第二十七話【蠢く紙魚】

 紙魚(しみ)という虫をご存じでしょうか。

 湿気を好み、古い書物のページを喰い荒らす、わずか数ミリの害虫です。

 その名のとおり、薄く、銀白色に光る身体は、たしかに紙の上を泳ぐ魚のようにも見えます。


 紙魚は本の“虫”ですが、まれに、それが文字そのものを喰うように思えることがあります。

 行間が崩れ、意味の通らない文が現れ、ふと気がつけば──

 物語の筋書きが、読んだはずのものと違っている。


 ……ええ、私のように、本に触れることを生業とする者にとって、紙魚は天敵です。

 けれど、今回しじま堂に舞い込んできた一冊は──

 その虫が喰った“跡”にこそ、意味が宿っているようでした。


 古びた民話集。どこの地方のものかは不明。

 ところどころのページが破れ、虫喰いの穴が広がるその本は、読めば読むほど中身が変わっていく。

 いや……私が読んでいる最中にも、虫が頁を這い、文字を喰い直していたような、そんな錯覚すらありました。


 それはただの劣化か、あるいは――意図を持った“書き換え”だったのか。


 ……さて。語らせてもらいましょうか。

 これは、とある“虫喰い本”にまつわる話です。





──





 最初に異常に気づいたのは、枕元に落ちていた小さな“かけら”だった。


 ページの破片──ではない。紙はやや厚く、黄ばんでいて、墨のようなインクが滲んでいる。

 だが、そこには一文字すら残っていなかった。何かが“そこにあった”気配だけを残して、

 それはただ、しっとりと濡れたような質感を纏っていた。


 その夜、男は寝床の傍らに一冊の本を積んでいた。

 古書市で偶然手に入れた、題名のない民話集。和紙に似たざらついた紙質で、綴じ糸は緩くほどけかけていた。


 初めてその本を読んだとき、奇妙な違和感を覚えた。

 「山の向こうに住む、面なしの婆さま」の話。

 読後しばらくしてもう一度読み返してみると、

 「面なしの婆さま」は「目のない娘」に置き換わっていた。


 記憶違いだろうか。いや、あの話はたしかに――

 混乱した男は、それから毎晩、その本を枕元に置いた。

 次第に、本は“少しずつ変わっていった”。


 最初は、登場人物の名前だった。

 次に、会話の語尾が変わり、道具の名前が変わり、

 しまいには“語られていないはずの場面”が挿入されていた。


 たとえばこうだ。

 川を渡る話がいつの間にか、川で何かに呼ばれる話に。

 村を訪ねる話が、いつの間にか、村に“封じられていた者”を起こす話に。


「読んでいたはずの物語が、少しずつ私の記憶を侵してくる」

「読み返すたび、“最初の話”が遠のく」

「まるで……物語が自分を“更新”しているみたいだ」


 ある朝、男は目を覚ましたとき、掌にかすかな痒みを覚えた。

 そこには、小さな紙片が一枚──そしてその中央に、“虫のような黒い染み”がひとつ。


 気がつくと、本のページには、目に見えぬ小さな虫が這い回っていた。

 光を当てても、影ができない。

 だが紙の上の文字は、じりじりと歪み、擦れ、消え、そして別の意味をもって現れる。


「紙魚だ」

そう思ったときには、男の目の前で、ひとつの文字が、ぼろりと崩れ落ちていた。



 本の内容は、日を追うごとに変貌していった。


 もはや「民話」ではなかった。

 登場人物は皆、名を持たず、ただ「男」「女」「子供」と呼ばれ、

 彼らの行動は、何かに導かれているように“滑らか”だった。


 たとえば、男が山を越える理由は語られない。ただ、越えねばならぬと書かれている。

 女が子を抱いて川に入る理由も描かれない。ただ、濡れた石を撫でていたとだけ記される。


 男はページを読み進めるたび、喉の奥に乾いたざらつきを覚えるようになった。

 そしてふと、現実にも“おかしな一致”が現れ始める。


 玄関に置いた傘が、なぜか濡れている。

 朝方、壁に何かが這い這いしたような痕がついている。

 言葉に詰まると、代わりに“本で見た言い回し”が口からこぼれる。


 やがて男は理解した。

 これはただの本ではない。読むことで、現実の“語り”を上書きしてくる。


 本の中の“語り”が、彼の現実に滲みはじめている。

 彼がページをめくるたびに、その内容は現実の出来事に置き換わり、

 やがて、本に記された“彼”と、読み手の彼とが、完全に重なるのだと。


 そして――ある晩、ページが真っ白になった。


 ただ、何も書かれていない頁に、黒く細いものが蠢いていた。


 紙魚だ。

 いや、それはすでに、虫ではなかった。


 頁の隙間から這い出てきた“それ”は、黒い筆跡のように身を折り曲げ、

 幾百もの脚で文字を踏みつぶしながら、物語そのものを喰らっていた。

 彼の記憶をなぞるように。彼の人生をなぞるように。


「誰かが、読んでいる」

「いや、“あれ”が私の人生を書き換えているのだ」

「私はもう、物語の外にいない」


 気がつけば、男の家は、静まり返っていた。

 家具は黒い染みに溶け、壁はページのように剥がれ落ち、

 視界のすべてが、“古書の中の景色”へと変わっていた。


 そしてその最奥、ページの穴の向こうに、ひとつの“眼”があった。


 黒く濡れた球体。まぶたを持たず、ただ、見開かれている。

 それは紙魚たちの主。

 文字を喰らい、記録を喰らい、読み終えた物語を捕食する“書の獣”。


 男は呻いた。「私を読まないでくれ」と。


 だが、もう遅かった。

 ページは破れ、虫が這い、彼の名前のあった行は──消えていた。





──





 文字とは不思議なもので、ただの記号に過ぎないはずなのに、

 それが並び、意味を持ち、物語を生むとき、人の心をも喰らいはじめます。


 今回の一冊――あれは、たしかに“読んではならない”本でした。

 紙魚は紙を喰らう虫ですが、あの本に湧いていたものは、もっと別の、

 記憶や存在そのものを削るものに思えてなりません。


 誰が書いたのか。どこから来たのか。なぜ内容が変わっていったのか。

 ……おそらく、もともと“完成”していなかったのでしょう。

 物語が誰かに読まれることで、ようやく“書き上がる”ような本だったのです。


 そして、その“最後の一頁”は、読む者の記憶をもって綴られる。


 もしもこの本がまた誰かの手に渡ったとしたら――

 次に喰われるのは、誰の物語でしょうか。


 私は、読みました。

 けれど、もう頁をめくるつもりはありません。

 この本の最後の一行を、私はこう書き加えて、そっと閉じることにします。


「ここに記す語りは、終わりにしよう。

これは“私”の物語ではないのだから」

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