けていて……そしてこれからもずっと受けられるものだと思っていたのに……。

 それなのに……僕という存在が現れてしまったんだ。

 先輩の居場所を奪ってしまったのは……僕だったんだ。

 邪魔だと思っていた僕を守って欲しいと言われたこと……。

 先輩はどれだけ悔しかっただろう……。

 どうして今更、気が付いたんだろう。

 僕は、先輩に好かれる要素なんて何一つ無かったというのに……。

「……ごめんなさい」

「っ」

 僕の言葉を聞いた先輩は、ビクリと肩を震わせ……そして僕の上からすぐに離れる。

 ベッドに横たわる僕に背中を向け、部屋の出口の方へ歩いて行く。

「……頭、冷やしてくる」

 先輩は小さくそう言うと、クローゼットにしまってあったジャケットを羽織った。

 これから外出するつもりなのだろうか。

 消灯時間はとっくに過ぎているというのに……。

 綾織先輩は、そのまま部屋の外へ出て行ってしまった。

 けれど僕は、その後ろ姿を呼び止めることが出来なかった。

 上手く言葉にならないやるせない気持ちが、心の奥深くに沈んでいった。

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