第2話

 アスファルトを蹴る自分のスニーカーの音だけが、やけに大きく鼓膜に響いた。冷たい夜風が、涙で濡れた頬を容赦なく殴りつける。痛い。だが、胸の奥で燃え盛る灼熱の痛みに比べれば、そんなものは赤子の戯れにも等しかった。


 どれくらい走ったのか。どこへ向かっているのか。何もわからなかった。ただ、あの部屋から、あの光景から、あの声から、一秒でも遠くへ逃げ出したかった。


 汐里と、見知らぬ男。


 ベッドの上で絡み合う、二つの裸。


 甘ったるく響いていた、彼女の嬌声。


 俺の存在に気づき、嘲るように口角を上げた、あの男――狼谷、怜央。


 そして、恐怖と絶望に凍りついた、汐里の顔。


 断片的な映像が、脳内で何度も何度も繰り返し再生される。そのたびに、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。息が詰まる。足がもつれ、俺は電信柱に手をついて、激しく喘いだ。


「はっ……はぁっ……くそ……なんだよ……」


 絞り出した声は、自分のものではないみたいに掠れていた。


「なんだよ、あれ……」


 夢だ。悪い夢を見ているに違いない。そう思おうとしても、頬を撫でる風の冷たさと、アスファルトの硬さが、これが紛れもない現実だと突きつけてくる。


 記念日。そうだ、今日は、俺たちの三年目の記念日だった。


 忘れていたのは、俺だ。仕事が忙しいなんて言い訳をして、あいつが何度もカレンダーを指差していたのを、思い出せなかった。


 だから、罰が当たったのか?


 いや、違う。


 違う、違う、違う!


 どんな理由があったって、あんなこと、許されるはずがない。


 俺たちの三年間は、あんな数秒の光景で、汚されていいような、安っぽいものだったのか?


 ポケットの中で、スマートフォンの硬い感触が指に触れた。取り出して、画面を点灯させる。待ち受け画面には、千代崎サーフで満面の笑みを浮かべる汐里がいた。俺が撮った、お気に入りの一枚だ。太陽の光を浴びて、髪がきらきらと輝いている。


 この笑顔の裏で、あいつは……。


 こみ上げてきた吐き気と怒りで、スマートフォンを地面に叩きつけそうになる。だが、指が震えるだけで、力が入らなかった。代わりに、俺は力なくその場に崩れ落ちた。


 砕け散ったのは、スマートフォンの画面じゃなく、俺の世界そのものだった。


 ***


 澄夫が転がるように部屋を飛び出していった後、部屋には気まずい沈黙が流れた。


 ドアが閉まる乱暴な音が、やけに大きく響き渡る。


「……っ、あ……」


 汐里は、シーツを固く握りしめたまま、身動き一つできなかった。身体中の血が逆流し、指先から急速に冷えていく感覚。見た。見られた。澄夫に、この姿を。


 隣で、怜央がゆっくりと身体を起こした。彼の動き一つ一つが、今はやけにスローモーションに見える。


「行っちゃったな」


 悪びれるでもなく、どこか面白がるような口調だった。


「ど、どうしよう……怜央くん……どうしよう……!」


 パニックに陥った汐里が、震える声で怜央に縋る。怜央はそんな彼女の肩を軽く抱き寄せ、長い指で乱れた髪を優しく梳いた。その仕草は慰めているようで、どこか獲物を手懐けるような冷たさがあった。


「どうするって、別に? あいつが勝手に入ってきただけだろ」


「でも! 見られた……澄夫に……!」


「だから、それがなんだよ」


 怜央は心底不思議そうに首を傾げた。その悪魔的なまでの無頓着さが、汐里の混乱をさらに加速させる。


「俺たちの邪魔しに来た、あいつが悪くねぇ? なぁ、汐里もそう思うだろ」


「そ、そんな……」


「だいたい、お前が言ってたじゃん。最近全然構ってくれないって。記念日も忘れてるような男だぞ? そんな奴のこと、気にする必要あんのかよ」


 怜央の言葉は、悪魔の囁きのように汐里の耳に染み込んでいく。そうだ。澄夫は、記念日を忘れていた。私が何度アピールしても、気づいてくれなかった。釣りの話ばかりで、私の話は上の空。寂しかった。ずっと、ずっと寂しかったんだ。


