Ⅱ-Ⅳ 平倉桃矢
*四月一〇日 水曜日 学生寮
「!」
窓から差し込む光によって、僕の目は覚醒する。
そうか……昨日あのまま寝てしまったんだ。
慌てて飛び起き、時間を確認すれば、時刻は朝六時。
目覚まし時計が鳴る前だ。
よかった……ちゃんと早く起きられた。
「ああ……っ! でも、ダメです……! のんびりしているヒマはないです……っ!」
早くシャワーを浴びて、歯を磨いて……出された課題もやっておかないと。
山積みになったやることに、朝から翻弄されるのだった。
*四月一〇日 水曜日 並木道
思ったよりもスムーズに課題は終わり、いつもよりも少し早めに寮を出ることができた。
通学路では、同じ学校の人達が桜を見上げながら歩いている。
連日の晴天のおかげか……。
桜は花びらを少ししか散らしていないため、まだまだこの桜並木道を楽しめそうだ。
「ん?」
ガードパイプを挟んで、すぐ横の車道から赤いスポーツカーが、近付いてくるのが見えた。
確かこの車って……。
「おはよー!」
運転席から顔を出したのは、桃矢先輩のお母さんだった。
「お、おはようございます……!」
僕が頭を下げると、すぐ横でハザードランプを点灯させ車を停車させる。
「とーやくんの後輩の子よね。いつもとーやくんと仲良くしてくれてありがとね」
おっとりとした口調で褒められ、僕は顔が熱くなるのが分かった。
桃矢先輩のお母さんは、やはり桃矢先輩にそっくりで、とても綺麗な人だ。
「宮守!」
今度は後ろから声をかけられ、振り返る。
息を切らした桃矢先輩が走って来たところだった。
「桃矢先輩!」
「あら、とーやくん。どうしたの?」
「どうしたのじゃねーよ。何勝手にうちの後輩に話しかけてんだ」
「ええっ!? ダメなの? いつもとーやくんがお世話になってるから、お礼を言いたかっただけなのに……っ!」
お母さんは悲しそうに眉毛を下げる、目には薄っすらと涙が溜まっているのが見えた。
「騙されんなよ。嘘泣きだからな、アレ。母さん、自由自在に涙流せるんだ」
桃矢先輩がこっそりと耳打ちしてくれた。
「余計なこと言わないの。……はい、これ」
桃矢先輩のお母さんが差し出したのは、僕が貸したハンカチだった。
「あ! 今朝持ってこうと思ったのに、なかったのはそのせいか!」
桃矢先輩がお母さんからハンカチを奪い取る。
それをパンパンと叩くと、僕の手に握らせた。
「だって、とーや君にハンカチ貸してくれる子がいるなんて、思わなかったから……だから直接お礼を言おうと思って。中学の時、周りに怖い人しかいなかったんだもの」
「それは……中学自体が荒れてたから……」
「とーやくんだって、あんまり家に帰ってこなかったじゃない?」
「母さんだって夜いなかっただろ」
「私はお仕事だもの。同じ時間働くなら、効率的にお給料が高い方を選ぶのは当然でしょう? でも、お肌が荒れちゃうのが悩みね」
そう言って撫でる頬は、言うほど荒れているように見えない。
「とてもお若くて、初めて拝見した時、桃矢先輩のお姉さんかと思いました」
「ほんとっ!? 凄く嬉しいっ! たまに二〇代に間違われたりするのも、社交辞令じゃなかったのねっ」
「宮守……オマエ、本当に褒め上手だよな。ポジティブっつーかさ。さすがに二〇代はねーよ。近くで見ると、結構目元に皺あるし」
「とーや君? ダメよ、人が喜んでるのに、水を差したりしたら」
お母さんの手によって、桃矢先輩の片頬が思い切り引き伸ばされる。
「いででで……」
桃矢先輩が痛みに声を上げたところで、遠くから予鈴の音が聞こえた。
「ヤベ! こんなことしてたら遅刻じゃねーか! 宮守、走るぞ! 昼間に寝てられる母さんとは違うんだよ」
「失礼しちゃうわ。私だってこれから出勤なのよ。たまには朝から働かないとね。ということで、バイバーイ。お勉強頑張ってねー」
明るい笑顔で手を振られ、僕達は学校へと向かった。
*四月一〇日 水曜日 教室
「ま、間に合いました……!」
ホームルーム開始の本礼と同時に教室に滑り込む。
担任の先生は来ておらず、教室もまだ朝の喧騒が残っていて、立ち話をしている生徒も多い。
「おはよ、四季くん」
「……はよ」
席に座っていた小鳥遊くんと浅倉くんが迎えてくれた。
「昨日はお疲れ様」
小鳥遊くんがそっと耳打ちしてくれる。
僕は目を細めながら、小さく頷いた。
「ねえ。宮守くん、手貸して」
浅倉くんはそんな僕達の様子に気付くことなく、荷物の整理が終わった僕をじっと見つめる。
「手、ですか?」
「そ。それでここ押して」
何やら携帯電話の画面を差し出された。
言われた通りにそこにそっと触れれば、表示された画面が変わり、そして何か光の玉のようなものが一〇個程並べられた。
そのうち最後の一つは虹色に光っている。
