第40話 ぱぱに教えてもらった魔法
礼拝堂の冷たい石の床に、俺とソルヴァは立ち尽くしていた。
駆けつけた学園の衛兵たちが、気を失ったままのケティルを拘束し、手際よく連行していく。
その騒々しさも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
俺の手の中には、一つのロケットペンダントが残されている。
その蓋を、俺はゆっくりと開いた。
そこに描かれていたのは、若き日のケティルと、そして……俺のかつての仲間である、僧侶のウーナだった。
俺の知るウーナは、いつも仲間たちの後ろで、慈愛に満ちた、どこか聖母のような微笑みを浮かべている女だった。
だが、この肖像画の中の彼女は違う。
一人の男の隣で、心の底から幸せそうに、無防備に笑っている。
寄り添うケティルの表情も、幸せそうな青年の顔だった。
「……知らなかったな」
ぽつり、と俺の口から言葉が漏れる。
あいつが、こんな顔で笑うなんて。
この二人が、ただの仲間以上の、特別な関係にあったことは、もう疑いようもなかった。
「…………」
隣に立つソルヴァも、その小さな肖像画を、ただ黙って見つめている。
結局のところ、俺が奪ったのか……。
すべては、俺の招いたことなのか……。
◇◇◇
俺とソルヴァは、学園の衛兵からそれぞれ個別に質問を受けた。
まあ、はっきり言って、何があったかよくわからん。
事情聴取を終えた頃には、すっかり夜だった。
ソルヴァは、何も言わずに踵を返し、学生寮の方へと、力なく歩き出そうとした。
その小さな後ろ姿が、あまりにもさびしそうで。
「……おい」
俺は、咄嗟に声をかけていた。
ソルヴァの足が、ぴたりと止まる。
「……うちで、晩飯でも食っていくか?」
我ながら、不器用すぎる誘い文句だった。
ソルヴァは、振り返らないまま、冷たい声で答える。
「……結構です。あなたに世話になる義理はありませんので」
意地とプライドが入り混じった拒絶の言葉。
……まあ、そうだろうな。
俺のことを許せるわけがないか。
諦めて踵を返そうとした、その時だった。
「あ! パパ、おそーい!」
聞き慣れた声が響き渡る。
三人の娘たちが迎えに来てくれていたのだ。
クータルは、俺たちの間の険悪な空気などお構いなしに、一直線に駆け寄ってくる。
そして、俺を通り過ぎて、一人で立ち尽くすソルヴァの服の裾を、きゅっと掴んだ。
「お姉ちゃん、だーれ?」
「……ソルヴァです」
「そるゔぁ?」
クータルは、覚えたての言葉を繰り返すように、不思議そうに小首をかしげた。
そして、じーっとソルヴァの顔を見つめると、とんでもなく素晴らしい発見でもしたかのように、ぱあっと顔を輝かせる。
「わかった! おねーちゃん、おなかすいてるお顔してる!」
「なっ……! そ、そんなことは……」
ぐぅぅ……。
言葉を遮るように、静かな夜の学園に、盛大な腹の音が鳴り響いた。
ソルヴァの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「あ! やっぱりおなかぺこぺこ!」
クータルは、してやったりとばかりに満面の笑みを浮かべると、ぐいぐいとソルヴァの手を引っ張った。
「おねーちゃん、いっしょにごはんたべよー!」
その、あまりにも純粋な誘いに、ソルヴァの肩がびくりと震える。
「ピヒラのピザ、せかいいち、おいしいんだよ!」
「そ、そうです! ソルヴァさん、今夜はとっておきのピザなんです! よかったら、ぜひ!」
「みんなで食べると、もっともっと、美味しいんだにゃ!」
クータルに続き、ピヒラとミーシャからも、三方向からの曇りなき眼の猛アタック。
今のソルヴァに、この無垢な善意の塊を、振り払う術はなかった。
彼女は、戸惑い、葛藤し……やがて、観念したように、消え入りそうな声で呟いた。
「……では、少しだけ、ご相伴にあずかります」
◇◇◇
家の扉を開けると、ふわりと、小麦の焼ける香ばしい匂いが俺たちを出迎えた。
キッチンでは、ピヒラがエプロン姿で真剣な顔つきで生地をこねている。
ソルヴァは、そんな俺たちの家に、一歩足を踏み入れたまま固まっている。
「さあ、遠慮すんな。座ってろ」
俺は、リビングで一番マシな椅子を彼女に勧める。
ソルヴァは戸惑いながらも腰を下ろす。
やがて、ピヒラが腕によりをかけて作ったピザが、大きな木の皿に乗ってテーブルに運ばれてくる。
とろりと溶けたチーズと、トマトの焼ける香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「「「いただきまーす!」」」
元気な声と共に、熱々のピザに手が伸びる。
ソルヴァは、その光景を、ただ静かに眺めていた。
ピヒラが、一切れ、彼女の皿に取り分けてやる。
「……いただきます」
小さな声でそう呟くと、彼女は、ほんの少しだけ、そのピザの端をかじった。
その瞬間、彼女の瞳が、わずかに見開かれたのを、俺は見逃さなかった。
◇◇◇
食事の後、娘たちは、少しだけ元気を取り戻したソルヴァの周りに集まり、質問攻めを始めていた。
そんな、少しだけ和やかになった空気が流れる中、ガチャリ、と玄関の扉が開く。
「……ただいま」
疲れた声で入ってきたシグルーンは、リビングの光景――特に、ソファにちょこんと座るソルヴァの姿を見て、わずかに目を見開いた。
「ソルヴァ君か。学園長から話は聞いている。大変だったな」
その声には、責める響きはなく、ただ純粋な労いがこもっていた。
ソルヴァは、どう返していいか分からず、ただ「あ、お邪魔……してます」と、小さな声で返すのが精一杯だった。
シグルーンは、俺の方に視線を移すと、ふっと息を吐く。