「……うん、そう、だけど……」


「だろ? お前をこんなに気持ちよくさせてやれるのは、俺だけだ。あいつには無理だよ」


 怜央はそう言って、汐里の唇を塞いだ。抵抗は、できなかった。いや、する気力が、もう残っていなかった。彼の腕の中で、思考が少しずつ麻痺していく。


 悪いのは私じゃない。


 私を寂しくさせた、澄夫が悪い。


 私の気持ちに気づかなかった、澄夫が悪いんだ。


 怜央くんは、私のことをちゃんと見てくれる。私の欲しいものを、くれる。


 そうやって、必死に自分に言い聞かせた。そうでもしないと、罪悪感で押し潰されて、気が狂ってしまいそうだったから。


 不意に、怜央が唇を離し、ベッドの脇に視線を落とした。


「ん? なんだこれ」


 彼が拾い上げたのは、澄夫が落としていった小さな紙袋だった。中から現れたのは、小さな青いベルベットの箱。怜央は興味深そうにそれを開けた。


「へぇ……」


 中には、銀色のチェーンに繋がれた、小さなイルカのモチーフのネックレスが収まっていた。月明かりを受けて、控えめにきらりと光る。


「うっわ、だっさ。イルカて。中学生かよ」


 怜央は心底から馬鹿にしたように鼻で笑い、ネックレスを弄んだ。その光景が、汐里の胸の奥をチクリと刺した。それは、澄夫が私を思って選んでくれたものだ。そう言いかけた言葉は、しかし、喉の奥で消えた。


 今、怜央の機嫌を損ねるわけにはいかない。この嵐の中で、私が唯一掴んでいられる流木は、彼だけなのだから。


「……ほんと、センスないよね」


 汐里は、乾いた唇で、そう呟いていた。自分で言った言葉なのに、まるで誰か他人の声を聞いているような気分だった。


 怜央は満足そうに笑うと、ネックレスを箱に戻し、それを無造作にゴミ箱へと放り投げた。


「こんなもんより、もっといいもん、俺が買ってやるよ」


 そう言って、彼は再び汐里の身体をベッドに引き倒した。汐里は目を閉じる。もう何も考えたくなかった。怜央の体温だけが、今の彼女にとっての唯一の現実だった。


 ***


 どれくらいの時間、路上にうずくまっていたのだろう。いつの間にか涙は枯れ、代わりに身体の芯から凍えるような寒気が這い上がってきていた。


 帰らなければ。


 漠然とそう思った。このままでは凍え死んでしまう。死んだ方が楽かもしれない、と一瞬思ったが、そんな勇気はなかった。ふらつく足で立ち上がり、まるで夢遊病者のように、俺は自宅アパートへの道を辿った。


 鍵を開け、冷たい暗闇が広がる部屋に足を踏み入れる。スイッチを入れると、蛍光灯の白い光が、無慈悲に部屋の隅々までを照らし出した。


 そこは、汐里との思い出で満たされた、呪われた空間だった。


 壁に飾られた、二人で撮った写真。肩を寄せ合い、馬鹿みたいに笑っている俺たちがいる。


 テーブルの上には、色違いのマグカップが二つ。汐里が泊まりに来た時に使う、猫の絵が描かれたやつだ。


 ソファの隅には、彼女が忘れていったカーディガンが、無造作に置かれている。


 一つ一つが、鋭いガラスの破片となって、心臓に突き刺さる。


「う……あ……あああああッ!」


 声にならない叫びが漏れた。怒りなのか、悲しみなのか、もはや分からない感情の濁流が、俺を飲み込んでいく。


 写真を壁から引き剥がし、床に叩きつけた。ガラスが割れる甲高い音が響く。マグカップを掴み、シンクに叩きつける。カーディガンを握りしめ、引き裂こうとするが、布はびくともしない。


 何をしてるんだ、俺は。


 破壊の衝動が過ぎ去った後には、さらに深い虚無感が残るだけだった。俺は力なくソファに倒れ込み、天井を見上げた。真っ白な天井が、まるで思考の停止した俺の頭の中みたいだった。


 なぜ、汐里は。いつから、あいつと。俺が何か、間違えたのか?


 そうだ、記念日を忘れていた。最近、釣りのことばかりで、汐里の話をちゃんと聞いていなかったかもしれない。彼女が「もっと刺激的なことしたいな」と言った時も、冗談だと思って笑って流した。


 あれは、SOSだったのか? 俺が、彼女を追い詰めたのか?


 ぐるぐると、自責の念が頭を巡る。だが、その思考は、すぐに怜央の嘲笑によって断ち切られた。


 違う。たとえ俺に非があったとしても、あの男の存在はなんだ。あいつは、楽しんでいた。俺たちの関係が壊れるのを、すぐ側で、笑いながら見ていた。あれは、事故じゃない。意図的な、破壊だ。


 そうだ。悪いのは、あいつだ。狼谷怜央。そして、それに易々と流された、汐里だ。


 俺は悪くない。いや、俺も悪い。いや、やっぱり、あいつらが……。


 思考がまとまらない。正解なんてどこにもない。ただ、確かなのは、俺たちの間にはもう、修復不可能なほどの亀裂が入ってしまったということだけ。


 その時だった。静寂を切り裂くように、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。心臓が跳ねる。恐る恐る画面を見ると、そこに表示されていたのは『汐里』の二文字だった。


 一瞬、電話に出るのをためらった。何を話せばいい? 何を聞けばいい?