「来た! これ来たかも!」
いつになく興奮した様子で浅倉くんが目を輝かせる。
次々とその光の玉がキャラクターに変わっていき、そして最後の虹色の玉の番になる。
「よし! このまま来い………………うっそー……」
そして浅倉くんの目から光が消え、机に倒れ込んだ。
「まさかのすり抜け……。持ってないし、そこそこ強くて嬉しいんだけど……。でも、今回の限定じゃない……」
「な、なんかごめんなさい……」
「いいのいいの。四季くんが悪いワケじゃないんだから」
今まで黙っていた小鳥遊くんがフォローしてくれる。
「こんなの運なんだからしょうがないでしょ」
「あ、もしかして……これが、浅倉くんが昨日から戦っているガチャというやつですか?」
「そう……四季くんなら無欲そうだから、いけるかなって思ったんだけど……」
浅倉くんから意気消沈した声が漏れる。
「ボクも引かされたけど、出なかったよ」
小鳥遊くんがそれを見て苦笑していた。
その時、遅れた担任の先生がのんびりと教室の扉を開ける。
僕達は席に座り直し、前を向いた。
*四月一〇日 水曜日 昼
「やっとお昼だー……あ、タブレット見た? 次の時間割、先生の都合で音楽になったみたいだよ。しかも第三音楽室とかいう謎の場所。地図見て、探しながら行かないと」
タブレットのメッセージ画面を見ながら、小鳥遊くんが教えてくれた。
「それでは、早めに戻って来ないと……ですね」
「音楽とかダル……」
携帯電話の画面と睨めっこしながら、浅倉くんが呟く。
ガチャで欲しいキャラクターは出なくても、ゲームはちゃんと進めているみたいだ。
「四季くん、一緒に学食行かない? サラ、もう学食にいるみたいなんだ」
「いいですよ。行きましょう」
「あー、限定キャラ出ないせいでめっちゃ効率悪いー。世の中全てが憎いー」
浅倉くんから呪詛の言葉が吐き出されるが、小鳥遊くんは気にせず僕の腕を引っ張り、教室を出た。
昼休みの廊下は人が多く歩いている。
「四季くんは、お昼はいつも何食べてるの?」
「僕はパンです。サンドイッチとかクロワッサンとか、とても美味しいんですよ」
「パンで足りる? ボクすぐお腹空いちゃうんだよね」
「僕、昔から食が細くて」
「羨ましい……」
「たくさん食べられる方がいいですよ」
「でもさでもさ……たくさん食べたって、サラみたいに身長伸びないし……っ!」
「確かに、成瀬川先輩……身長高くてカッコよかったです」
「でしょでしょっ? あ、でも好きになっちゃダメだよ? サラはボクの恋人だから」
「え……ええええっ!?」
突然の恋人宣言に、僕は我慢できずに叫んでしまう。
「そ、そうだったんですか!?」
僕の反応に、小鳥遊くんはイタズラが見つかった子供のように無邪気に笑うと、人差し指をそっと自分の唇に当てる。
「もしかして、恋人って女の子だと思ってた? 変に思わなかったの? いつもサラとしかいないじゃない」
そう言われれば、学食でも他の場所でも成瀬川先輩と一緒にいるところしか見たことがない。
「なるほど……全く考えていませんでした」
そして同時に、日曜日の出来事を思い出す。
駒込さんが憧れていて、そして別れを望んでいた相手って、もしかして……。
「あ……」
なんだか複雑な人間関係が紐解かれてきた感じがする。
「うう……確かに、いつも仲良し兄弟にしか見られないけどさー……」
小鳥遊くんは分かりやすく肩を落とす。
「サラに釣り合うように頑張らないと……!」
*
「おや、四季くん。いらっしゃい」
学食でパンを買って、いつもの席へ行くと、恭次先輩一人が迎えてくれた。
他の先輩達は誰もいない。
まだ誰も来ていないのだろうか。
「今日は僕一人だよ」
キョロキョロしていたせいで、考えていることがバレてしまったようだ。
「なんと、部活メンバー全員補習」
「え、全員ですか?」
「そうなんだよ。本当、困っちゃうよね」
醤油ラーメンを啜りながら、眉間に皺を寄せる。
恭次先輩とラーメン……なんだか意外な組み合わせだった。
しかし、いつもながら食べ方はとても綺麗で、辺りは一切汚れていない。
「こんな昼休みにも補習なんて……」
僕は先輩の隣に座り、パンの袋を開く。
今日はカレーパンと野菜ジュースだ。
揚げたパンの香ばしい香りが、辺りに広がった。
「四季くん、逆に考えて。昼休みまで補習しないと補填できないほど学力が足りないんだよ」
恭次先輩から言葉の矢が飛ぶ。
「桃矢先輩は、勉強嫌いだと仰っていましたが……」
「こーようだって、どう見たって勉強興味ないでしょ。音楽バカだし」
「綾織先輩は……意外ですね」
「あーやもあの二人に比べてバカではないんだけどね。授業サボったりするバツみたいなもんだよ。それでも学力が足りないことは確かなんだけど……あーやはやればできる子だからなぁ。……あの二人は底抜けのおバカさんだけど」
