第2話 歯磨きは鏡の前

 電動歯ブラシ。特売価格で税込4,980円。

 甘いもの好きのずぼらが老後に残せる歯を一本失って、その反省から買った代物だ。


「安い買い物じゃないんだからちゃんと毎日使うんだぞ、わたしっ」


 独り言とともにボタンを押す。

 今までにない太い握り心地の歯ブラシは、うんともすんとも言わない。

 不良品を疑って眉を顰めて……充電をしていないことに気づいた。

 ドライヤーのコンセントを引き抜き、充電スタンドのコンセントを代わりに差して少し待つ。


 ショート動画はこんな不測の待ち時間を潰すのに便利だった。

 ダンスやら美容知識やらドラマの切り抜きやらの取り留めもない動画を見ているとあっという間。

 ゴーーー、お隣りの住人がドライヤーを使っているのだろう音がうっすらと聞こえる。時刻は深夜0時を回ったところだった。


「……そろそろいいかな」


 思っていたより待ってしまって就寝予定の時間が迫る。

 スタンドからブラシを取り上げボタンを押した。


 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ!


 ドライヤーのように壁の向こうまで響いていきそうな想定外の大音量が歯ブラシから発せられる。


「わ、こんな大きいの?」


 またもよぎる不良品の疑惑。

 ボタンを押してブラシを黙らせ、仕方なくの鏡の裏に突っ込んだ箱……その中の説明書を読むことにした。

 静かな洗面所には遠い音がまだ聞こえている。


 ……ただそれは、機械が温風を送る無機質な音ではなくなっていた。


 ザーーーー。


 夜色の黒い雨が降りしきる音。


「…………ボタン一回が標準モード、二回押しで静音モードか」


 説明書を適当に畳み箱に戻して、箱を棚に置き、ミラーキャビネットを閉めた。



「ひっ」



 鏡が正面から彼女を映す。


 いるはずのない長身の女が後ろに立つ姿をも、鏡は映していた。


 背を向けて立っている、長い髪の塊のような女。

 だが、その濡れた長い髪は少しずつ、少しずつ、映る角度を変えていた。

 ゆっくり、ゆっくりと、髪の毛だけが動いた。



 つまり、首から上だけを回して振り返ろうとしていた。



「いや、いやいやいやいや、やめて……」


 音が聞こえる。

 彼女の後ろから、みちち、ぎち、ぽたぽた、ぐち、ぎぎぎ。

 鏡の中で起こっていることがまさに自分の後ろで起こっていることだと裏付けるように、濡れた頭を無理やり回す音が聞こえる。

 ぐぐ、ぎち、ぴちゃ、ぴちゃ、ぎちゃっ。



 がきっ。



 ぐわんと勢いよく回り、顔は突然に現れた。


 蓬髪の黒海に浮かぶニタニタと邪な笑み。


 歯茎まで剝き出しにしたその笑い顔を最後に、彼女の意識は闇へと沈んだ。




 朝。目が覚めた彼女はベッドの上にいた。

 毛布は被っていない。どうやってか部屋まで戻って倒れるように眠ったようだった。

「……ゆ、め………………」

 カーテンの隙間から日差しが入り込んでいる。

 とっくに出社の時間は過ぎていた。

 けれど、そんなことを気に留める余裕がなかったのは……。



 その日差しに照らされた髪の毛と、水滴の痕が、洗面所から続いているとわかったからだった。

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