◎【悲報】三年記念日にNTRが発覚。趣味の釣りも思い出も汚され絶望した俺が、無心でロッドを振り続けたら大会で優勝。気づけば隣には新しい釣りガールがいて、元カノたちは破滅していた。

ネムノキ

第1話

 夜明け前の千代崎サーフは、世界がまだ生まれる前の静寂に満ちていた。


 東の空がわずかに白み始め、群青色の水平線がその輪郭を曖昧に浮かび上がらせる。寄せては返す波の音だけが、永遠に続く心臓の鼓動のように、冷たい空気に響き渡っていた。肌を刺す三月の潮風が、容赦なく体温を奪っていく。


「……さむっ」


 隣で、吐く息を白くした汐里(しおり)が小さく震えた。


「そりゃ、まだ冬の残り香があるからな。ほら、カイロ」


 俺、日高 澄夫(ひだか すみお)は、防寒着のポケットで温めておいた携帯カイロを、かじかんだ彼女の手に押し付けた。汐里は「ん」と猫のような声で応えると、冷え切った指先でそれを宝物のように握りしめる。


 そんな、言葉少なでも伝わるやり取りが、俺たちの日常だった。


 物心ついた頃からの幼馴染で、今は恋人。俺の隣には、記憶の始まりからずっと汐里がいた。そして、高校生になった俺たちの世界の中心には、いつもこの千代崎サーフがあった。


「澄夫(すみお)、今日こそ座布団ヒラメ、釣っちゃうからね!」


 悪戯っぽく笑いながら、汐里が愛用のロッドを握りしめる。風に煽られた彼女の艶やかな黒髪が、ふわりと潮の香りを運んできた。その香りが、俺は何より好きだった。


「はいはい。昨日買ったばっかの高いルアー、一投目でロストしないようにな」


「むっ……! あれは不慮の事故です! 澄夫だってこの前、お気に入りのメタルジグ、根がかりで失くしたくせに!」


「あれはな、海の神様へのお布施だ。崇め奉ることで、大物を授けてくださる」


「なにそれ、意味わかんない! 都合よすぎ!」


 ぷくりと頬を膨らませる彼女を見て、俺は思わず笑みがこぼれた。この時間が、たまらなく愛おしい。二人で並んで、同じ水平線を見つめ、他愛ない言葉を交わす。釣れても釣れなくても、ただそれだけで、心は満たされていた。


 俺たちの幸福が、その頂点を極めたのは、去年の秋のことだ。


 あの日の千代崎サーフは、ベイトとなる小魚が浜辺に殺到し、海全体が生命の熱気に包まれていた。夜明けからルアーを投げ続けてもアタリはなく、周囲の釣り人たちも諦めムードで一人、また一人と姿を消していく。昼過ぎには、広大な砂浜に残っているのは俺たち二人だけになっていた。


「もうダメかなぁ……」


 汐里が力なく呟き、竿先を下げた、まさにその時だった。


 ガツンッ!


 それまで沈黙していた俺のロッドが、根こそぎ海に引きずり込まれるような暴力的な衝撃と共に、満月のようにしなった。


「うおっ、来た!」


 反射的に合わせを入れると、尋常ではない重量感が腕にのしかかる。リールのドラグが甲高い悲鳴を上げて、猛烈な勢いでラインを引きずり出していく。脳が痺れるような快感。これは、間違いなくデカい。


「澄夫、がんばって!」


 隣で汐里が叫ぶ。荒れ狂う波音の中で、彼女の声だけが鮮明に俺の鼓膜を揺さぶった。その声が、俺の心に最後の燃料を投下した。


 寄せては走られ、また寄せる。数分にも感じられた攻防は、実際には数十秒だったのかもしれない。波打ち際に、ついにその巨大な魚体が鈍い光を放ちながら姿を現した。


「ヒラメ……でっか!」


 最後の波の力を利用して、一気に砂浜へとずり上げる。砂の上に横たわったのは、まさしく「座布団」と呼ぶにふさわしい、分厚い肉体を誇るモンスターヒラメだった。


「やった……!」


 俺は膝に手をつき、荒い息を整える。全身の筋肉が歓喜に震えていた。すると、背後から汐里が柔らかい感触と共に、思い切り抱きついてきた。


「すごいよ、澄夫! 本当にすごい!」


 興奮した彼女の体温と、弾むような心臓の鼓動が、汗ばんだ背中にじんわりと伝わる。俺は振り返って、その華奢な身体を強く抱きしめ返した。


「汐里がいてくれたからだよ。お前が諦めなかったから、俺も投げ続けられた」


 傾きかけた太陽が、世界を燃えるようなオレンジ色に染めていた。その光の中で、汐里は少しだけ背伸びをすると、俺の頬にそっと唇を寄せた。柔らかくて、少しだけしょっぱい、忘れることのできない感触。


