10話 彩瀬が中にいる

 久しぶりに訪れた彩瀬の家は、どこか朽ちているように見えた。


 それもそうだ。この家は、大体2年間ぐらい、誰も住んでいない。


 僕は、軋む鉄格子を動かしながら門扉を開けた。


 家というものは、人が住んでいなければすぐにダメになる、ということを聞いたことがあるのだけど、僕は改めてそうなんだなということを実感した。


 昔はあんなに綺麗な花が咲き乱れたいたのに、庭には雑草が生い茂り、土は乾いていた。このあたりは本当に畑だったのかも、今ではもうわからない。


 僕は恐る恐る土の庭を歩いた。家に来てくれと言われたけれど、本当にこの家に人がいるのだろうか。


 悪い冗談だったらどれだけいいだろう。そう思うことはあるんだけど、そういうわけにはいかない。


 ——彩瀬のLINEからは、僕が犯行をしたことを知っている。このことを放っておくわけにはいかない。——

 

 僕は、今すぐでも相手の正体と目的を知らなければいけない。


 僕を揺さぶって、一体何をしたいというのだろう。


 

 水野家が出て行ってから、この家から電気が付いたところは一度も見たことがない。本当にこんなところに人がいるのだろうか。


 扉についている金具を鳴らして、ノックする。すると、奥から物音が聞こえた。



 扉が開く。僕の鼻先ぐらいの身長しかない。


 髪が長い。あちこちに白髪が混じっている。肌は化粧気がなく、シミが散らばっている。ヨレヨレのTシャツを着ていて、第一印象から見て50代に見える。一体誰なのだろう。


「淳也くん……?」


 どこか聞き覚えのある声。僕は、この声を聞いたことがあるような気がする。


 「しばらく見ない間にずいぶんと大きくなったわね。おばさん驚いたわ」


 僕は目を疑った。目の前にいる中年の女性の正体は彩瀬のお母さんだった。


 僕が最後にこの人を見た時は、もっと若々しかったはずだった。


 2年前、玄関から彩瀬のお母さんが玄関から現れた時に、娘である彩瀬だと勘違いしたことを思い出した。


 それほどに、彼女の見た目はみずみずしく、きれいな人だった。


 ずっと会っていなかったこの2年間、一体彼女に何があったのかはわからない。だけど、たった2年間でこんなに人は変わってしまうものだろうか?


 何が原因でこんな風に変わってしまったのだろうか。


「中に上がりなさい。中で彩瀬が待っているわ」


 彩瀬が中にいる?僕は自分の内側で熱く煮えたぎるような感覚を覚えた。


 ——誰かがそう言っていたのではない。僕は、ずっと彩瀬は死んでしまったものだと思っていた。———————

 

 そんなこと、僕が一番信じたくなかった。だけど、何度も心の中で彩瀬は生きている。そう思い込もうとすればするほど自分が信じられなかった。


 あの台風の夜、彩瀬はどこで、どうやって過ごした?どこに避難したんだ?


 15の歳の時、どうして君は、お母さんに閉じ込められていた?嵐の夜のあと、どんな生活を送っていた?


 僕の知らない彩瀬がたくさんある。あんなに一生懸命見張って、監視していたのに、どうして僕の目の前から姿を消したんだ?


 これまで、彩瀬の友人関係や人間関係、好きな人の特徴、嫌い、苦手な人の特徴は全て把握してきたつもりだ。


 なのに、君は僕の目の前から姿を消した。どうして君は僕の目の前から消えたんだ?


 何度も考えた。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も——————


 彩瀬のことを考えると、夜も眠れなかった。たまに眠れるかと思ったら、夢に出てきた。


 二人でキャンプ道具を揃える夢。


 そのうちに、僕たちは自分たちだけの力で山の中でキャンプをして、自然の中でくつろぐんだ。


 

 小鳥のさえずり。


 風の音。


 木々のささやき。


 川の音。

 

 

 目を覚ますと、僕はもう一度夢の世界にいきたくなる。


 だけど、一度目を覚ますと、再び眠ることは許されなかった。


 

 何度も頭を巡らせて考えていくうちに、僕はある結論にたどり着いた。



 そうか、わかった。


 彩瀬は死んだんだ。死んだから、僕の目の前に現れないんだ。



 僕は、睡眠薬を飲むようになった。


 最初は少量。少しずつ効き目が弱くなっていく。


 あまり効かないと思ったら、量を増やした。


 それでもまた効かないと思ったら、さらに量を増やした。


 すると、だんだんと、量を増やしても効かなくなってきた。


 僕は、めんどくさくなって、一気に飲むようになった。


 すると、すぐに眠れるようになった。


 だけど、すごく気持ちが悪い。



 気がついたら、僕は床で倒れていた。顔半分が痛くて、口元にネバネバするものがついている。


 目が覚めた瞬間、僕は途中で吐いたんだということを理解した。


 

 それを見た母さんは、僕を精神科に連れていくようになった。


 きっと、僕を自殺願望があるんだと勘違いしているみたいだった。


 だけど、それは半分正解でもう半分は間違っている。


 僕は、ずっと彩瀬に会いたかったんだ。


 夢の中でなら、彩瀬に会える。


 起きていると、彩瀬が死んだという現実が僕を襲う。


 そこから逃げるために、睡眠薬をたくさん飲んで、夢の世界に逃げ込むんだ。


 

 だけど、それが危険だと思われたらしい。



 僕は、精神科に通い始めてから、少しずつ眠れるようになった。睡眠薬の量は先生が処方する量を守るように強く言われた。


 心が落ち着くと、僕は少しずつ頭の中から彩瀬が消えていくような気がした。


 そんなことは、絶対に嫌だけど、そうじゃないと生きていけないような気がした。


 ——————

「彩瀬が、中にいるんですか?」

 

「当たり前じゃない。彩瀬ちゃんは、ずっと待っているわよ」


 僕は、靴も脱がないまま、家の中を駆け走った。

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