黙読する女体
午前八時十二分、検死室には蛍光灯の白い光だけが生きていた。
アシュリン・コールは、手袋を装着した指先でボイスレコーダーのスイッチを押した。機械の緑色の光が、冷たいステンレスの台上に横たわる少女の額をかすかに照らす。
「被検体番号D-5782、ハドリー、イヴ。十八歳、白人女性。死亡推定時刻は四十八時間前。発見場所はアーリントン大学資材棟裏手の物置内部。外傷および内部状態の記録を開始します。」
アシュリンの声は冷たく、そして淡々としていた。彼女の中にある、動揺や嫌悪、あるいは憐憫すらも、その声からは排除されている。ただ、事実だけが言葉になっていた。
「眼球の結膜に点状出血は見られず、窒息死の可能性は低い。両手を胸元で組ませる操作痕がある。指関節に外力による軽度損傷あり、死後硬直前の操作が疑われる。」
彼女は胸部を開口する。Y字切開。鋭利なメスの先端が皮膚を滑り、浅く、深く、肉を分ける。
「胸腔内、内出血認めず。肋骨下部に折損はなし。心膜正常。心臓表面に黒斑──脱血処置の痕跡か。胃内容物:未消化のパン片、乳製品、出血性粘膜の断片を確認。」
手を止めず、語り続ける。
「頸椎C2-C3間に明確な断裂。切断面は鋭利、外傷性。他器具による切開が濃厚。使用された刃物は約12cm以上、非鋸歯型。切断角度より、加害者は被害者より約20cm以上身長差があり、俯瞰位置からの一撃と推定。」
アシュリンは一度レコーダーを止めた。沈黙が訪れる。冷房の音と、蛍光灯の微かな唸り。彼女の眼差しは、胸腔を開かれたままの少女に向けられていた。
「あなたは……何を見たの?」
思わず、言葉が漏れた。録音されない呟き。
アシュリンの中に浮かぶのは、暴力の意図という名の空白だった。手際は美しい。殺意は静かで、殺人は構成的。そこには怒りも逸脱もない。あるのは、構造美への病的な執着。
「……次。骨盤部に移ります。」
再び録音を開始し、彼女は下腹部へと刃を移動させる。彼女の手つきは丁寧で、愛撫のようでさえあった──死体にしか見せない、深い、沈んだ、静かな愛情。
そしてそこには、ノア・ハーランには届かない、彼女だけの聴こえ方があった。
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