恭次先輩は困ったように笑う。
「でも皆さん、この学校に入れたということは、それなりの学力はお持ちなのでは……」
桃矢先輩だって、編入生だって言ってたし。
同じ試験を受けたのなら、学力が圧倒的に足りないという可能性は少ない気がする。
「甘いな、四季くん」
ビシッと伸ばした人差し指がオデコに触れる。
「この学校は私立だよ? 裏口入学なんていくらでもできるのだ」
「う、裏口……!?」
現理事長の息子である恭次先輩から飛び出るまさかの言葉に、僕は思わず聞き返してしまう。
「四季くんも生徒会の連中に言われたんでしょ? うちの親父が何か手を回したんじゃないかって。そういう可能性がいくらでもあるってことだよ」
「そ、そうなんでしょうか……」
「世の中綺麗事だけじゃないからね。あーやとこーようはエスカレーター組だけど、とーやは……なんで入学できたのか不明だもん」
「え……っ!? そうなんですか?」
「とーやも四季くんと同じ、編入生だったって聞いた? 四季くんの場合はまあ、学力が高かったってことで納得した先生達もいたけどね。とーやの場合は完全に不明。そのせいで、一年の最初の頃は、とーやの母親がうちの親父の愛人だって噂もあったんだから。まあ、そんなくだらない噂を口にした連中は、当然僕が黙らせたわけだけど」
「愛人……」
確かにとても綺麗な人だったけれど……それでも、桃矢先輩のお母さんは桃矢先輩のことをとても大切に思っていることは確かだ。
だから、桃矢先輩が悲しむようなことはしないのではないかと思う……。
それは僕の勝手な願望であるのかもしれないけれど。
「結局、どうして入れたのか分からないし、とーや自身も知らないみたいなんだよね。でも下手に僕が調べちゃったりしたら、裏口入学の噂を蒸し返すことになるからやらないけどさ」
話終わる頃には、恭次先輩が食べていたラーメンの器はすっかり綺麗になっていた。
僕もパンの残り最後の一口を口に入れる。
「でもさ、人が傷つくような噂は流しちゃダメだよね。たとえそれが真実であったとしてもさ」
恭次先輩はハンカチで丁寧に口を拭うと、僕の目をまっすぐに見て微笑んだ。
「四季くんも変なこと言われたら僕に言ってね。理事長の息子権限で、噂を流した張本人を捕まえてすぐに黙らせるから」
「ありがとうございます」
桃矢先輩といい、部活の先輩達はとても頼りがいのある人達のようだ。
こんな足手まといでしかない僕を大切にしてくれることに、心から感謝する。
「……あ」
ふと、学食にある年季の入った大時計を見ると、昼休み終了の一〇分前を指していた。
次が移動教室だったことを思い出す。
その旨を恭次先輩に伝え、僕は早めに教室へ戻った。
*四月一〇日 水曜日 廊下
「ちょっと待って……こっちの道違くない!?」
第三音楽室へ向かっていた僕達三人は、小鳥遊くんの言葉でぴたりと立ち止まる。
全員で顔を見合わせ、そして小鳥遊くんが持っているタブレットを覗き込む。
予定していた移動教室だったのだけど……そこにあると思っていた場所に、目的地である第三音楽室への道が見つからないのだ。
地図を何度確認してもこっちで合っている……はずなんだけど、辺りに同じクラスの人達の姿はない。
「この校舎、ムダに広すぎ!」
「うわ……方向オンチを校舎のせいにしてる」
「響くんだって迷ってるからね!」
二人は軽口を叩きつつ、タブレットを斜めにしたりひっくり返したりして、位置を確認している。
午後の授業開始まで残り五分を切ってしまっていた。
刻一刻と時間が迫って来ている。
「なんだか無限ループに巻き込まれたみたいだよぉ……」
「ち……ちょっと、怖いこと言わないでよ。ただ迷ってるだけでしょ……っ! こ、こんな新しくて綺麗な校舎の学校に、そんな学校の七不思議みたいな怖い現象が起こるわけが……」
震える声で浅倉くんが反論すれば、小鳥遊くんが辺りを見回しながら怯えた表情を向ける。
「ねえ……何か聞こえない?」
「そ、そういうこと言うのやめてってば」
「だって、本当に――――」
小鳥遊くんの言葉に、僕は耳を傾ける。
確かに廊下の奥の方でピアノの音色がした。
「ピアノの音……ということは、あそこが音楽室でしょうか?」
「音、鳴ってるしねぇ……迷っててもしょうがない。行ってみる?」
その音色に誘われるように、僕達は足早にその音の方へと向かう。
それが聞こえてきたのは廊下のつきあたり。
大きな文字で、『第一音楽室』と書かれていた。
「第三じゃないじゃん」
小鳥遊くんが落胆の声を上げるが、それ以上に僕はこの曲が気になっていた。
「何の曲だっけ……これ」
浅倉くんが首を傾げる。
「フランツ・リストの……ラ・カンパネッラですね……」
「あー……めっちゃ弾くの難しいヤツ!」
