Ⅱ-Ⅴ 平倉桃矢
*四月一一日 木曜日 学生寮
頭の上で鳴り響くアラームに起こされ、僕は大きく背伸びをした。
身体はまた眠っていたいようだが、しかし頭は思ったよりもスッキリとしている。
昨日の探索により、やはり身体はかなり疲れていたみたいだ。
夢すら見ることなく熟睡しまった。
しかし……。
「……!? い、痛い……!?」
床へ一歩踏み出した途端、ふくらはぎに謎の痛みが走る。
「え……!? なんですかこれ……!? え、成長痛……ではない、ですよね……」
成長痛は骨が軋む痛みはずだ。
けれど痛みを感じる部分は筋肉の部分。
つまり……。
「こ、これが……噂に聞く筋肉痛……!」
生まれて初めての痛みに、謎の感動を覚える。
恐る恐るもう一歩踏み出せば、やはり両ふくらはぎに地味な痛みが走る。
しかし、我慢できないほどではない。
治るにはまだしばらく時間がかかりそうだが、こんな痛みに負けてはいけない。
いつも通り、学校へ行く支度をしなくては。
「いや、でも……結構……痛い……」
*四月一一日 木曜日 並木道
歩くたびに痛む足を引きずりながら、いつものように通学路を歩いていく。
杖をつくおばあちゃんに抜かされた気がするのはきっと気のせいだろう。
それでも寮を早めに出発したため、まだ予鈴までの余裕はある。
マダムに連れられた犬が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
そしてようやく正門までやって来たところで、そこに見覚えのある人が立っていることに気が付いた。
肩まで伸びた黒髪が、風に揺れている。
長身を門に預けながら、横を通り過ぎる女生徒達に笑顔で手を振りつつ、誰かを待っているようだ。
次の瞬間、近付いてきた僕と目が合う。
「や」
「生徒会の……宮村雅さん……」
「ボクの名前、覚えててくれたんだ? 嬉しいなぁ。さっすが宮守くん。頭がいいねえ」
よしよし、と言いながら頭を撫でてくる。
まるでさっきの犬のような扱いだ。
「しかも今日は遅刻ギリギリでもない。ちゃんと朝起きられたんだね」
「は、はい……」
黒髪を風に靡かせながら、うんうんと一人頷いている。
「あの、何かご用でしょうか?」
「一昨日の火曜日」
「はい……?」
「シャッター通りで何してたのかなぁって」
「え……」
目だけで笑う宮村先輩の態度に、僕は警戒するように、僅かに足を引いて一歩後ろへ下がった。
確かにシャッター通りへは桃矢先輩と行ったけれど、その場に宮村先輩の姿なんてなかったはずだ。
「えっと……先輩は、そこにいらしたんですか?」
「んーん。風の噂でね、聞いただけなんだけど」
宮村先輩は表情を変えずに笑っている。
笑っているけれど、その瞳の奥はしっかりと僕を捉えているようだ。
何か含みがあるのだろうか。
情報が少な過ぎて、先輩がどんな答えを求めているのかが分からない。
「あの辺、危ないんだよ?」
「そうみたいですね……桃矢先輩も言っていました」
「桃矢……ああ。平倉桃矢か。うちの会長がご執心の……」
「ご執心?」
「そ。本人には自覚有るんだかないんだか知らないけど……話してると、結構気にしてるんだよねえ。まあ、顔は悪くないから? 仕方ない気もするけど……あ、ボクには負けるけどね。まあ、好みってものがあるし。昨日も
そういえば昨日、部室に生徒会長さんが来ていた。
でもそれは副会長さんを探していたからのはずだ。
あの後すぐに恭次先輩に追い出されていたけれど……。
「副会長を探してたっていうのは、完全に建前で……ああ、これオフレコね。あんま余計なこと話すと、ボクが怒られちゃ――――」
「何を遊んでいる」
宮村先輩が言いかけたところで、背後から先輩よりも更に大きな人影が現れた。
「わ。見つかっちゃった」
宮村先輩はてへ、と自分の頭を小突く。
そこにいたのは、渦中の人物である生徒会長さんだった。
「会議をサボるな」
「えー……ちゃんと出席したじゃない。大体、あんな朝早くから集まるって、労働基準法違反だよぉ。ま、途中でトイレって言って抜け出したけど」
宮村さんの返答に、メガネの奥からその鋭い視線を覗かせる。
オーラというか、雰囲気というか……相手に有無を言わさぬ何かを持っている気がする。
やはり、話しやすい恭次先輩とはまるで違う。
「はいはい。そんな怒んない」
宮村さんは口を尖らさながら弁解を続ける。
「右も左も分からない新入生を気遣ってあげようっていう、ボクの優しい心持ちじゃないか」
「そんなもの、うちの愚弟が勝手にやっている」
「ああ、例の部活?
