第十七章 アンダンテ

秋風が吹き始めた九月の午後。出村璃子は、駅前のカフェで、友人と新作のモンブランパフェを前にして、いつものようにお喋りに花を咲かせていた。

「てか、サークルの先輩、マジありえなくない? インスタのDMで告ってくるとか、昭和かよ!」

「わかるー! てか、その前に、ストーリーの足跡つけすぎだっての!」

璃子の世界は、いつだって、甘いクリームと、少しだけビターな人間関係と、指先一つで繋がるゴシップで満たされている。それは、楽しくて、たまに面倒で、でも、決して退屈はしない世界だ。


「そういえばさ」と、友人が思い出したように言った。「バイト先の子、元気? ほら、夏前に倒れたっていう、すっごい静かな子」

「ああ、羽依里ちゃん? うん、まあ元気なんじゃない?」

璃子は、パフェの栗をスプーンで突きながら答えた。確かに、そんなこともあった。工場でボヤ騒ぎがあって、その少し前に、羽依里が過労でしばらく休んだのだ。璃子にとっては、それはもう、スマホのフォルダの奥に仕舞われた、少し前の出来事でしかなかった。

「なんかね、あの子、最近ちょっとだけ変わったんだよね」

「へえ、どんな?」

「んー、なんて言うか……。あ、そうそう、最近よくイヤホンしてるの。前は音とか、世界の全てに興味ありません、みたいな顔してたのに。でね、この前、『それ何聴いてるの?』って、勇気出して聞いてみたらさ、『風の音』って。……意味わかんなくない?」

璃子はそう言って笑ったが、内心では、それだけではない変化を感じ取っていた。

以前の羽依里は、そこにいても、どこか透明だった。話しかけても、その声は彼女の身体をすり抜けて、背後の壁に吸い込まれていくような感覚があった。だが、今の彼女は違う。相変わらず口数は少ないけれど、彼女と話していると、ちゃんと「見られている」と感じるのだ。ガラスの壁が一枚、なくなったような。


カフェを出て、友人と別れた璃子は、駅前の雑踏を歩いていた。その時、向かいから歩いてくる、一人の男性とすれ違った。年の頃は三十代半ば。スーツではなく、洗いざらしのシャツを着て、どこか考え事をしているような、物静かな雰囲気の男。璃子は、特に気にも留めずに通り過ぎた。それが、あの夏、自分たちの知らない場所で、必死に奔走していた役人だとは、知る由もなかった。間宮文彦は、あの日以来、時々こうして、この街を、ただ当てもなく歩くことが習慣になっていた。何かを探すのでもなく、誰かに会うのでもない。ただ、この街の「常温」を、肌で感じるために。


璃子は、駅裏の路地にある、お気に入りの雑貨屋へ向かった。その途中、古びたスナックの前を通りかかる。看板には、掠れた文字で「黄昏」。その寂れた店のドアが、ギィ、と音を立てて開き、中から、黒いドレスを着た、山のように大きな人物が出てきた。

「うわっ……!」

思わず声を上げそうになるのを、璃子は必死で堪えた。その人物――寺嶋茉輝は、璃子を一瞥すると、まるで面白い冗談でも思いついたかのように、楽しそうに口角を上げてニヤリと笑いかけ、そして、ゆったりとした足取りで、璃子の横を通り過ぎていった。

「な、何あの人……ヤバ……」

璃子は、心臓をバクバクさせながら、早足にその場を離れた。彼女のカラフルな日常と、寺嶋のいる世界の境界線は、こんなにも曖昧で、すぐ隣にあった。


その夜、植物工場の、紫の光の下。

休憩時間、璃子は、いつものように羽依里の隣に座った。

「ねー羽依里ちゃん」

「……なに?」

羽依里は、イヤホンを片方だけ外して、璃子の方を向いた。

「今度の日曜、またあのクレープ屋、行かない? なんか今度は、シャインマスカットてんこ盛りのやつが限定なんだって」

以前の彼女なら、きっと、「用事があるから」と、静かに断っただろう。

だが、羽依里は、少しだけ、宙を見て、考えるような素振りを見せた。そして、もう一度、璃子の目を、真っ直ぐに見て、言った。

「……うん。いいよ」

その声は、小さかったが、不思議なほど、はっきりと聞こえた。

そして、璃子には、彼女が、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。

「まじで!? やったー! 絶対だからね!」

璃子は、心の底から嬉しくなって、大声で笑った。

紫色の光が、二人の少女を、分け隔てなく照らし出している。羽依里の差し出した小さな手と、それを掴んだ璃子の大きな喜び。その間に生まれた、ごく普通の、ありふれた温かい約束が、この人工的な空間の中で、何よりも確かな「音」となって、静かに響いていた。

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