小鳥遊くんが補足してくれる。
――――優しさと悲しさが織り交ざった旋律。
心を抉られるような……けれど、それでいて懐かしい感じがする。
「誰が弾いてるんだろう。音楽の先生?」
「ならちょうどいいじゃん。第三音楽室の場所、訊いてみようよ」
浅倉くんの疑問に、小鳥遊くんが明るく答える。
その旋律を邪魔しないよう、扉についている小さなガラス窓からそっと中を覗き込んでみる。
「!」
その演奏主に、僕は自分の目を疑った。
「あ……綾織先輩……!?」
思わず声が漏れる。
ドアの向こう、流れるような手つきで鍵盤を叩いていたのは、意外なことに、あの綾織先輩だったのだ。
普段の先輩のイメージからは想像がつかない繊細な指の動き。
時間が経つのを忘れてしまうほど……演奏に目を奪われてしまう。
「あ。綾織黎明じゃん。問題児の」
沈黙を破ったのは、小鳥遊くんだった。
「問題児……?」
「そ。寮の部屋で麻雀賭博したり……あ、最近だと、夜な夜な女子寮に通ってるって噂も聞いたことあるよ」
「うわ。前から怖いとは思ってたけど……やっぱりめっちゃ悪いヤツじゃん……」
浅倉くんが呆れた顔になって目を細める。
その時。
開くはずがないと思っていた扉が音を立てて開いた。
「……隠れてんのは分かってんだよ、チビども」
「!」
「ったー……!」
急いで逃げようとしたのに失敗して、全員で頭をぶつけてしまう。
「す、すみません……演奏の邪魔をしてしまって……」
慌てて謝れば、余計に不機嫌な表情返される。
「先輩……ピアノお上手なんですね」
「……っせーな。別にこの学校じゃ珍しいことじゃねーだろ」
「四季くんの誉め殺しが通用しない……!?」
小鳥遊くんが小さな声で驚きの声を上げる。
「この曲、好きなんですか?」
「別に」
「この曲……おじいちゃんが、好きで……レコードを、よく一緒に聞いていたんですよ」
「…………」
僕の言葉に、綾織先輩は無言で扉を閉めてしまった。
「この流れでまさかの無視!?」
浅倉くんのツッコミが虚しく廊下に響く。
午後の授業開始告げるチャイムが鳴ったのは、それと同時だった。
*四月一〇日 水曜日 放課後
「っとにもー、散々だったよー」
午後の授業が終わり、僕達は教室で帰り支度を始める。
「第三音楽室、意外と近くにあって良かったですね」
「ほんとにね。学校で迷子になるなんて、恥ずかしくて遅刻の理由で言えないよ」
小鳥遊くんはそう言って笑う。
綾織先輩との接触後、僕達は一人のクラスメイトと出会い、無事に第三音楽室まで辿り着くことができたのだった。
第三音楽室は、綾織先輩がいた第一音楽室の真上にあったため、音楽の先生が入ってくる前に、無事に教室に滑り込むことができたのだった。
広い校舎っていうのはプラスポイントではあるけれど……。
場所を覚えるのはやっぱり一苦労だ。
「さて……」
荷物をカバンにしまいながら、教室を見回す。
運動部所属の人達が、ぞろぞろと教室を出て行くのが見えた。
僕も部活に行くとしよう。
*
部室に向かうため、部室棟の廊下を歩いていると、奥の方で二つの影が揺れた。
『WRA部』の部室は、部室棟の端の方にあるため、周囲には誰もいない。
廊下の途中に一部広くなったスペースがあり、そこで人目から隠れるように会話をしている。
声の高さから、一人は男子生徒で、一人は女生徒のようだ。
男子生徒の方はよく見えないが、女子生徒は腰まである黒髪をハーフアップにまとめている。
遠目でも分かる位、スラリと伸びた細い手足。
たまに登校中に姿を見かける、生徒会の副会長さんだ……。
「…………」
困った。
部室に行くには、その二人の横を通らなければならない。
このまま廊下を進んでいけば、親密そうな関係に見える二人の邪魔になってしまいそうだ。
それは少しだけ気まずい。
その場で立ち止まり、どうしようか迷っていると……その二人が突然歩き出した。
思わず僕は、すぐ隣の柱に隠れる。
「あ……」
その時、僅かに声が漏れた。
そこにいた男子生徒は、綾織先輩だったのだ。
会話に夢中になっているせいか、僕の姿に気付いていない。
しかしすぐに話が一区切りついたのか、先輩達はそのまま、更に廊下の奥へに向かって歩いて行ってしまった。
僕はホッと胸を撫で下ろす。
綾織先輩と副会長さん……なんだか意外な組み合わせだ。
副会長さんのことはよく分からないけれど、綾織先輩が女の人と話しているのは意外な気がした。
不思議な組み合わせだけど、二人は仲がいいのだろうか……。
「…………」
しかしそこで、頭の中に小鳥遊くんが言っていた言葉が過ぎる。
『そ。寮の部屋で麻雀賭博したり……あ、最近だと、夜な夜な女子寮に通ってるって噂も聞いたことあるよ』
もしも、副会長さんが女子寮に住んでいるとしたら……。