業を煮やしたのか、生徒会長さんは宮村先輩の襟首を掴むと、校舎の方へと歩いて行ってしまった。
結局、宮村先輩はが言いたかったんだろう。
一連の出来事のせいで、筋肉痛の痛みなど、すっかり頭から無くなっていた。
*四月一一日 木曜日 教室
……というのは一瞬の勘違いだったらしく、足の痛みと共にやっとの思いで教室に辿り着く。
「到着、です……」
ようやく僕は、倒れ込むように椅子に座った。
「体育の授業がなくてラッキーでした……」
普段だって十分動きが遅いのに、これ以上遅くなったら、クラスメイトの足を引っ張る以上のことをしてしまいそうだ。
「どしたの、四季くん」
おはよ、と添えて小鳥遊くんが話しかけてくれる。
「ええと……筋肉痛、です……」
「え、なんでまた。何か特別な運動でもしたの?」
「運動……というよりはウォーキングですかね」
「うっそ。そんなので筋肉痛?」
小鳥遊くんは珍しいものを見るかのように、無邪気な笑みを浮かべる。
「俺も結構なるけど」
浅倉くんが僕の隣の席から、助け舟を出してくれた。
「キミ達、運動し無さすぎなんだよ。運動部にでも入部したら?」
「ぐ……また正論を……」
浅倉くんが怪訝な顔を返した、その時。
教室の入り口から黄色い声とざわめきが同時に聞こえてくる。
「え、何……?」
あまり起こらないそのイベントに、僕達はそちらへ一斉に顔を向ける。
教室の入口で、複数人の女生徒が、一人の背の高い生徒を取り囲んでいるところだった。
その騒ぎを見て、更にクラス中がそちらに注目するという連鎖が起こっている。
女の子達が我先にと話しかけ、用件を訊いているようだ。
「ええと……このクラスに、宮守っているか?」
まさかの自分の名前が聞こえ、動揺する。
困った笑顔でそこに立っていたのは、なんと桃矢先輩だった。
「と……桃矢先輩!?」
慌てて立ち上がれば、ガタリという椅子の音が辺りに響く。
今度は僕がクラス中の注目の的になってしまっていた。
僕は急いで先輩の元へ向かう。
クラスの女子達から羨む視線を痛いほど受けるが、小さく頭を下げながら桃矢先輩と二人で廊下へ出た。
「悪いな、思った以上に騒ぎになっちまった」
「いえ……僕もビックリしました」
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
そういえば、土曜日に先輩と会った時も一年生の女生徒から告白されていたんだっけ。
最近ずっと先輩と一緒にいたせいで、その整った容姿が当たり前のものになっている自分に驚く。
第三者、特に異性にしたら自分を積極的にアピールしたいほどに、先輩の存在は魅力的なんだろう。
少し聞き耳を立てれば、まだ教室の中はまだ喧騒の余韻が残っている音がする。
たぶん、先輩の感想を言い合っているのだろう。
あまりいい気はしないけれど、あれだけ注目されてしまったのだから仕方ないか……。
「僕に用事だったんですね」
「あ、そうそう。今日の放課後の話なんだが……教会入れなかっただろ? だから今日は放課後になったらすぐ教会へ向かおうぜ……っていうのを伝えるために来たんだ。昼に話そうかと思ったんだけど、たぶん今日も補習で行けないからな」
先輩は補習の話になると、明らかにテンションが下がる。
不適切かもしれないが、それが可愛く思えた。
「すみません、僕が携帯電話を持っていないばかりに……」
「いや、大した手間じゃないから大丈夫だ」
先輩はそう言って笑う。
やっぱり先輩は容姿だけじゃなくて、とても優しい人だ。
「それじゃ、また放課後に」
先輩との約束に、僕は頷いた。
*四月一一日 木曜日 昼
お昼休みを告げるチャイムが鳴った。
教室にいるクラスメイト達は、各々の食事場所へと移動していく。
「さて、俺はゲーム進めないと……」
そう言って携帯電話と携帯充電器を取り出す浅倉くんの片目の下には、昨日よりも濃くなったクマがあった。
「すごい集中力だねえ。ボク、ゲームって三日で飽きちゃうんだよねえ」
「飽きる? 意味分かんない。こっちはプライドがかかってるんだよ」
「いや、そっちの方が意味分かんないし……」
小鳥遊くんがジトッと目を細めながら、不思議そうに浅倉くんを見つめる。
しかしすぐに何か思い出したように、僕へ笑顔を向けた。
「四季くん、今日も学食?」
「はい、そうです」
僕が頷くと、小鳥遊くんは嬉しそうに笑う。
「それじゃあ、一緒に行こう。今日もサラ、先に学食へ向かってるみたい」
「是非!」
「ということで、響くん。ボク達はご飯食べてくるからね」
「はいはい、いってらっしゃい」
手をヒラヒラと振る浅倉くんを背に、僕達は二人で教室を出る。
こういう誘いがとても青春っぽくて嬉しいな。
まさに絵に描いたような学校生活を満喫している感じだ。
「そういえば、足はどう? まだ痛むの?」
「そうですね……ズキズキします」
「地味に痛くてヤダよねー。あと二、三日は治らないんじゃない?」
「そういうものなんですね……」
「できるだけ安静にしてた方がいいと思うけどね」
「安静、ですか……」
そう言われた僕の頭に、一抹の不安が過ぎる。
今日も商店街近くの教会まで行くのだけど……。
でも昨日よりもずっと近い場所だから……平気、だよね……?
「四季くん、食も細いからさ。ちゃんと食べて体力つけないとね」
「それはその通りです」
「お肉食べて、お肉」
「はい、そうしま――――」
そう言いかけたところで、僕の意識は別のものに奪われてしまう。
廊下の曲がり角を曲がろうとしたところで、誰かにぶつかってしまったのだ。
当人同士、ゆっくり歩いていたため衝撃は大きくなかったが、それでも相手との体格差のせいで僕は尻もちをついてしまう。
「四季くん!?」
すぐ隣で小鳥遊くんが驚きの声を上げ、そしてすぐにしゃがんで身体を支えてくれた。
「ちょっと、ちゃんと前見て……」
小鳥遊くんがぶつかった相手を睨みつけるように顔を上げれば、そこには。
「ごめんね」
すぐに差し伸ばされる手。