「まったく、お前は……。私がいない時に限って面倒事を起こすんだからな」
「悪かったよ。それより、聴取は終わったのか? 今日は帰ってこれないんじゃなかったのか?」
俺が尋ねると、シグルーンの目が、すっと鋭い光を宿した。
「無視できん情報を掴んでな。急いで切り上げて帰ってきた」
シグルーンは、俺と、そしてソルヴァの顔を順番に見つめると、静かに、だが重い声で言った。
「『嘆きの揺り籠』の件だ。王家の書庫にあった公式報告書を、改めて精査してきたんだが。やはり、記録が改ざんされていた」
「いったい、誰が、なんの目的で?」俺は尋ねた。
「まだ、それはわからないが……」シグルーンは言った。「今回わかったのは、ウーナの遺体が、発見されていないということだ」
「……どういうことだ?」
「つまり、だ」
シグルーンは、一度言葉を切ると、俺とソルヴァの顔を交互に見つめ、ゆっくりと言葉をつづけた。
「公式の記録上、ウーナは『行方不明者』として処理されている。だが、なぜかパーティメンバーであったお前や、世間には『死亡』したと伝わっている。……誰かが意図的に、情報を操作したとしか考えられん」
◇◇◇
夜の魔法学園へと続く石畳の道を進む。
ソルヴァを寮へ送っているところだった。
俺とソルヴァの間には、クータルがいた。
クータルはご機嫌な様子で、俺の左手と、ソルヴァの右手を、その小さな手でぎゅっと握っていた。
「ふんふふーん♪」
クータルは時折、鼻歌交じりに、繋いだ手をぶらん、ぶらんと大きく揺らす。
道を歩きながら、俺はウーナの件について考えていた。
ウーナのことは、いったい、どういう意味を持つのか?
あいつは生きているのか?
だとしたら、なぜ姿を消した?
重苦しい沈黙を破ったのは、クータルだった。
「おねーちゃん」
クータルが、ソルヴァの服の裾を、くい、と引いた。
「元気ない? もしかして……泣いてるの?」
「……泣いてなど、いません」
「そっかー」
クータルは、それ以上は追及しない。
だが、にぱっと笑うと、まるでとっておきの秘密を打ち明けるように、声を弾ませた。
「いいもの見せてあげる! ぱぱに教えてもらった魔法だよ。くー、いっぱい練習したの!」
そう言うと、クータルは俺たちから手を離した。
立ち止まり、夜空に向かって、小さな両手をいっぱいに広げる。
彼女の体から放たれた膨大な魔力が、黄金の蝶の形を取り、一匹、また一匹と、静かな夜の闇へと舞い上がっていく。
何百という『星光蝶』の群れが、魔法の街灯の光と混じり合い、夜空を幻想的に染め上げていく。
それは、息をのむほど美しく、そして、どうしようもなく優しい奇跡の光景だった。
ソルヴァにとっての、思い出の魔法。
それが今、夜空いっぱいの祝福となって、目の前に広がっている。
「……あに、さま……っ」
ソルヴァは、その場に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。
俺は、ただその隣に静かに寄り添った。
クータルが泣きじゃくるソルヴァの隣にちょこんと座り、その背中を、小さな手で、ぽん、ぽん、と優しく叩いている。
優しい子に育ったもんだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、涙が枯れる頃、ソルヴァはしゃくり上げながら、か細い、消え入りそうな声で呟いた。
「……ごめ、んなさい……」
それは、俺に向けた言葉なのか、天国の兄へ向けた言葉なのか。
俺は、そんな彼女の前に、ゆっくりと膝をついた。
そして、手を伸ばし、彼女のプラチナブロンドの髪を、一度だけ、わしわしと、不器用に、だが優しく撫でた。
俺は、なにかソルヴァに声をかけたいと思った。
だが、謝罪も……許しも……慰めも……なんだか、しっくり来なかった。
だから、俺はこの場にはそぐわないかもしれないが、伝えたいことを言った。
「……俺は、頑張る」だから。「ソルヴァ。きみも……できるだけ、頑張るといい」
それこそが、残されたものにできる、唯一の弔いだった。
◇◇◇
……静寂が、家に戻ってきた。
娘たちは、それぞれの部屋で穏やかな寝息を立てている。シグルーンも自室で何かの書類に目を通しているようだった。
俺は一人、暖炉の前に座り、残り少なくなった安酒をグラスに注ぐ。
――昔は、いつもこうだった。
任務を終え、誰もいない家に帰り、ただ、この静寂だけが俺の友だった。
仲間を失った夜の記憶を、酒で無理やり喉の奥に流し込む。
明日を生きる意味なんて、どこにもなかった。
だが、今のこの静寂は、あの頃とは違う。
この静けさは、虚無じゃない。
騒がしい一日を終えた後の、温かい余韻だ。
俺は、グラスに残っていた酒を一気に煽る。
――ソルヴァ。
あいつは、これからどうするんだろうか。
兄を失った悲しみと、俺への憎しみを抱えて。
オーウェン……すまねえ。
俺は、お前の妹を、今までずっと一人にしてきた。
だが、もう逃げねえよ。
俺はもう、Cランク冒険者のダンスタンじゃない。
クータルの、ピヒラの、ミーシャの……この家にいる全員の父親だ。
この、どうしようもなく温かい居場所を、この手で守り抜く。
そのために『頑張る』んだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、娘たちの寝顔を、そっと覗きに行った。
――――――――――――――――――
【★あとがき★】
皆様のおかげで★100達成できました。
ありがとうございました。
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