「だ、ダメです……!」
僕は首を左右に振る。
無闇矢鱈に人のことを詮索するのはよくないと、おじいちゃんも言っていた。
気を紛らわすため、僕は部室へ向かう足を早めた。
*四月一〇日 水曜日 部室
「お疲れ様です……?」
部室には、まだ誰も来ていなかった。
いつもと違う、薄暗くガランとした教室。
扉のすぐに横にある電気を点けてみても、なんだか寂しい感じだ。
そういえばこの部室、まだまともに見たことなかったな。
せっかくなので、見学させてもらうことにする。
廊下側には理科の実験室ばりにずらりとスチール棚が並んでいて、その一つ一つに狐のお面、羅針盤、藁人形などが丁寧に飾られている。
その隣にはぎっしりと詰まった本棚。
『ゴーレムとホムンクルス』、『多世界解釈』、『呪いとその効果』……などなど。
まさにオカルト研究部という感じのタイトルの本がいっぱいだった。
「……こっちの箱は何が入っているんでしょう」
乱雑に積み重ねられている箱を開けてみる。
「パワーストーン……?」
箱の中には色分けされた、大量のパワーストーンらしきものが入っていた。
中にはアクセサリーに組み込まれているものもある。
これ、この前恭次先輩が言っていた
これだけでもすごい金額になりそうだ。
「相変わらず、好き勝手やってる部屋だな」
「!?」
突然背後から聞こえた声に、思わず振り返る。
そこには、とても威圧感のある高身長の人が立っていた。
きっちりと整えられた短髪に、銀縁の細い眼鏡……。
そして、緩むことなくキチッと締められた青色のネクタイ。
「せ、生徒会長さん……!」
「他のヤツらは?」
驚いて声を上げる僕に目も触れず、高圧的な質問が下りてくる。
「え……っと、まだ来てないです……」
「…………」
生徒会長さんは軽くため息をつくと、室内を見回す。
そして最後にようやく僕に視線を合わせた。
「何故この集まりに入った?」
「な、何故と言いますと……?」
「質問をしているのはこちらだ。このような奇天烈な集まりに何故入ったかと訊いている」
奇天烈……。
まるで時代劇のセリフのようだ。
「ええと……提示された内容に、興味を持ったから……でしょうか」
「内容?」
「活動内容や、この世界に関する不思議な現象……に、好奇心を唆られたからです」
「なるほど……」
生徒会長さんは僕の言葉を鼻で笑った。
「オマエもとんだ曲者と言うことか。本心を上手く覆い隠しているようだな」
「……生徒会長さんも、そういうことが分かる力を持っていらっしゃるということでしょうか?」
「さあ。何のことだかな――――……平倉も、従う相手を選べばいいものを……」
平倉……?
どうしてそこで桃矢先輩が……。
「…………」
僕達はそれ以上何も言わず、牽制するように見つめ合う。
しばしの静寂が教室に訪れる。
しかし思っていたよりもすぐに、その均衡が破られた。
「うっわー。ムカつく声がすると思ったら……そういうこと」
「恭次先輩……!」
部室の扉を開いて、文句の声を上げたのは、我らが『WRA部』の部長だった。
「悪いんだけどぉ、人の部室に勝手に入らないでいただけますぅー?」
ズカズカと大股で生徒会長さんに近付き、僕を庇うように立ちはだかる。
「勝手に奇妙な部活を作っておいて、何を言っている」
「勝手じゃないですし。部活に必要な最低人数は集めてるでしょ? なのに公式に許可を降ろさないのはそっち。つまり、悪いのはそっち」
早口で捲し立てると、改めてその相手を睨み付ける。
「で、何しに来たわけ?」
「松本はどこにいる?」
「は? 松本? 松本って副会長の
「…………」
目当ての人物がいなかったせいか、もしくは恭次先輩の言い方のせいか、生徒会長さんは大きくため息を付いた。
松本椛……って、もしかして。
「あ、あの……」
僕は確認のために、おずおずと手を挙げる。
「副会長さんって……長い黒髪をハーフアップにしている方ですよね?」
「そうそう。四季くん、よく知ってるね」
やはり僕の予想は当たったみたいだ。
「その方なら、先程綾織先輩と歩いている姿を見ました」
「綾織か……」
生徒会長さんはそう一言返すと、すぐに携帯電話を耳に当てる。
「……ああ、すぐ戻る」
その場で一言話すと、部室を出て行ってしまった。
「ったく……勝手にテリトリーに入って来ないでほしいよね」
フンと鼻息を漏らす。
「大丈夫? 何も言われなかった?」
「え……あ、はい! 僕は何も……」
「それなら良かった」
恭次先輩は安心したように笑う。
「たまにはハッキリ言ってやった方がいいよね。この学園でアイツに刃向かえるヤツ、ほとんどいないからさ」
「生徒会長さん……恐い人なんですか?」
「恐い……か。まぁ、間違ってはいないけど……。ほら、アイツ、理事長の子供だから。……って、僕もだけど」