「ケガはない?」
下を向いた目線の先にあったのは、スラリと長い足だった。
そこから視線を上に移動していく。
見た目を裏切らない、端正な顔立ちがこちらを見ていた。
その人は背中まで伸びた、漆黒の長い髪を、そっと耳にかける。
「成瀬川先輩……!」
「サラ!」
僕と小鳥遊くんは同時に叫んだ。
「あ、ありがとうございます」
僕はその差し出された手を握り返す。
少し骨ばってるが、しかし温かい手だった。
「こめん。よそ見してた」
「こ、こちらこそ……もっと注意深く歩いていれば……」
「もー、二人共ケガ無くて良かったよー」
お互い深々と頭を下げれば、小鳥遊くんから安堵の声が漏れた。
小鳥遊くんは、早めに会えたのが嬉しかったのか、成瀬川先輩の腕にギュッと抱き付いた。
小鳥遊くんが幸せそうに笑うのを見ていると、何だか僕も嬉しくなってくる。
僕は二人の一歩後ろからついていくことにした。
「サラ、こんなとこ通るなんて珍しいね」
「移動教室だったんだ。学食へはこっちから行った方が近いから」
「何の授業だったの?」
「音楽。第三音楽室での授業」
「第三……」
僕と小鳥遊くんは顔を見合わせる。
あの日の出来事を思い出し、二人して苦笑いを浮かべる。
「この学校、大き過ぎてさー。教室覚えるの大変だよ」
「地図、端末に入ってなかった?」
「入ってだんだけどさー」
小鳥遊くんが助けを求めるように僕を見るけれど、僕は困った笑みを返すことしかできなかった。
「ん……どうしたの?」
「え?」
ふと、成瀬川先輩が僕の動きを見て、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「足……引き摺ってる? あ、もしかして、さっきので……」
悲しげに眉毛を下げる成瀬川先輩に、僕は慌てて弁解する。
「ち、違います! これは昨日歩き過ぎてしまいまして……筋肉痛といいますか……っ!」
「筋肉痛……? 若いのに」
ほっとしたように成瀬川先輩が笑う。
「ちょっと止まって」
そう言うと、僕を廊下の端に移動させ、そして自分はしゃがみ込む。
「…………」
両脹脛をじっと見つめると、そこに両手でそっと触れた。
「!」
その瞬間、不思議なことにみるみる痛みが引いていくのを感じる。
「え……え……!?」
驚いて成瀬川先輩を見れば、立ち上がり、そしてにっこりと微笑んで僕の頭に手を置いた。
「ぶつかっちゃったから、そのお礼……じゃなくて、謝礼……じゃないな。んー……ごめんねのシルシ?」
「なにそれ可愛いっ! って違うでしょ!」
小鳥遊くんから絶賛と指摘が同じ温度で飛び出す。
「もー、相手は四季くんだから別にいいけどさぁ……」
「筋肉痛治すなんて、大した対価じゃないから」
「むー」
立ち上がった成瀬川先輩は、再び学食に向かって歩き出す。
「あの……もしかしてさっきのは……」
「ん。サラの魔法だよ」
小鳥遊くんが小声で教えてくれる。
「治癒魔法ですか……!? 凄い……!」
「そうかな。ありがとう」
「い、いえ……お礼を言わなきゃいけないのは僕の方で……! 本当にありがとうございます!」
軽くなった足に感動しつつ、精一杯のお礼を伝える。
治癒魔法って凄いなぁ。
使えたら便利だし、色んな人の役にも立てそうだ。
そんな僕の気持ちとは裏腹に、小鳥遊くんは何だか複雑な表情を浮かべていた。
「あ、四季くん」
次に学食の入り口でばったり遭遇したのは、恭次先輩だった。
僕はすぐに先輩の元へ駆け寄る。
「珍しい組み合わせだねえ」
恭次先輩は興味津々に僕達三人を見る。
そして。
「ええと……なんだけっけ?
口元に手を当てて表情を隠しつつ、しかし目では完全に笑っていた。
「あー! コイツまたボク達のチーム名バカにしてっ!」
叫び出す小鳥遊くんの肩をひょいと捕まえながら、成瀬川先輩は後ろで困ったように笑う。
周りの人達が僕達の会話を遠巻きに見ては、すぐに興味を失いどこかへと歩いていくのが見えた。
小鳥遊くんがチーム名を名乗るのを嫌がってる原因って、もしかして……。
「別にバカにしてないし。被害妄想じゃない? 自分でもそう思ってるから、そういう反応返しちゃうんだよ」
「くっそー! なんだよ、最初は入りたがってたくせに!」
小鳥遊くんは地団駄を踏みながら悔しがる。
「そうだけど、もう自分の
恭次先輩は見事なあっかんべーを返し、そして僕の肩を揉むように両手を置いた。
「ということで、四季くんは返してもらうよ」
そして僕の腕を掴むと、自動ドアを通り抜け、食事のいい匂いがする食堂へと入っていく。
「あの……成瀬川先輩! 本当にありがとうございました! 小鳥遊くん、またあとで!」
僕が手を振れば、二人共そっと手を振り返してくれた。
「四季くんは誰とでも仲良くなれるんだねぇ。まあ、優しいし、おっとりしてる……なんていうか、フレンドリーオーラが出てるもんね。何でも話したくなっちゃうって言うの?」
「そ、そうでしょうか……」
そう言えば、桃矢先輩にもそんなことを言われた。
自分では自覚がないので、首を傾げることしかできない。
「……気をつけて。僕、独占欲強いから」
そう言って片目を瞑る。
恭次先輩が言う、それってもしかして……。
「ああ、四季くんはパン買うんだっけ。僕は定食買いに行くから、後で落ち合おうか。あーや達、まだ補習なんだよ」
*
パンを買い終わり、学食での定位置へ向かう。
恭次先輩がいつもの場所で席を取っておいてくれていた。
「おかえり」
「ただいまです」
先輩はいつものように丁寧な動きで口に食べ物を運んでいる。
今日は和風の鯖定食のようだ。
箸の持ち方がとても綺麗だと思った。
「珍しく今日はパンの数が多いんだね」
先輩は机の上に並べたパンを見る。
そこにあるのはチョコラスク、苺のサンドイッチ、カレーパンの三つだ。
「今日の放課後、桃矢先輩と直接教会の方へ行こうという話になっているのですが、もしお昼を食べていないようのなら、お渡ししようと思いまして」
