第十八章 常棣
晩秋の休日の朝。間宮文彦は、自宅マンションの小さなベランダで、鉢植えのローズマリーに水をやっていた。あの夏の後、彼は無性に、何かを自分の手で育ててみたくなった。規則正しく水をやり、成長を見守る。その、ただ静かで、地道な営みが、ささくれだった彼の心を、少しずつ癒してくれているような気がした。
結局、彼は市役所を辞めなかった。
数枚の始末書と、上層部への聞き取り調査。彼は、事実を、自身の職務逸脱も含めて、ありのままに報告した。もちろん、にわかには信じてもらえなかったが、植物工場の破壊された機材と、医療施設に送致された長谷聖真のカルテが、彼の報告の異常さを、ある意味で裏付けていた。最終的に、この一件は「関係各所の様々な不手際が重なった、原因不明の特殊な電気系統トラブル」として、分厚いファイルの奥底に封印された。彼は、厳しい譴責処分を受けただけで、以前と同じ地域環境課のデスクに戻ることが許された。
彼の日常は、何も変わらなかった。だが、彼の世界を見る目は、わずかに、しかし決定的に変わっていた。
机に積まれた陳情書や、モニターに映し出される無機質なデータ。以前は、それらを、ただ処理すべき数字と文字の羅列としてしか見ていなかった。だが今は、その向こう側に、声なき人々の生活や、名もなきガラクタたちの溜息が、確かに感じられるようになった。寺嶋茉輝の言った、『ガラクタの上に秩序がある』という言葉。その本当の意味を、彼は、今もまだ、考え続けている。
水をやり終えた後、間宮は、あの日以来の習慣になった散策に出かけた。目的はない。ただ、電車に乗って川崎へ向かい、当てもなく歩くだけだ。
彼は、事件のあった場所には近づかない。植物工場も、廃墟のプールも、彼の中では、もう地図から消し去られた場所だった。その代わり、彼は、人々が暮らす、ありふれた場所を歩いた。活気のある商店街、子供たちの声が響く公園、そして、多摩川の広々とした河川敷。
彼は、河川敷のベンチに腰を下ろし、流れていく川の水と、その向こう岸の景色を、ぼんやりと眺めていた。
行き交う人々。犬の散歩をする老人。キャッチボールをする親子。楽しそうに語り合う恋人たち。
彼は、かつて、このありふれた日常の音を、「ノイズ」として処理しようとしていた。そして、その奥にある、たった一つの、異常な「シグナル」だけを追い求めていた。だが、今は違う。この、無数に重なり合い、混じり合う、取るに足らない音の集合体こそが、世界そのものなのだと、彼は知っていた。
その時、ふと、彼の視界の端に、二人の少女の姿が映った。
土手を、こちらに向かって歩いてくる。一人は、身振り手振りを交えて、快活に何かを話している。もう一人は、その隣で、静かに頷きながら、時折、楽しそうに口元を綻ばせている。その手には、甘い匂いのしそうな、クレープが握られていた。
魚留羽依里と、出村璃子。
彼には、そう見えた。
二人は、彼の存在に気づくことなく、すぐそばを通り過ぎていく。間宮は、息を殺すように、その光景を見守った。声をかけることも、近づくこともしない。ただ、その、陽だまりのように温かく、ありふれた幸福の光景を、目に焼き付けた。
それが、本当に彼女たちだったのか。それとも、あの夏の記憶が、彼の願望と結びついて見せた、優しい幻だったのか。
もう、どちらでもよかった。
彼が守りたかった「秩序」とは、突き詰めれば、こういう、名もなき誰かの、ささやかな日常のことだったのだ。彼は、そのことを、長い時間をかけて、ようやく悟った。
やがて、少女たちの姿は、遠ざかり、雑踏の中に消えていった。
間宮は、ベンチから静かに立ち上がった。空には、冬の近い、どこまでも澄み渡った夕焼けが広がっている。彼は、凍える前に家に帰ろうと、駅に向かって、ゆっくりと歩き出した。
特別なことも、劇的なことも、もう起こらないだろう。
彼の日常は、また明日も、静かに続いていく。
ただ、時折、あの夏の、奇妙で、恐ろしくて、そしてどこか美しかった音の響きを、ふと思い出しながら。その誰にも話すことのできない記憶を、壊れやすいガラクタのように、胸の奥に、大切に仕舞い込みながら。
雑踏に消えていく彼の一つの背中が、この物語の、静かな、最後のワンシーンだった。
(了)
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【終わりに】
物語の続きを、という声が聞こえる。
それは、作者にとって、望外の喜びであると同時に、一つの誘惑でもある。彼らの「その後」を、もっと描いてはどうか、と。
だが、私は、それをしない。
この物語は、神様にも、魔法使いにも、ましてやスーパーヒーローにもなれなかった、不器用で、どこにでもいる(あるいは、どこにもいない)、ただの人間たちの話だ。
彼らは、あの奇妙な夏を経て、ほんの少しだけ、世界の音の聴き方を変えた。それだけだ。
彼らの人生は、これからも続いていく。
おそらくは、退屈で、平凡で、時々、どうしようもない悲しみに襲われるような、ありふれた日々が。
朝になれば、満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げる男がいるだろう。
紫の光の下、友人と、次の休日に食べるクレープの話をする少女がいるだろう。
深夜のラボで、誰にも理解されない美しい数式を、独り、恍惚と眺める女がいるだろう。
そして、どこかの静かな場所で、世界のあらゆる音から身を守るように、しかし、必死に耳を澄ませている、少年がいるかもしれない。
彼らはもう、私の手の中にはいない。
それぞれの足で立ち、それぞれの時間を、それぞれの場所で、歩き始めている。
その、ささやかで、かけがえのない日常の響きを、これ以上、作者という名の不躾な侵入者が、物語というノイズでかき消す権利を、私は持たない。
物語は、最も美しい残響を残して、終わるべきなのだ。
この物語の最後の音は、もう、鳴り響いた。
願わくば、あなたが、ふとした瞬間に、このどうしようもないガラクタたちのことを、思い出してくれることがあるのなら。
川崎の、湿ったアスファルトの匂いや、濁ったプールの水の感触や、鳴りやまない耳鳴りのような、あの夏の記憶を。
それだけで、この物語は、充分すぎるほど報われる。
では、また、別のガラクタたちが、面白い音を立て始めるまで。
ご静聴、感謝する。
サウンドコレクター HASE-ARMA kareakarie @kareakarie
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