第二十二話【歪んだ地図帳】
世界を知る手段は、いくつもあります。
旅をして、自分の目で確かめる。地図を広げて、想像を巡らせる。あるいは、物語を通して、遠い景色を心に刻む。
けれど──本当に信じられるものは、どこにあるのでしょう。
目で見たものですら、記憶の中では形を変える。
心に焼きつけた景色も、時が経てば曖昧になる。
ならば、地図に描かれた“風景”だけは確かなものなのでしょうか?
……さて。語らせてもらいましょうか。
これは、ある地図帳にまつわる話です。
──
それは、ある雨の夜だった。
閉店後のしじま堂に一人、私は古書の整理をしていた。
壁際の棚に手を伸ばすと、今まで見た覚えのない一冊が、ひどく自然な顔をして紛れているのに気づいた。
黒ずんだ革装丁に、銀の文字で《Atlas Obscura》。
手に取ると、ずしりと重みが伝わる。これは地図帳──のはずだが、装丁は異様に重厚で、まるで図鑑や聖典のような雰囲気を持っていた。
パラリ、とページをめくる。
そこには、見覚えのある大陸の輪郭。だが、細部が妙に歪んでいる。
山脈の位置が違い、国境線が不自然に曲がり、河の流れが途中で途切れて消えていた。
「……これは、誰かの記憶で作られた地図か?」
そう思った瞬間、ある“違和感”が胸をよぎった。
私が知っている地図と、違う。それも、ほんのわずかに。
だが、それがとてつもなく不気味だった。
地図帳の一ページに、自分の故郷の町があった。
子供のころ何度も遊んだ公園、祖父と歩いた坂道。
だがその一角に、見たこともない小道が描かれていた。
私は眉をひそめた。こんな道はなかったはずだ。
……いや、もしかすると忘れていただけなのか?
記憶は曖昧だ。とくに、過去の景色というものは、何度も塗り直されてしまう。
試しにその小道の先に目を移すと、そこにはこう記されていた。
【訪問者未着】
意味:記憶はまだ形成されていないが、将来この地を歩く可能性がある者。
私は思わず本を閉じた。
それは、ただの地図ではない。
これからの私の足取りを、“予告”する何かだと、本能が告げていた。
再びページをめくると、さきほどと違う地図が現れた。
そこには、実際に今朝通った商店街の風景が描かれていた。
だが、ひとつだけおかしな点があった。
──本来あるはずの、和菓子屋が消えている。
跡形もなく、更地として記されていたその場所には、こう書かれていた。
【抹消済み】
備考:現実認識から脱落した構造物。以降、記憶との照合が困難となる。
「……そんな馬鹿な……」
そう呟いたとき、脳裏にふと疑念が浮かぶ。
和菓子屋の店主の顔が、どうしても思い出せないのだ。
あの人の声は? 店の名前は? いつ最後に話した?
どれも、霞がかった霧の向こうのように曖昧だった。
ページをめくるごとに、地図帳は現実を“更新”していく。
世界の輪郭が、静かに、だが確実に書き換えられていく。
そして最後のページ。
そこにはまだ見ぬ町の地図が広がり、中央にこう記されていた。
【記録者 到達予定】
補記:座標確定後、記憶再構築が開始される。
地図の下部、余白の部分に、震えるような小さな文字が刻まれていた。
「見る者の記憶が、地図を完成させる。
やがて、地図が世界の輪郭を決める。」
私は思わず、その本を遠ざけた。
けれど、すでに“何か”は始まってしまっていた。
その夜、私は悪夢を見た。
見知らぬ町を一人さまよい歩き、誰もいない駅にたどり着く。
空は濁った鉛色で、時刻表には“往路のみ”と書かれていた。
電車が来る気配はない。けれど、私はその場から動けなかった。
背後に、何かが迫っている気がした。
目が覚めたとき、窓の外はまだ暗く、時刻は午前二時を過ぎていた。
起き上がって水を飲みに台所へ向かうと、違和感があった。
家の間取りが、ほんのわずかに変わっている。
いつも通るはずの廊下が数歩ぶん長くなっていて、トイレのドアが引き戸に変わっていた。
「……これは、気のせいか?」
そう言いかけて、口を閉じる。
気づいてしまったのだ。この違和感は、“見慣れたもの”から失われていく感覚と同じだと。
地図帳の中で消えていった和菓子屋と、同じ理屈だ。
再び、あの本を手に取った。
ページは勝手に開かれ、私の“住居”の地図が現れていた。
見れば、居間の表記が「書庫」に書き換わっている。
寝室には「記録室」とある。そして、自室の名は……無記名の空白になっていた。
そのページの余白には、こう記されていた。
【記憶と構造の一致率:84%】
進行中──書き換え完了まで残り16%。
私の世界は、地図によって“再編集”されている。
それは記憶の修正ではない。現実そのものを、地図に合わせて作り変えているのだ。
私は背筋が凍るのを感じながら、最後の手段に出た。
地図帳の一ページを破こうとしたのだ。
だが紙は異常なほどに強靭で、ナイフの刃すら通さない。
それどころか、指先に走った痛みで視線を落とすと、私の掌に、薄くインクのような模様が浮かんでいた。
それは──地図の線だった。
指の関節に沿って道が走り、掌の中心には、小さな“あなたの現在地”のマークがある。
私は戦慄した。
地図は、私の中にも描かれ始めていた。
しじま堂の奥で、書棚が軋む音がした。
その音は、かつて聞いたどの音よりも“遠い”。
けれど確かに、こちらへ近づいてきている。
私は地図帳を閉じ、慎重に鍵をかけた。
それでも世界の輪郭は、すでに歪んでいた。
この書は、もう戻らない現実の一部として、私の中に刻まれてしまったのだ。
──
世界のかたちは、私たちの記憶で決まっている──そんな話を聞いたことがあります。
けれど、もしその記憶が、他者の手で“書き換えられる”ものだったとしたら。
あるいは、本の中に記された情報の方が、現実よりも“強い意味”を持つとしたら。
今回の地図帳は、そうした恐ろしい仮説をそのまま形にしたような代物でした。
見慣れた町並み、家族との記憶、自分という存在の拠り所。
それらが地図の筆致によって、少しずつ塗り直されていく。
しかも本人は、その違和感にほとんど気づかない。
……記憶とは、案外、脆いものです。
そして、現実とは、私たちの“思い込み”の積み重ねでできているのかもしれません。
この一冊には、まだ見ぬ町の地図が、無数に描かれていました。
どれもどこか現実に似ていて、けれど何かが欠けている。
私はあの地図帳を、決して開かない場所に封じています。
けれど、もしあなたの町から、見覚えのある道がいつの間にか消えていたとしたら……
あるいは、“まだ来たことのない小道”に心当たりがあったとしたら──
そのときはどうか、一度、本棚の奥を確かめてみてください。
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