「優しい! 補習なんて完全に自業自得だっていうのに!」
恭次先輩は心底驚いたように僕を見る。
「あ、でもここで、とーや攻略のヒント。とーやは甘いもの苦手なんだよ」
「そ、そうなんですか! 意外です……」
「分かるー。めっちゃパフェとか似合うもんね。でも、あの容姿でガッツリ男飯が好きなんだよなあ。たまに一緒にご飯食べ行くと、よくカツカレーとか、牛丼とか食べてるよ」
牛丼を食べている桃矢先輩の姿が想像できないけれど、せっかくなら好みの味のパンを渡したい。
「それでは、カレーパンをお渡ししようと思います」
「そうだね。そのラインナップならそれが正解だと思う」
それなら僕は、持ち運ぶことを考えて、生クリームがたっぷり挟まれた苺のサンドイッチを食べよう。
チョコラスクなら、すぐに悪くならないだろうし。
寮に帰ってから食べても問題なさそうだ。
「そういえば聞いたよ、朝、とーやが教室に行って事件になったんだって?」
「そうなんです。クラスの女の子みんなが、桃矢先輩に夢中になっていました」
「とーや、なかなかの美人さんだもんねえ。告白された人数なんて数えきれないんじゃない?」
美醜の評価が厳しそうな恭次先輩もそう言うなんて、やっぱり桃矢先輩は相当綺麗な人なんだなあ。
それでも、部活の先輩達はそれに負けず劣らず、容姿の整った人ばかりだと思う。
「あの……恭次先輩も格好いいと思います」
「し、四季くんもついに僕の魅力の虜に……!? 困ったな、キミの気持ちはとっても嬉しいんだけど、僕には許嫁がいるから……」
「へ!? い、許婚ですか!?」
恭次先輩の口から、サラッと飛び出る内容に驚き、思ったよりも声が大きくなってしまった。
「そんな驚く? 珍しいもんじゃないでしょ。たぶんこの学校の生徒、結構多いと思うよ」
コロっと表情が変わり、無邪気な笑顔になる。
「この学校にいるから、もしかしたらそのうち会えるかもね。正義感が強くて、まっすぐで……気が強過ぎるから」
その許嫁と呼ばれる人を思い出している恭次先輩の目は、虚ろな感じだ。
それでも完全に拒絶しない辺りが、満更でもないように見える気もするけれど……。
「まあ親同士が決めたことだから、別に惚れた腫れたみたいなのはないんだよね。いざその時になってみて、僕にとってに利益になりそうなら結婚してもいいかなーって位」
「そう、なんですか……」
僕の口から出た感想が、思ったよりも残念な気持ちが溢れるものになってしまった。
だって……それじゃあ桃矢先輩の気持ちは……。
恭次先輩の話をする時の、嬉しそうな桃矢先輩の顔が思い浮かぶ。
「え、ちょっと待って。そんな落ち込む? 四季くん、まさか本当に僕のこと……」
「え? あ、違います」
「そんなハッキリ言われるのも、恭次ショック……」
「す、すみません……! そんなつもりじゃ……」
「ふふ。ウソウソ。四季くんは優しいだけだもんね。でも八方美人過ぎるのも、嫉妬されちゃうから気をつけるんだよ? キミはさ、もっと可愛い……学生らしい恋愛が似合うよ」
恭次先輩はそう言って静かにお味噌汁をすすった。
「恋愛、ですか……」
あまり興味の無かった分野だったけれど……。
いつか、僕にもそうやって大切に思える人ができるのだろうか。
僕は余ったチョコラスクを見つめて、ビニール袋の中にしまった。
*四月一一日 木曜日 放課後
「やっと終わったー」
放課後を告げるチャイムと共に、小鳥遊くんはすぐに帰宅の準備を始める。
「急げ急げー」
「どうせデートでしょ」
視線も合わさず、浅倉くんは気無しに言葉にする。
「ちっがいまーす! 今日は別件で用事があるんですー! ま、恋人と一緒にいることには変わりないんだけどね」
「……あーガチャ出ないかなあ」
「はい、無視! ……って、ヤバイヤバイ。響くんと遊んでる場合じゃないんだった」
浅倉くんに不満を言いつつも、身支度のための手は止めない。
最後にいつも被っている白い帽子を被り直し、携帯電話の画面でその姿をサッと確認する。
「バイバイ、二人共」
「ん」
「はい、また明日」
僕達に別れを告げると、小鳥遊くんは教室の扉から急いで廊下へと走って行ってしまった。
「お忙しいんですね」
「幸せな忙しさじゃん。そんなの全然大変じゃないね」
浅倉くんは頬杖を付きながら、携帯電話の画面をポチポチと弄る。
「っていうか、高一で恋人がいるってことは、中学から付き合ってるってこと?」
「うーん……どうなんでしょう?」
あの二人の様子だと、長年仲がよさそうな感じはするけれど……。
今度機会があったら訊いてみようかな。
小鳥遊くんは、成瀬川先輩とのことなら快く教えてくれそうだ。
「宮守! 迎えに来たぜ」
「桃矢先輩!」
約束していた桃矢先輩が迎えに来てくれた。
そしてまたしても教室に響く黄色い歓声。
女子生徒だけでなく、男子生徒でも頬を赤らめている人もいる。
先輩の魅力は男女問わず通じるものなんだろう。
なんだか僕まで誇らしくなってくる。
「早く行ってあげたら?」
「は……っ!」
物思いにふけっていると、浅倉くんが現実世界へと引き戻してくれた。
「ありがとうございます。それでは、行ってきます」
「え、うん。行ってらっしゃい。なんかお礼言われることしたっけ……?」
荷物をまとめ、ビニール袋に入ったカレーパンとチョコラスクをカバンに入れ……そして、入口にできた人だかりをかき分けるようにして先輩のところへ向かう。
「お、おまたせしました!」
「あー……何か悪いな」
困ったように笑いながら、先輩は僕の手を引っ張り、人混みから助け出してくれた。
「平倉先輩! 彼女とかいるんですか!?」
「先輩! 連絡先教えて下さい!」
「……また今度な」
先輩が苦笑いを浮かべると、それだけでまた騒めきが連鎖していく。
その姿はまるで人気芸能人のようだ。
「行きましょう、先輩!」
今度は僕が先輩の手を引いて、玄関へと急ぐ。
女子生徒達から残念がる声が聞こえてきた。
でも、教会が閉まってしまう前に、早く行かないといけないので……!