「あ、桃矢先輩から聞きました。ご兄弟なんですよね?」
「そ。嫌だけどね。アイツは三年で、僕は二年。年子の兄弟だよ」
そう言った恭次先輩の目は、何故か少しだけ悲しそうだった。
「ちーっす」
「お疲れー」
すぐに孔洋先輩と桃矢先輩がやって来た。
なんだか二人共疲れ切った顔をしている気がする。
「くっそー。朝から放課後まで勉強、勉強……頭おかしくなりそうだぜ」
「ま、それが学生の本分なんだけどな」
「オマエなんかまだいいだろ。オレなんか数学の教師に目の敵にされてんだぜ?」
いつもよりもゲッソリとした孔洋先輩が、机に倒れ込む。
「そんな派手な頭してるからだろ」
「それはそうなんだけど……恭次! なんとかしてくれよ!」
孔洋先輩は顔を上げ、恭次先輩に助けを求める。
「キミの頭の出来を言われちゃうと、さすがの僕でも庇いきれないよ」
「くっそー……コイツだってロン毛じゃん……」
嘆きの声を絞り出しながら、桃矢先輩を指差す。
「とーやはいいんだよ。似合ってんだから」
「は!? なんだよそれ! 差別だ!」
孔洋先輩は講義するように両手の拳で机を叩く。
「似合う似合わないというより、俺とオマエが並んだら、教師の目に止まるのは明らかにオマエ――――」
そこまで言ったところで、桃矢先輩の言葉が止まる。
「とーや、どうかした?」
「え……? い、いや……。ここに……会長、来てたのか?」
「そういえばそうだった。よく分かったねぇ」
「え……あ、ああ。匂いが……」
「匂い?」
「アイツ……独特の匂いの香水つけてるだろ……」
確かに、昨日足を踏んでしまった時、ムスク系の匂いを感じた。
「あー……確かに海外製のアホみたいに高いヤツ、つけてたような……あ! そんなことより四季くん。アイツ、僕のコレクション達に触ってなかったよね?」
恭次先輩は棚に近づいて、一つ一つその中身を確認する。
「はい。部屋を見回していましたが、触れてはいないですよ」
「そ。ならいいけど」
愛おしそうにその棚に触れると、満足そうに笑う。
「僕のだって分かってるから、学校の人達は触らないけどさ。アイツは何するか分かんないし」
「こんなにたくさん……凄いですね」
「えへへ。僕ってハマると、とことん関連グッズ集めちゃうタイプなんだよね」
「金持ちって変わってるヤツ多いよな」
孔洋先輩が呆れたように、本棚に並べられている『月刊
「まーそうだね。経営者とか政治家って、そういう目に見えないモノ、信じてる人割と多いよ。困った時の験担ぎっていうの? 有名な占い師さんの言うこと、なんでも聞く人だっているし。それに占いって、別にただテキトーなこと言ってるわけじゃなくて、ちゃんと統計学を元にしてるものもあるんだよ。もちろん、中には胡散臭いのもあるけどね」
てっきり否定するのかと思ったが、恭次先輩は素直に孔洋先輩の言葉を肯定した。
「あ! 思い出した。悪いけど、今日はちょっと用事があるからこれで帰るよ」
そう言って恭次先輩が荷物を持つ。
「珍しいな」
「そ。今日は買い物……というか予約した商品代金を払いに行くんだ。オーダーメイド品だからまだ二、三日、時間がかかるんだけど。今どんな感じか様子見も兼ねて……ね。本当は授業終わったらすぐに行こうと思ってたんだけど、キミ達に連絡するの忘れてたこと思い出したから、ここに寄ったんだ。おかげでクソ兄貴を撃退できてよかった」
恭次先輩はまるで、鼻歌を歌うように部室の出口へ向かう。
「おい、昨日みたいに全員の前で結果報告しなくていいのか?」
「へ? ああ……今日はいいや。僕、時間ないし」
「……なんて勝手な」
「じゃあねー。あ、とーや、今日も探索よろしくねー……っと!?」
部室の扉に手をかけた瞬間、ドアの向こう側にいた人物が先に扉を開いた。
「あーや!? ビックリしたぁ」
恭次先輩は目を大きく見開く。
「…………」
しかし綾織先輩は何も言わずに教室に入り、そしていつもの場所に――――行かなかった。
「おい」
大股で向かった先は平倉先輩の前だった。
「え……俺?」
桃矢先輩は少し強張った顔で、綾織先輩と僕達を交互に見比べる。
「今日はどこに行くんだ」
「今日……は、教会だな。あの……商店街の先にある、子供がいる……児童養護施設……? と、隣り合わせの」
「…………」
桃矢先輩の答えに対し、綾織先輩の返事はなかった。
何か言いたいことがあるのか、少しだけ口を開いたが、しかしすぐに荷物を持ったまま部室を出ていってしまう。
「え、何……!? どういうこと!?」
桃矢先輩の代わりに恭次先輩が問いかけるが、誰もが首を傾げるだけだった。
*四月一〇日 水曜日 教会
「あれ、閉まってる」
商店街にひっそりと佇んだ教会の門は、侵入者を拒むように固く閉ざされていた。
