37、楽長から礼拝堂の鍵を奪うには
扉に耳をくっつけると、中からヴァージナルの音色が聞こえた。ヴァージナルは室内用の小型鍵盤楽器なので、劇場で使うチェンバロのように目立つ音ではない。それでも誰かが演奏していることは確かだ。
「楽長しかいないよな。こんな夜中に練習しているのか?」
音量の小さな楽器とはいえ、演奏者には申し分なく聴こえる音量だ。集中していたらベルの音に気付かないかも知れない。
僕は庭伝いに建物の周囲を回り、音に近づこうと試みた。
「灯りが漏れてる」
一階の一区画だけ鎧戸が開いていた。楽長の暮らしている部屋に違いない。
カーテンの間からのぞくと予想通り、ヴァージナルに向かう楽長のうしろ姿が見えた。楽譜を書いては弾いて確かめ、演奏しては楽譜に音符を書き留めている。
コツコツと窓ガラスをたたいたら、
「うるせー!」
鬼気迫る背中から突然、怒鳴り声が発せられた。いつもと違う楽長の様子に、僕は硬直する。
だが楽譜に羽根ペンを走らせていた楽長は、ふと顔を上げた。振り返ってカーテンの間に目をこらす。
「ノエルか」
驚いた顔で窓を開けてくれた。
「こんな時間にどうした? 譜面台を持ってるってことは歌いに来たのか? 熱心だな!」
嬉しそうな楽長に、僕は真顔で答えた。
「これは武器だよ」
「歌手の武器は声だろ。とにかくお前、なんで玄関のベルを鳴らさねえんだよ」
「鳴らしたけど楽長、答えなかったんじゃん」
「あーすまんな」
気まずそうにボリボリと赤い髪を掻く。
「俺、作曲に集中してると周りの音が聞こえなくなるんだ」
「急に怒鳴られてびっくりしたよ」
「わりぃ、わりぃ。ネズミが出たかと思ってな。まあ入れよ」
楽長は窓を全開にすると、両腕を伸ばして僕を抱き上げた。
部屋に上げてもらった僕は、ランプに照らされた室内に少しだけホッとする。書斎机にもソファの上にも、楽譜が積み上げられた部屋は、いかにも楽長らしい。
「ホットミルクでも飲むか?」
部屋から出ようとする楽長に、僕は首を振った。
「いや、いいよ。それより寮母が礼拝堂に入って行くのを見たんだ」
「は?」
楽長は固まった。
「寮母は礼拝堂の鍵を開けて中に入ったというのか?」
僕はうなずいて、要望を伝えた。
「楽長、礼拝堂の鍵持ってるんでしょ? 貸してほしいんだ。あいつ中から鍵をかけちまったから」
「いや待て。礼拝堂の鍵は俺と理事長しか持っていないぞ。理事長め、俺に鍵を渡すときに『スペアはこれひとつだから取り扱いには注意しろ』ってしつっこく言いやがったんだから」
「でも事実、寮母は夜中に何度も礼拝堂に出入りしてるよ」
「何度も!?」
楽長が素っ頓狂な声を出した。
「言ってなかったっけ?」
「言ってねえよ!」
そういえば、夜中にリタと二人、寮母を追ったのは結構前だ。当時の僕は楽長を疑っていたから、報告していなかったかも。
「楽長は寮母を尾行してたのに、あいつが消灯時間後、礼拝堂に入るの知らなかったの?」
「昼は礼拝堂になんか近寄らないんだ」
慎重な眷属は、消灯時間後に自分で見回りをして、皆が寝静まったことを確認してから礼拝堂に入っていたのだ。昼間は楽長に尾行されていると気付いていたのかも知れない。
書斎机に近づいた楽長は、一番上の引き出しを開けて鍵の束を取り出した。
「よかった。俺の預かった鍵はここにある」
「理事長が持ってるもう一本はどこにあるの? 聖王都?」
「まさか。理事長室に鍵の保管庫があるんだよ」
「誰もいない理事長室か」