少し頭を下げながら、その人混みから脱出した。
*
「女子ってすげー積極的だよな……」
教会へ行く途中の道。
先輩はテストが終わった後と同じ表情で呟いた。
夕日に照らされる先輩の姿はとても綺麗で、道行く人達が次々と視線を奪われているのが分かる。
「それだけ、桃矢先輩が魅力的なんだと思いますよ」
「この褒め上手め!」
僕の答えが面白かったのか、先輩は歯を見せて笑う。
しかしすぐにその長い睫毛を伏せて、ため息と共に小さな声を吐き出した。
「手放しで自分のことをアピールできるって、やっぱり羨ましいよ」
目の前の信号が赤に変わる。
僕達は横断歩道の手前で、車の往来を見つめる。
まだ視界は明るいのだが、ヘッドライトが点灯している車も走っていた。
「先輩は、自分の気持ちを伝えないんですか?」
「ああ。伝えない」
大型トラックが僕達の前を通り過ぎるが、それでも先輩の声はハッキリ聞こえた。
信号が青に変わり、再び僕達は歩き出す。
辺りに人が増えてきたと思えば、遠くに『神薙駅』西口への入口が見えてきた。
「そもそもアイツ、許嫁いるからなぁ」
「あ……」
お昼に恭次先輩に言われたことを思い出す。
「ご存知だったんですね……」
「ああ、もしかしてオマエも訊いた? だからさ、初っ端から同じ土俵には立てないんだよ」
「そんなの……不毛過ぎるじゃないですか。僕は先輩の恋路を応援しています」
「ぷ……っ」
吹き出すと、また僕の頭に手を置いた。
僕の胸元のドッグタグが、小さく音を立てた。
「……一年の頃、東郷に助けてもらったことがあるんだ」
桃矢先輩は、懐かしそうに空を見上げる。
「入学したばっかの時、俺、クラスで浮いててさ。それが編入生だからって理由なんだけど……俺が編入できた理由が、理事長の愛人の子供だからだって噂話が流れてたからだったんだよ」
「それは……」
「めちゃくちゃ荒れてる中学出身だったからだな。そんなヤツが編入試験に合格できるわけないだろ? 現に、解答用紙三分の一も埋められてないし。あと……母さんの職業も水商売だったからなぁ……。そんな噂流れるのも仕方ないって、自分でも思うぜ」
「そんなの……」
「それをコネがないオマエらが悪い……例えそうだったとしても、子供には関係ないって言って、机を蹴飛ばしたのが東郷だ」
「机を……」
なんてワイルドな……と思ったけど、その姿が容易に思い浮かんでしまった。
「アイツは自分がした発言がどうなるのかちゃんと分かってて、それでも行動に移してくれたんだ。そんな噂なんかほっときゃ良かったのに。俺のために悪役になってくれたんだよ。俺のことなんか庇ったって、あの学校じゃ、何のいいこともないのにな」
「…………」
「完全に否定できないのがムカつくんだけどな。母さん、夜の仕事だし……母子家庭なのに、あんな高級マンション暮らしでしかもポルシェ乗り回してるんだぜ? 噂話も、あながち間違ってないんじゃないかって思うよ」
「…………」
先輩から出る言葉を否定できる材料を、僕は持ち合わせていなかった。
何を言ったって、綺麗事にしか聞こえないことだって分かっているんだ。
それならば……!
僕はぐっと握り拳を作る。
今、考えたって仕方ないことは、考えない方がいいに決まっている。
「……先輩! お腹空いていませんか!?」
「は?」
「人間、空腹だとマイナス思考になります! 空腹は戦争の火種なんです! なのであの、これ良かったら……」
僕は持っていたビニール袋から、カレーパンを取り出す。
先輩はそれを不思議そうな顔で受け取った。
「パン?」
「はい。お昼休みも返上での補習だと伺っていましたので……お腹空いちゃうかなと思いまして……」
「オマエ……本当にイイヤツだなあ……!」
まるで大型犬を撫でるように、髪をくしゃくしゃにする。
「どうせ昼抜きになると思って、休み時間に早弁したから腹減ってたんだよ。サンキューな」
すぐに袋からカレーパンを取り出すと、袋を開けて大きく口を開ける。
「美味い……!」
「それは良かったです」
先輩の言葉に安心して、ビニール袋をカバンにしまう。
チョコラスクが余っているが、それは僕が夕飯に食べよう。
嬉しそうにパンを食べる先輩を見て、僕は足取りが軽くなった。
*四月一一日 木曜日 教会
「開いてる……!」
商店街を通り過ぎ、恐る恐る、昨日閉ざされていた門の前にやってきたのだが……。
今日は誰でもウェルカムだと言わんばかりに、青銅色の門は大きく開け放たれていた。
「これで調査ができるな」
パンを食べて体力を回復した先輩は、いつも以上にやる気が溢れていた。
目利き……いや、魔法によって体調を崩してしまうんじゃないかという懸念もあるけれど、今日が最後の日なのであまり水を差すのは良くない。
もしもまた何か変化があったら、先輩を連れてすぐにその場を離れようと決心する。
軽く周囲を見回していると……。
教会の横にある、細長い建物が目に入った。
「隣は……児童養護施設なんですね」
「ああ……だからチビっこいのが教会の中で走りまわってるのか」
桃矢先輩の視線を追うと、教会の敷地内で楽しそうに遊ぶ子供達の姿があった。
鬼ごっこなのかもしくは何も目的がないのか、笑い声を上げながら疲れ知らずで動きまわっている。
「さて、俺達は目立たないように行かないとな」
先輩の言葉に僕は静かに頷く。
別に悪いことをするわけではないのだけれど、やはり通常の人達が教会へ来る理由とは違うため、少し後ろめたい気持ちもある。
僕達はできるだけ足音を立てないよう……ジャパニーズニンジャのように、敷地内に入り込んだ。
「まずは……あの建物か」
先輩が指差したのは、この敷地内で最も目立つ建物……聖堂だった。
「扉は開いていますね」
両開きの扉が、片側だけ開かれているのが少し離れた場所からでも確認できた。
僕達はそっとその建物に近付き、そして二人してその扉の中に顔を突っ込む。
まずは玄関ホールのような所があり、そして中へ続く廊下が延びている。
そしてその奥……メインである聖堂内部は、ステンドグラスから夕陽が差し込み、虹色に輝く幻想的な光に包まれていた。
