第二十五話【灸印ノ記】
人体には“流れ”があります。
目には見えず、科学では断定できず、けれど確かに感じ取れるもの。
それは気とも、魂とも呼ばれ、時に“生”と“死”の境をも揺るがせる。
東洋医学には古来より、経絡という概念があります。
それは気の通り道であり、命の配線図のようなもの。
鍼や灸は、その経絡(けいらく)にそっと火を灯すための技術です。
……ただし。
触れてはならない“別の流れ”が存在するとしたら?
本来の経絡ではない、もうひとつの裏の道。
それを記した書物が、実際に存在したとしたら。
今回、私のもとに届いたのは、江戸時代末期に書かれたとされる一冊の治療記録──
表紙には何の題字もなく、ただ煤けた麻紐で括られていた冊子でした。
手に取った瞬間、掌の奥がじん、と熱を持つように感じられたことを、今もはっきり覚えています。
……さて。語らせてもらいましょうか。
これは、とある鍼灸師が遺した“命を刻む記録”にまつわる話です。
⸻
その冊子は、古い灰袋のような布に包まれていた。
包みを開いた瞬間、微かに焦げた香のような匂いが漂った。
紙は薄く、乾いた竹のような質感で、ところどころに灰色の染みがある。
筆で記された文字は、癖の強い草書。
冒頭に、ただ一行だけこう綴られていた。
「この術は命を焼く。読む者に、熱を遺すべからず。」
その治療書を持ち込んだのは、ある青年だった。
彼の祖父が鍼灸師であり、蔵の整理中に見つけたのだという。
冊子には通常の経絡図に加え、“灰墨”で描かれた第二の経絡が記されていた。
それは人体図の上に、重なるように走っていた──通常の経絡とは異なる曲線で。
「これ……どうやら“死者を癒す”経絡らしいんです」
青年の言葉に、私は息を飲んだ。
そんな理屈があるはずもない。だが、冊子に書かれた術式は明らかに“施術のため”ではなかった。
【癒シノ灸】
死ニ瀕ス者ノ背ニ印ヲ刻ミ、経絡ノ灰ヲ灯セ。
焦ゲ跡ハ口ナク、目ハ見エズ、声ナク返ル。
シカシ生ケル。
※経絡ヲ誤リ焼ケバ、“古キ者”目覚メルベシ。
術式の図に描かれた背中の“灸点”は、まるで呪符のようだった。
そして、そのページの裏には、何者かの筆跡でこう記されていた。
「生き返ったのは、妻ではなかった」
青年はそれを冗談めかして笑ったが、目の奥は怯えていた。
彼は言った。「……この“印”を、祖父は母に施したんです。事故のあと、病院では死んだと宣告されたのに、なぜか──母は帰ってきたんです」
私はその一言に、ぞっとする寒気を覚えた。
果たして、“帰ってきた”のは本当に彼の母だったのだろうか?
それから数日後。
再び青年がしじま堂を訪れたとき、その顔には疲労と恐怖が色濃く刻まれていた。
「……あれは、やっぱり“母”じゃなかったんです」
震える声で、彼は語った。
夜、廊下の奥から響く湿った足音。
台所に立ってはいるが、食器の並べ方も、調味料の使い方も、なにもかも“違う”のだという。
「目を合わせてはいけない気がして、でも……目を逸らすと、もっと危ない気がして……」
彼は震える手で、治療書のあるページを指さした。
それは“灰灸の再封”と題された一節だった。
【封ジノ印】
焦ゲ跡ノ中央、古ノ針ヲ以テ経絡ヲ断ツベシ。
灰ヲ流スルハ危険。命ガ残レバ“主”ハ残ル。
焦ゲ跡ヲ封ジナバ、再ビ名ヲ呼ブベカラズ。
その夜、青年は家に戻り、祖父の道具箱から針を持ち出した。
“母”の背中には、はっきりと黒い灸印が残っていたという。
彼は、それに針を打った──震える手で、“名を呼ばずに”。
──そして、次の朝。
家には誰もいなかった。
“母”のいた痕跡も、灸の跡も、影さえも残されていなかった。
ただ一つ、仏壇の前に、古びた針が転がっていたという。
そして……治療書の最終ページに、黒い筆でこう書き足されていた。
「主は戻りたがっている。次の印を、刻め。」
その日以来、青年の行方は知れない。
私は、あの冊子を再び麻布で包み、しじま堂の奥にしまい込んだ。
今も、たまに布の奥から、ほのかに焦げたような匂いがする。
⸻
医術とは、人を救うためのもの――
その理念を信じるからこそ、かつて多くの術者が“境界”を越えてきました。
経絡をなぞる手は、ときに命を蘇らせ、
ときに、命ではない“何か”を呼び寄せる。
それは、目に見えない流れを操ることの代償です。
この『灸印ノ記』に記された技法は、すでに鍼灸術の範疇を超えています。
命を繋ぐためのものではなく、別のものに“場所”を与えるための技術。
印を刻むとは、すなわち“招く”ということ。
灸を据えるとは、“道を通す”ということ。
そして何より恐ろしいのは……
この本に記された技法が、あくまで“未完成”であったという点です。
失敗に終わったはずの術式。
しかし、本の最終頁に書き加えられた言葉がそれを否定していた。
“主は戻りたがっている”──。
ならば、それは今もどこかで、次の印を待っているのかもしれません。
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