 だが、このままでは終われない。俺は震える指で、通話ボタンをスライドさせた。


「……もしもし」


『……澄夫?』


 電話の向こうから聞こえてきたのは、怯えたような、か細い声だった。さっきまで男の下で喘いでいた声と、同じ声帯から発せられているとは信じがたかった。


「……なんだよ」


 怒りを抑え、できるだけ冷静な声を装った。


『あの……さっきは……ごめんなさ』


「何がだ」


 彼女の謝罪を、俺は冷たく遮った。


「何が『ごめんなさい』なんだよ。説明しろよ、汐里。あれは、一体どういうことなんだ」


『……っ』


 電話の向こうで、彼女が息を呑む気配がした。しばらくの沈黙の後、絞り出すような声が聞こえてきた。


『……だって……澄夫にだって、悪いところはあったじゃない!』


 その言葉に、カッと頭に血が上った。


「俺が、なんだよ」


『最近、全然私のこと、見てくれてなかった! 澄夫は釣りの話ばっかり! 私が新しい服を着ても、髪を切っても、全然気づいてくれなかった!』


「そんなこと……!」


 言いかけて、言葉に詰まる。確かに、最近、彼女の些細な変化に気づけていなかったかもしれない。だが、それがなんだ。それが、あの裏切りへの免罪符になるというのか。


『それに、記念日だって……忘れてたでしょ……?』


「それは……悪かったと思ってる。だから、プレゼントも買いに行ったんだよ! お前のアパートに、それを持って……!」


『でも、忘れてたのは事実じゃない! 私は、ずっと寂しかったの! そんな時に、怜央くんは……彼は、優しくしてくれた……私の話を、ちゃんと聞いてくれたの!』


 怜央。その名前が出た瞬間、俺の中の何かがプツリと切れた。


「優しくしてくれた? 話を聞いてくれた? だから、あんなふうに股を開いたのかよ! あの男の下で、気持ちよさそうに鳴いてたじゃねえか!」


『なっ……! なんでそんな言い方するの!?』


「事実だろ! 俺は見たんだよ! この目で、しっかりとな!」


 もはや、会話にならなかった。互いを傷つける言葉の応酬。彼女は自分の寂しさを盾にし、俺は自分の受けた傷を武器にする。どちらも自分が被害者だと叫び、相手を一方的に断罪する。


『もういい! 澄夫なんて、私の気持ち、全然わかってくれない!』


「わかってたまるか! お前こそ、俺の気持ちがわかるのかよ! 俺たちの三年間を、全部踏みにじっておいて!」


『踏みにじったのは澄夫の方でしょ!』


 ガチャン、と乱暴に電話が切られた。耳に突き刺さる、無機質な通話終了の音。


 俺は、スマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。


 なんだ、今の。


 謝罪じゃなかった。言い訳と、責任転嫁。そして、逆ギレ。


 彼女は、自分が悪いとは、微塵も思っていない。


 悪いのは、彼女を寂しくさせた俺の方だと、本気で信じている。


 理解した瞬間、怒りよりも先に、底なしの絶望が押し寄せてきた。もう、駄目だ。終わったんだ。完全に。


 俺は、上着を掴むと、再び部屋を飛び出した。


 行くあてなど、一つしかない。


 ***


 車を走らせ、俺は千代崎サーフにたどり着いた。


 かつて、俺にとっての世界の中心であり、聖域であり、安らぎの場所だった砂浜。


 だが、車から降りて砂浜に足を踏み入れた瞬間、悟った。


 ここも、もう、俺の居場所ではない。


 ざあぁ……ざあぁ……と寄せては返す波の音が、あの部屋で聞いた、乱れたシーツの擦れる音に重なる。


 潮の香りが、あの部屋に充満していた、甘く淫靡な匂いを思い出させる。


 すべてが、汚されていた。


 あそこのテトラポッドの陰で、初めてキスをした。


 あのブレイクラインで、二人で力を合わせて、座布団ヒラメを釣り上げた。


 夜明けの光を浴びながら、将来の夢を語り合った。


 幸福だったはずの思い出のすべてが、今は鋭い棘となって、全身に突き刺さる。楽しい記憶であればあるほど、裏切りの痛みは増していく。


 聖域は、地獄に変わっていた。


 俺は、その場に膝から崩れ落ちた。砂が、ズボンの生地を通して、冷たく膝に染みる。


「う……ああ……っ」


 声を殺して泣いた。涙が次から次へと溢れ出て、砂に吸い込まれていく。どれだけ泣いても、胸の痛みは少しも和らがない。むしろ、抉られるように、痛みは増していくばかりだ。


 東の空が、うっすらと白み始めていた。夜の闇を駆逐し、世界に色を取り戻していく、夜明けのグラデーション。


 いつもなら、希望と期待に胸を膨らませる時間。一日のうちで、最も好きな時間だった。


 だが、今日の夜明けは、ただただ残酷に美しかった。


 まるで、俺の絶望をあざ笑うかのように。


 俺の世界は終わったのに、無関係に朝が来る。


 その、あまりにも無慈悲な事実だけが、砕け散った現実の中に、ただ一つ確かなものとして横たわっていた。

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