奥には祭壇、聖櫃、パイプオルガンも見える。
そして、象徴である大きな十字架も。
しかし、そこに人影はない。
厳格な雰囲気に包まれたその場所は、まるで時が止まってしまっているように感じた。
「Guten tag」
「うわっ!」
背後からの声に、僕達二人は飛び上がって振り返る。
そこには西日を浴びた……男の人の姿があった。
黒いカソックを見に纏い、胸元には大きな十字架がかけられている。
桃矢先輩よりも長身だが、細身な為か、威圧感はまるでない。
金色の少しクセのある髪の毛が風に揺れ、優しそうな糸目がニコニコと笑っている。
どうやら不審な動きをしている僕達を怒っているわけではないようだ。
「Guten Abend. Haben Sie ein Problem?」
「!」
神父さんの話す言葉に、胸が躍る。
ドイツ語なんて……懐かしいな。
おじいちゃんが亡くなってから、めっきり話す機会が減ってしまったから。
「Entschuldigen Sie, dass ich einfach hereingekommen bin. Ich habe mich fuer diesen Ort interessiert」
僕が返事をすれば、更に目を細めて嬉しそうに微笑む。
そのやり取りを見ていた桃矢先輩が、すぐ隣で、流れに沿って口を開いた。
「は、はろー……まいねーむいず……」
「先輩! ドイツ語です!」
「は? ドイツ!?」
思いもよらぬ言語だったらしく、先輩は僕と神父さんの顔を見比べる。
「ふ、ふふ……すみません……っ」
先輩の行動に、神父さんはたまらず吹き出していた。
ツボにはまってしまったのか、まだ肩を震わせている。
どうやら、人を揶揄うのが好きなタイプのようだ。
堅苦しい聖職者のイメージとはかけ離れた、人懐っこい人らしい。
「ん……?」
足元で何かが動いた気がして目線を下に移せば、神父さんに隠れるように、透き通るようなプラチナブロンドの髪を持つ子供が顔を覗かせていた。
一二歳前後だろうか。
肩まで髪が伸びていて、中性的な顔立ちをしているが、たぶん男の子だろう。
白いシャツに、ジーパンを履いていて……何よりも宝石をそのまま閉じ込めたような蒼い瞳が印象的な子だった。
「ごめんなさい。まさかドイツ語でお返事いただけるとは思いませんでした。ワタシ、実は日本語ペラペラです」
「…………」
先輩はぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。
「なんだよ、もー……」
しかしすぐに安心したようにため息と言葉を吐き出した。
「すみません、御二方の様子が面白くて。あ、そうそう。挨拶がまだでしたね」
そう言って、神父さんは軽く頭を下げた。
「はじめまして。私はフリードリヒ・ヴァルター。この教会の神父です」
「神父……なんかすごいヤツが出てきたな……」
先輩が小さな声で耳打ちする。
僕もそっと頷いた。
「学生さんが来るなんて珍しいですね。今日はどういったご用件でここに?」
「え……」
神父さんからの問いかけに、二人して言葉に詰まってしまう。
しかし神父さんはしばし何かを考え、そして再び微笑んだ。
「絵? …………ああ、絵を探しにいらっしゃったんですか?」
「!」
聞き返した言葉が、神父さんの中で上手く繋がってしまったらしい。
思いもよらない変化球な返答に、僕達は再び顔を見合わせる。
どう説明すればいいか必死に頭を回転させる必要が無くなり、棚ぼたという諺が思い浮かぶ。
「たまにいらっしゃるんですよ。それを見た者は、なんでも願いが叶うという……まるで魔法のような絵のことを訊きに来られる方々が」
僕達の態度を肯定と受け取った神父さんは、表情を崩さぬまま、世間話をするような口調で話を続ける。
「ワタシもその噂でしか、絵の存在を知らないのですが……その絵がここの教会にあったという事実は、存在しないんですよ。お役に立てなくて、申し訳ございません」
「い、いえ……神父さんのせいじゃないですから」
僕は謝る神父さんに首を振りつつ、先輩に声をかける。
「……結構有名なお話なんでしょうか」
「まあ、東郷が探してる位だからなあ」
先輩は顎に手を当てて、再び聖堂を見上げる。
一学生にまで噂が流れているということがどうも胡散臭い、と先輩の目が語っていた。
やはり都市伝説の類いであり、噂が一人歩きしているという結末が真実なのかもしれない。
僕達が残念に思っていると感じたのか、神父さんはもう少しだけお話を続けてくれる。
「その絵は、いろんな場所に散らばっているらしいのですが、何故この教会にあるなんて噂が立っているんでしょうねえ」
神父さんは不思議そうに首を傾げる。
それは確かにそうだ。
ここに調べに来たことがある人達は、どうしてこの教会を特定したんだろう。
恭次先輩は、あの運転手さんがピックアップしたと言っていたけれど……。
運転手さんはどうしてそれを知っていたんだろう。
「まあ……教会ですから、たまに不思議なことは起こるんですよ」
「不思議なこと?」
「火のない所に煙は立たぬ。もしかしたら、昔この教会で……ある特定の選ばれた人間の前に、姿を表したことがあるのかもしれませんね」
「突然絵が現れたってことですか?」
「珍しい事例ですけどね、たまにあるみたいですよ。物も意志がありますから。自分のことを本当に求めている人の元にやってくるんです。ほら、メリーさんの都市伝説とかあるでしょう?」
「はあ……」
捨てた人形から電話がかかって来て、それに出るたびに自分がいる場所にどんどん近づいて来る……という有名な都市伝説だったけ。
昔、おじいちゃんが持ってきた本で読んだことを思い出した。
なんだか話がホラーになってきてしまったけれど……。
神父さんの表情は変わらないので、それが本気なのか、また揶揄っているだけなのか分からなくなってきた。
「ふふ。なんでも願いが叶うって夢がありますよね。噂話になるには、充分魅力的な代物だと思います」
神父さんは身体の前で両手を合わせてニッコリ笑うと、その手をゆっくりと自分の口元に近付ける。