生徒会長に案内された、宮殿のように立派な建物を思い出す。大きなバルコニーに面した二階の理事長室は、窓が割れても修理もされず、板が打ち付けられていたっけ。
「あれ? 夜にカモメがぶつかったって言ってたけど――」
一気に嫌な汗が吹き出す。
楽長も同じ推測に至ったらしい。震える声で言った。
「眷属がカモメに化けて、鍵を盗んだってことか!」
「理事長室にある鍵の保管庫って、まさか地下聖堂に続く扉の鍵も置いてあったりしないよね?」
沈黙した楽長の額から汗が流れる。
「いや落ち着け、ノエル。深呼吸だ。スー、ハー」
落ち着くのはあんただよ、と突っ込みたいのをこらえる。
楽長は人差し指を立てた。
「もし眷属が地下聖堂に続く扉の鍵を持っていたとしてもだ、カモメが理事長室の窓に激突したのは去年だぞ? お前の話だと寮母は今までも複数回、礼拝堂に入っていたんだろ?」
「だから?」
「黒炎の魔鳥にエサでもやってるのかも知れないぜ?」
何、のん気なことを言ってるんだろう、この人は。
怪訝な顔をする僕に、楽長は額の汗を拭きつつ結論づけた。
「今すぐデモンストラを復活させるわけじゃないのさ」
「今まではそうだったけど、今夜、復活させるかも知れないじゃん」
「うっ」
煮え切らない楽長に、僕は右手のひらを向けた。
「礼拝堂の鍵を貸してください。もし眷属が地下聖堂に入ったなら、今も開いているかも」
楽長はかんぬきに南京錠が下がっていると言っていたから、中からでは閉められないはずだ。
「なんでお前はそんな危険なことをするんだ!? 俺は今日の昼、サルヴァティーニ隊長に手紙を出した。今週中には聖騎士隊が聖ピエタ島に到着するはずだ!」
「今週中!?」
僕は仰天した。
「そんなに待てない! いつまでリタを眠ったままにしておくんだ!」
「やっぱりリタか」
楽長は頭を抱えた。
「いいか、ノエル。お前だけを地下聖堂に行かせるわけにはいかない。俺はサルヴァティーニ隊長から、お前たち二人の管理監督者に任じられている。だけど俺は聖獣も呼び出せなければ、剣も扱えない!」
目に涙を浮かべて、楽長は僕を見下ろした。オッサンの涙目なんて欠片もかわいくない。
「俺は才能あふれる音楽家だ。つまり、か弱い芸術家なんだぞ!」
悲鳴に近い声で絶叫されて、僕は愕然とした。まったく男らしくないのに、この人は大人の男なのだ! これっぽっちも男らしくないのに、自分を認めているのだ! 自分で才能あふれる音楽家なんて言っちゃうくらいに!
このオッサンならよっぽど僕の方が男らしいと思った途端、自分が存在しない幻想にこだわっていたことに気が付いた。
僕は苦笑を隠そうと努めつつ、楽長を脅してみた。
「礼拝堂の鍵を開けてくれないなら、サルヴァティーニ隊長に報告しちゃいますよ。リタが黒炎の魔鳥に眠らされても、楽長は何もしてくれなかったって」
「うわぁぁぁっ!」
楽長は取り乱した。
「やめろ! やめてくれ! ただでさえ去年一年間、何も解決できなかったのに、俺の株がさらに下がってしまう!」
どうやら楽長は、最初の聖女昏睡事件が起こってすぐ、隣国から呼び戻されて学園のマエストロ・ディ・コンチェルトに任じられたらしい。しかし一年経っても事件を解決に導けなかったから、僕とリタが送り込まれたのだ。
「ちきしょうっ、大人を脅しやがって! 行くぞ!」
─ * ─
ようやく鍵を手に入れられたので、次回は立ち入り禁止の礼拝堂に入ります!
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