第3章 背中のボタンと、乙女たちの目覚め

「姉姫様、今日もお美しい……」


 その声は、庭の薔薇の陰から聞こえた。

 囁くのは、王宮に仕える若き侍女たち。

 手に持つ水差しは止まり、視線はひとつの方向に向けられている。


 バルコニーに佇む白の姫――エルセリア。

 純白のロリィタドレスに身を包み、金の髪を風に揺らしていた。

 控えめな笑みと、そっと手すりを撫でるしぐさ。

 それだけで、見る者の心を奪った。


「ロゼッタ様もすごかったわよ。黒のドレスに薔薇の刺繍。昨日の夜会、完全に主役だったわ」


「でも……やっぱり姉姫様の方が、正統派の可愛さって感じで……」


「いいの、わたし……ボタン、留めてほしいの」


 ぽつりと呟いた声に、周囲がざわつく。


「……え、それって、“背中のボタン”のこと?」


「うん。だって、エルセリア様も、あの日……ロゼッタ様にボタンをお願いしたって」


「うそ、あの伝説、ほんとだったの?」


「本当よ。この前、ロゼッタ様が裁縫室で『あれが恋の始まりだった』って……小声で言ってたの、聞いたもの」


「やばい……ボタン、お願いしたい……!」


 ロリィタドレスにおける、背中のボタン。


 それは、ドラゴン族の間で今や恋の始まりの儀式とささやかれている。


 始まりは、あの姉妹だった。

 エルセリアとロゼッタ――白と黒の姫。

 彼女たちが互いにドレスを着せ合い、ボタンを留め合ったことが、密かに語り継がれていた。


 竜の一族にとって、背中と尻尾は“弱点”のひとつである。

 とりわけ、尻尾の根元近くは、神経が集中している繊細な部分。


 そこを他人に許すことは、信頼の証であり――

 そして今は、恋のしるしとされていた。


 ***


「ねえ、姉様……これ、あなたが最初なのよね?」


 ロゼッタが、紅茶をすすりながら問いかける。

 今日は姉妹だけの午後。庭園のテラス席にて、淡い日差しがドレスのレースを照らしていた。


「……最初……?」


 エルセリアは首を傾げる。


「“ボタンの儀式”って、言われてるんだよ? 若い竜娘たちの間で。

 誰にボタンを頼むか、ってことが、もう……」


 言葉を濁しながら、ロゼッタは頬を染める。


「わたし、それ聞いた時……変な気分になっちゃってさ」


「変?」


「だって、あれ……本当に、嬉しかったから。姉様のボタン、留めさせてもらって。

 あのとき、手が震えてたの、気づいてた?」


「……ううん。でも、言われてみれば、私も少し熱かったかも」


 エルセリアは、指先をカップの縁にそっと沿わせる。


「ロゼが……触れてくれて、すごく、安心したの。

 身体の奥が、ふわって……熱くなった」


「……やっぱり反則だよ、姉様」


 ロゼッタはふっと笑い、カップを置くと、テーブル越しにそっと手を伸ばす。


「ねえ……今度は、わたしのボタン……また、留めてくれる?」


 その一言に、エルセリアの胸が高鳴った。


 ***


 背中のボタン。

 それは、いつしか乙女たちの約束になった。


「ねえ、私のドレス、後ろ……」


「任せて。今日の私、上手く留められる気がするの」


 誰もが、恋のはじまりを口に出せないまま、ボタンをお願いする。

 そして、ボタンを留めるたびに、胸の奥で何かが芽吹く。


 小さな息づかい。

 指先の熱。

 ドレスの中で、鼓動が鳴る。


 ロリィタ文化が、ドラゴン族の女たちに流行したのは、ただの“可愛さ”だけではない。

 そこに、“触れ合うこと”と、“許し合うこと”があったから。

 そして、それを最初に形にしたのが――エルセリアとロゼッタだった。


 彼女たちは、知らぬうちに“文化”を生んだのだ。


 ***


 その夜、王宮の屋上。


 風のない静かな空の下、姉妹は手を繋いで空を見上げていた。


「……姉様、わたしたち、なんだかすごいことになってない?」


「そうね。でも……嬉しいの。

 可愛くなるって、こんなに誰かと心を近づけられることだったんだって……知れて」


 ロゼッタは、そっと頷く。

  

「じゃあ、また明日も可愛くなろうね」


「うん。また、ボタンをお願いね」


 そうして2人は笑い合う。

 白と黒のレースが風に揺れ、2つの尻尾が静かに交わった。


 その背には、もう“誰にも届かないボタン”など存在しなかった。


 愛しい人が、そこにいる限り――。

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