そして笑っていた目を少し開いて、僕達二人をジッと見つめた。
「……しかしそれは、本当にそのままの意味なんでしょうか? 願いを叶えるための代償は、必要ないんでしょうか?」
「…………」
僕達がゴクリと唾を飲み込むのと、神父さんが再びニッコリと笑ったのは同時だった。
「すみません……少々口が過ぎてしまいました。いつもこうやって怖がらせてしまうんですよ。ワタシの悪い癖ですね」
神父さんは横にいた子供の頭にそっと触れると、少しだけ背後に視線を逸らした。
「少し、冷えてきましたね……」
神父さんは、風によって乱された髪を整える。
「……それでは、ワタシはこれで失礼します。あまりおもしろいお話をしてあげられなくて申し訳ありません」
「いや……その絵の話、聞けてよかった」
桃矢先輩の言葉に、神父さんは微笑んだまま、頭を下げた。
「そう言っていただけると、嬉しいです。何もない所ですが、閉門までまだ少し時間があります。ここは、隠れた桜の名所なんです。もう散り際ではありますが、良かったらゆっくり見ていってください」
そう言うと神父さんは、銀髪の男の子の手を引き、真っ黒なカソックを翻しながら敷地の奥の方へと歩いて行った。
「……なんつーか、不思議な人だったな」
「聖職者さん、ですもんね」
「いや、そうじゃなくて……まあ、いいや」
先輩が腑に落ちない顔をする理由を一つ思いつく。
「先輩、もしかして魔法を……」
「いや。まだ温存してる。最近使いすぎて頭痛が酷いんだよな。俺らが捜してるのは絵であって、人に使っても仕方ないだろ?」
確かに昨日のような顔色の悪さはない。
「フラフラしていい許可も降りたんだ。もっと奥に入ってみるか。あっちにも建物あるみたいだし」
先輩が指差した先に、ログハウスのような建物があった。
この敷地内にあるには少し違和感を感じるが、倉庫か何かだろうか。
なんだか日当たりが悪く、ここからでもじめっとした……湿っぽい雰囲気を感じる。
「ドアは開いていないようですが、入れるんでしょうか……」
「…………」
先輩は目を細めたまま、まるで何かに導かれるようにその建物へと向かう。
長い足で歩いていく先輩に置いていかれそうになり、僕も慌ててついていく。
まるで木々に隠されるような鬱蒼とした場所にそれはあった。
「…………」
先輩は目を細めながら、脇目も振らずその建物に近付き……。
扉の前にある数段の階段を上りきった。
額に少し汗が滲んでいるように見えた。
もしかしたら、また身体に変化が現れているのかもしれない。
「先輩、待っ…………」
僕が声をかけたのと、先輩が扉に手をかけ、開いてしまったのは同時だった。
「っ」
先輩は頭を押さえながら、その場に座り込んでしまう。
僕はその身体を支え、閉じかかったドアの隙間から中の様子が目に入ってしまう。
「え……」
その瞬間。
嫌な予感と胸騒ぎが同時にやってきて、そして身体中に鳥肌が立ったのが分かった。
おじいちゃんのドッグタグがカチャリ立てた音が、警告音のように耳に残る。
「やべーわ……ここ……」
掠れた声が漏れる。
僕も完全に同じ気持ちだった。
これ以上ここにいてはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。
「とにかく……移動しましょう!」
僕の言葉に、先輩は僅かに首を縦に動かした。
薄暗くなってきた教会の敷地内は、既に子供達の声も聞こえない。
それどころか、違和感を感じる程に誰もいなくなっていた。
まるで亜空間にでも迷い込んでしまったみたいだ。
正体不明の恐怖と戦いながら、僕と先輩は教会の出口を目指す。
門が開いていることに安堵する。
神父さんの言葉から、すぐに門が閉まるわけないのだけれど……。
それでも、底しれぬ恐怖がまとわりついているのは事実だった。
ようやく門を通り抜けた時には、二人とも息がすっかり上がっていた。
ただゆっくりと歩いていただけなのにも関わらず、心臓の音がすぐ耳元で聞こえているみたいだ。
「先輩……」
歯を食いしばる先輩の顔を見て、また不安が大きくなる。
救急車を呼んだ方がいいのだろうか。
だとしたら、公衆電話を探さないといけない。
こんな非常時に携帯電話を持っていない自分に腹が立つ。
いっそのこと、僕だけ教会に戻って神父さんに――――。
「……大丈夫?」
「!」
第三者の声に、僕の心臓は跳ね上がる。
しかし、すぐにそれは危険なものではないことが分かった。
その方向へ顔を向ければ、青い……薄花色のブレザーを着用した同年代位の男子生徒が、心配そうに僕達を覗き込んでいたのだ。
ハーフアップにした色素の薄い髪が風に揺れるのを、白い手袋で軽く押さえている。
あれ……この人、何度か見かけたことがある……。
「……キミ達、もしかして教会のログハウスに入ろうとした?」
「え……!? あ、はい……」
思わず声が上擦ってしまう。
まさかまるですぐ近くで見ていたかのように、僕達の行動をぴったりと当てられてしまった。
「そうか……」
その人は、しばらく何か考えた後すぐに手招きをする。
どうやら、ついて来いという意味らしい。
「こっちに公園がある。そこで休むといい」
僕は疑うことなく、その人の後ろを歩いていく。
何故か……この人は信頼できると心が告げていた。
「…………」
教会に来た時とは違い、道は薄暗く、住宅街はあちこちで電気が点きはじめ、団欒の声が外まで聞こえてくる。
ようやく通常の世界に戻ってこれたという安心感があった。
「ここは……」
その人に連れられてやって来たのは、住宅に挟まれた小さな公園だった。
小学校低学年位までが遊べる遊具が二つほどあるだけの、寂しい場所だ。
「ここ、座って」
その人は木製のベンチに腰かけるよう、僕達を誘導する。
ベンチに乗っていた桜の花びらを払いのけ、先輩をゆっくり座らせた。
先輩は小さく息はしているものの、ぐったりしていてまるで生気がない。
「時間が経てば治ると思うけれど、それまでこの状態なのはさすがに可哀想だから……」
そう言ってその人は、真っ白な布製の手袋を、右側だけ取る。
手袋とほとんど同じ色の素肌が現れた。