橙色の夕陽に照らされたそれは、一〇年程前に建て直されたものらしく、まだまだ老朽化とは無縁の佇まいだった。
他の教会を見たことがないため詳しいことは分からないけれど、僕が想像するよりもずっと小ぶりな建物だ。
しかし庭先まで手入れが行き届いていて、花壇には色とりどりの花が咲いている。
奥の方には聖堂があり、そしてその更に奥には木々に守られるように建てられた、ログハウス風の建物も見える。
建物に比べて、敷地面積は大きそうだ。
「たまに前を通る時は門が開いててたことが多かったから、てっきり毎日入れるもんだと思っていたんだが……抜かったぜ。ちゃんと調べてくれば良かったな」
桃矢先輩は困ったように眉毛を下げる。
夕焼けが先輩の長い睫毛に影を落としていた。
「仕方ねえな。明日行こうと思ってた、森の教会の方へ行ってみるか」
うーんと唸りながら、先輩は苦肉の策を提案する。
四箇所を四日間で回らなければならないため、一日でも無駄にすることはできないのだ。
「森の教会?」
聞き慣れない単語を僕は聞き返す。
「今、目の前にある教会は一〇年位前に建て直されたって教えたろ? それが前に建てられていた場所が、あっちにある雑木林の中。通称、森の教会。随分老朽化してたらして、それで移転してきたらしい」
先輩が指差した先は、商店街よりもずっと東の方だった。
住宅街が立ち並ぶ更に向こう側に、確かに小さな丘のような、森のような場所が見える。
確かその方向には、一つ高校があるんだっけ。
高い建物が邪魔をしていてさすがにここからは見えないけれど……。
「建て直されたのに、まだ教会が残っているんですか?」
「残っていたのはつい最近までだ。去年の一二月に建物が勝手に崩れたらしい。ほとんど手つかずの廃墟状態だったらしいから、まあ当然だよな。で、その教会か崩れる時に巻き込まれた人がいるとかいないとか……って噂があったな」
倒壊に巻き込まれた人……。
なんだか胸の奥がぎゅっと締め付けられる感じがした。
「……崩れた場所に行って、絵なんてあるんでしょうか?」
「それなんだよな。アイツ、何考えてるんだか」
桃矢先輩は首を傾げる。
「ここから森の教会まで結構かかるな。急ごうぜ、宮守」
桃矢先輩は携帯電話で時計を確認し、僕の肩をぽんと叩いた。
*四月一〇日 水曜日 森の教会
「薄暗くなってきちゃいましたね……」
「結構歩いてきたからなぁ……」
空の色が紫色に変わり始め、視界が徐々に悪くなっていく中、僕達は森の中を歩き続ける。
入口を通り過ぎてから、もう一五分ほど経過しただろうか。
散歩コースにしては道が悪く、ボコボコした舗装されていない道が続いている。
背の高い木々が鬱蒼と生い茂っているため、あまり陽の光も届かないのだろう。
辺りには動物の気配もない。
死の森……そんな言葉が頭を過った。
「東郷も本当、人使いが荒いよな。さすが御曹司だぜ」
そう言った桃矢先輩の口調は、文句というよりも子供を見守る親のような言い方だった。
振り回されることが、あまり苦ではないのだろう。
「好奇心が強くて、見ていて飽きないんだよ。そのクセ、自分の意思は絶対に曲げない」
そこで桃矢先輩は言葉を切る。
歩行の反復運動と共に、ドッグタグが胸元で音を立てる。
「そんなところが……好きなんだと思う」
「!」
桃矢先輩がついに確信的な言葉を口にしたことに、僕は慌てて先輩の顔を見る。
「そ……」
「そ?」
驚く僕を尻目に、先輩はただ不思議そうに見つめ返してくる。
「そんな大切なこと、僕なんかに喋っていいんですか……っ!?」
必死に訴えるも、桃矢先輩はきょとんとして大きな目をパチパチとさせる。
「え……そ、そうだよな。普段なら、こんなこと言わないはずなんだけど……」
なんだか曖昧な返事だ。
連日の疲れで、つい気が緩んでしまったのだろうか。
信頼されているというのであれば、それはそれで嬉しいのだけれど。
「まあ、オマエ……言いふらしたりするようなヤツじゃなさそうだし……」
「それはもちろんです! けど……」
「あ……もしかしてそういうの、聞きたくなかったか? だったら悪かっ……」
「それは違います! むしろ青春っぽいのは大好きと言いますか……恋は障害が会った方が盛り上がると、おじいちゃんが言っていました!」
「どんなおじいちゃんだよ、それ」
僕の言葉が先輩のツボにハマってしまったようで、しばらく笑い続ける。
「悪い悪い……お、見えた。ゴールだ」
その言葉に、僕は重い頭を上げる。
「!」
今までの会話など忘れてしまうくらい、一瞬にして目が奪われてしまった。
先輩が指差した先、そこには――――。
「教、会……?」
しかしそこに、教会と呼ばれる建物はなかった。
あるのは、ただ……何かの跡地らしきもの。