そしてそのまま、右手を先輩の頭にそっと置く。
たったそれだけで先輩の顔色がみるみる良くなっていくのが分かった。
「先輩……!」
「え……宮守? 俺、一体どうして……」
先輩は意識がはっきりしてきたようだが、倒れた時の記憶は曖昧みたいだ。
不思議そうな顔で、僕とその人を座ったまま見上げる。
その人も僕と同じく安堵した表情を浮かべ、そして諭すような目で先輩を見た。
「……キミは特別な力を持っているから、あまり変な場所に近付かない方がいい」
「変な場所?」
「パワースポットとか、曰く付きの場所とか。そういうものに魅入られてしまうと……こういうことになる」
流暢に話す内容から、そういった類のことに詳しい人のようだ。
最近、連日でいろんなところに行って魔法を使ったからだろうか。
何もできなかった自分に、後悔の波が襲う。
「あの……今の、治癒の……魔法ですか?」
「ううん。違うよ。分かりやすく言えば……かけられた魔法を解いた。って言えば伝わるかな」
「え!? 先輩は、魔法をかけられたんですか?」
「分かりやすく言えばそうなるね。どんなものかは知らないけど、あそこで魔法を使ったんでしょ? そのせいで悪意のある侵入者と見做されて攻撃されたんだよ」
「あの建物に、ですか?」
「あの建物のせいなのか、中にある何かのせいなのか、それは私には分からない。あの場所って普通の人でも具合が悪くなるんだ。私の知人も、そこで倒れそうになったことがある。そんな場所で『自分は魔法使いです』って
「デメリット……?」
僕は首を傾げるが、その人は今度は何も答えてくれなかった。
「特にあの教会は……良くないものを感じるから」
曖昧な表現だったけれど、先輩の様子を見ればなんとなくそれが分かる気がした。
その人は今度は僕の方を見て、そして真っ白な右手を伸ばす。
「キミも魔法に充てられたようなら……」
「ぼ、僕は大丈夫です!」
僕はさっとその手を避け、首を左右に振る。
「そう?」
その人は不思議そうな顔をしたけれど、特に気を悪くしたようでも、何かを言うこともなかった。
「それじゃあ私はこれで……」
そう言って、再び手袋を付け、そのまま立ち去ろうとする。
僕は慌ててその人の近くに駆け寄った。
「あの……お名前を教えていただけませんか?」
「私のかい? 私は……」
落ちていた桜の花びらが、風によって再び空へと舞い上がる。
「
「渋谷さん、ですね。僕は、宮守四季と申します」
「シキ……とても風流で素敵な名前だね。よろしく、シキ」
そう言って笑う渋谷さんの顔は、まるで人形のように整った顔立ちだった。
琥珀を閉じ込めたような瞳が、とても綺麗だ。
「あの……渋谷さん。お礼を……と言っても、こんなものしか持ってないんですけど……」
「?」
「あの……チョコのラスクです。今日お昼に学食で買った余りなんですが……あ、でも未開封ですので……!」
「チョコ……」
渋谷さんの目がキラリと光る。
チョコ以降の言葉が全く耳に入っていないようだ。
「ありがとう、私はチョコレートが大好きなんだ」
まるで子供のようにビニール袋を胸に抱える。
「いえ、こちらこそ助けていただいてありがとうございました」
深く頭を下げると、渋谷さんは笑顔を絶やさぬまま軽く手を振る。
「それじゃあ私は帰るね。あまり無理をしないように。これ、ご馳走様」
「はい! 渋谷さんもお気をつけて!」
渋谷さんは一度だけこちらを見て微笑むと、舞い散る桜の花びらと共に……まるで消えるようにいなくなってしまった。
あまりに一瞬の出来事に彼が桜の妖精だと言われても信じてしまうかもしれない。
それだけ不思議な雰囲気を纏う人だった。
「……もう行ったのか?」
調子が戻って来たのか、先輩が自力で近くまで歩いてきた。
「先輩……動けるのですか?」
「ああ。もう大丈夫だ。一体何だったんだ……あの不快感……」
怪訝そうに眉を顰める。
普段と何も変わらない、いつもの桃矢先輩に戻ったように見えた。
「さっきの……
「はい。彼も、魔法使いのようでした」
「そうか……何してたんだろうな、こんなところで」
「そう言われればそうですね……すっかり訊きそびれてしまいました」
「『なんでも願いが叶う絵』か……」
先輩は何かを言いかけて、しかしすぐに言葉を飲み込んでしまった。
「結局今回も空振りだったな」
「……そのようです」
二人して顔を見合わせて、そして疲れた表情のまま笑う。
色々あったけれど、先輩との『なんでも願いが叶う絵』の探索はここで終了だ。
目当てのものは見つからなかったけれど、ここ数日で色んな体験かできてとても楽しかった。
危険な目にあった先輩の前でそんなことを言ったら、少し失礼になるかもしれないけれど。
「……帰るか」
「そうしましょう」
見上げた空にはすっかり月が顔を出し、何千もの星が瞬いていた。
*四月一一日 木曜日 学生寮
「ただいまです」
部屋を開け、カードキーを差し込めば真っ暗な部屋の電気が一斉に点灯する。
朝、出てきた時と何も変わらない、少し寂しい部屋が現れた。
やはり一人部屋というのは、どこか寂しい。
あの部屋にいた時のことを思い出してしまうから……。
「ルームシェア……してみたかったな……」
ぽつりと胸の内が漏れる。
今年の入寮希望者が、奇数だったのだから、仕方ないのだけれど……。
「さてと……お腹空いているから、暗い考えになっちゃうんです」
僕はチョコラスクの代わりに買ってきたお弁当とお茶を、机の上に並べる。
先輩が夕食に誘ってくれたのだけど、寮の門限まであと一時間を切っていたので断ってしまったのだ。
学食以外の場所で食事をするなんてなかなかないのに……なんて勿体ないことを……。
でも、また次の機会に一緒に食事に行こうと約束することができたので、ヨシとしよう。
「…………」
今日もいろんなことがあったな……。
一日の情報量がとても多くて大変だけれど……でも、楽しい。
色んな人と一緒に時間を過ごすことができるのが、今の僕の幸せだった。
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