建物が経っていたであろう四角い部分だけ土がむき出しになっていて、他には草一つ生えていない。
誰も来なくなったことを憂うように、その場所は寂しそうに夜風に晒されていた。
「さすがにもう、何も残っていないな」
「そう……ですね……」
「やっぱり何も無かったじゃないか。一体どこからの情報手に入れたんだ、東郷のヤツ」
「うーん……」
先輩の言葉に、静かに頷く。
ここにはまだ、事故の傷跡が深く刻まれている。
強く吹く風は、まるで死者の嘆きのようだ。
「……ん?」
先輩は僕達が歩いて来た道とは違う方角に顔を向ける。
「どうかしましたか?」
「静かに……」
「!」
先輩の右手によって口を塞がれ、すぐ横にあった茂みの中に引き込まれる。
咄嗟の出来事に、僕はされるがままにその場に腰を下ろした。
「あっち見てみろ。……誰か、来た」
「え……」
すぐ耳元で聞こえる先輩の声。
慌てて体制を立て直し、先輩が指す方へ覗き込む。
そこには――――。
「高校生……?」
そこには、キャメル色の制服を着た人物が立っていた。
性別は男で……年齢は、たぶん……僕と同じか少し上だろうか。
少し茶色がかった短髪が、風に揺れていた。
手には、小さな赤い花がいくつもついた花を持っている。
ええと……あの花の名前……スイートピーだったっけ。
一体、何者なんだろう……。
「…………」
その人はその花束を地面に置くと、すっと目を閉じる。
その姿は、黙祷というよりも……。
何かに許しを縋っているように見えた。
そしてゆっくりと目を開くと、元来た道を静かに戻って行く。
それはほんの僅かな時間だったはずなのに、僕にはとても長いものに感じた。
「……行ったな」
「ええ……」
僕達は茂みからゆっくりと立ち上がる。
「花……置いていったのか?」
「そうみたいです……」
僕は地面に置かれた赤いスイートピーの花束を横目に、おじいちゃんから貰った植物図鑑の内容を記憶から引っ張ってくる。
花言葉は……『別れ』『別離』――――そして、『優しい思い出』。
……そんな意味だったような気がする。
「事故に巻き込まれた人が生前……好きだった花でしょうか……」
「かもしれないな……」
「…………」
僕は、その花束の横にしゃがみ込んで手を合わせる。
「宮守……」
先輩も僕の隣に座り、同じように手を合わせた。
しばらく二人でそうした後、立ち上がる。
「……それこそ、絵と何も関係ない場所のように思えるが」
先輩は誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
そして昨日、美術館で絵を見ていたときと同じように、目を細めた。
そのままゆっくりと辺りをぐるっと見回している。
先輩の尻目に、なんだか風が強くなってきたと、ぼんやりと思った。
「先輩……?」
桃矢先輩の顔が、少しだけ辛そうな表情をしていることに気付く。
昨日と同様……いやそれ以上に汗をかいていて、なんだか苦しそうにも見える。
また、頭痛だろうか。
「ん? ああ、大丈夫だ」
小さな返事が聞こえた。
僕はその声にホッと安堵する。
先輩はこめかみ部分を押させながら、細めていた目をそっと閉じた。
「なんだろうな……ここ」
「え……?」
「絵はないみたいだが……なんか、妙な感じだ」
「妙?」
「上手く言えないが、曰く付きの場所……変な力が滞留している気がする」
「…………」
先輩は少し疲れた表情で笑う。
僕はもう一度、その教会のあった場所を見る。
まるでそこだけ切り取られたように、何もない。
しかし……先輩の言う通り『視えない』だけなんだ、と。
何の力も持っていない僕でも感じ取れる位には、そこには『何か』がある気がした。
*四月一〇日 水曜日 学生寮
「ただいまです」
誰もいない自分の部屋に帰ってくる。
今日も昨日と同じで、門限ギリギリの時間になってしまった。
桃矢先輩には謝られてしまったけれど、全然先輩は悪くない。
僕が行きたいと望んだことなんだから。
「あー……足が痛い……」
山道を登り降りしたせいか……。
運動不足の足が、悲鳴を上げていた。
それに、風に当たりすぎたせいか、身体が冷え切ってしまっている。
「今日はゆっくりお風呂に浸かりましょう。身体を温めるのはいいことだって、おじいちゃんも言っていました」
ベッドに足を投げ出し、そして天井を見上げる。
死という概念に近づいてしまったせいか、少しだけナーバスになっているのかもしれない。
僕は胸にかかるドッグタグにそっと触れる。
そのおかげか、気持ちが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
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