 あの瞬間、俺はこの腕の中にある幸せが、世界のすべてだと本気で信じていた。


 この幸せは、永遠に続くのだと。信じて、疑うことすらしなかったんだ。


 その完璧な円に、微細な亀裂はいつから生じていたのだろう。


 今思えば、その兆候はいくつもあった。ただ、俺がそれを見ようとしなかった。いや、無意識のうちに目を逸らしていただけだ。


「ごめん、今週末はちょっと用事があって……」


「また? 最近、多いな」


「うん、まあ……色々とね」


 電話の向こうで、汐里の声がどこかよそよそしく響く。以前の彼女なら、週末の釣りの誘いを断るなんて考えられなかった。次の釣行の計画を、俺以上に楽しそうに語るやつだったからだ。


 一緒にいる時間の空気も、少しずつ変わっていった。


 ファミレスで向かい合っていても、彼女の視線はテーブルの下の手元、スマートフォンの画面に注がれていることが増えた。俺が新しく買ったルアーの性能について熱弁しても、返ってくるのは「へぇ、そうなんだ」という気のない相槌だけ。


 その画面に映っているのが、俺の知らない誰かとのメッセージアプリのトーク画面であることに、俺は気づかないふりをした。見たい、という衝動と、見てしまったら何かが終わる、という恐怖がせめぎ合う。


「……受験勉強で、疲れてるんだよな」


 そう自分に言い聞かせた。環境の変化に、心が追いついていないだけなんだ。そうに決まってる。


 ある日の放課後、夕陽が差し込む教室で、汐里がぽつりと呟いた言葉が、やけに耳の奥にこびりついた。


「なんかさ、もっとこう……キラキラしたことしたいな、って思う時ない?」


「キラキラしたこと?」


 俺は首を傾げた。俺にとって、夜明けのサーフでルアーをキャストし、それが朝日を浴びて飛んでいく瞬間こそが、世界で一番キラキラしていると思っていたからだ。


「うーん……なんていうか、毎日同じじゃ、つまんないっていうか……。もっと刺激的なこと、みたいな?」


 彼女の視線は、窓の外の、どこか遠くを見ていた。その横顔が、俺の知らない誰かのもののように見えて、胸が小さく、嫌な音を立ててざわついた。


 そして、その「刺激」の正体が何なのか、俺はすぐに知ることになる。


 汐里の口から、その男の名前が初めて出たのは、それから数日後のことだった。


「うちのクラスに転校生が来たんだ。狼谷 怜央(かみたに れお)くんって言うんだけど」


「かみたに……」


「東京から来たんだって。なんか、すっごい大人っぽくてさ。モデルみたいっていうか、オーラが違うんだよね。私たちとは全然」


 楽しそうに話す汐里の声に、俺は胸の奥にチリッとした焦げ付くような痛みを感じた。嫉妬、だったのかもしれない。だが、そんな醜い感情はすぐに「ただのクラスメイトの話だろう」という理性の壁の裏に、無理やり押し込めた。


 それが、破滅へのカウントダウンの始まりの合図だとも知らずに。


 その日、俺は一人で千代崎サーフにいた。


「今日は汐里、友達と勉強会なんだよな」


 そう言って、彼女は今週も釣りの誘いを断った。少し寂しかったが、受験生だ、大事な時期だ。邪魔をしちゃいけない。


 だが、どうにも釣りに集中できなかった。キャストしても、リーリングしても、頭に浮かぶのは汐里のことばかり。最近の彼女の、どこか遠くを見るような瞳。俺ではない、もっときらびやかな何かを見ているような、あの目。


「……ダメだ、帰ろう」


 まだ昼過ぎだったが、俺は早々にロッドを畳んだ。心がここにないと、魚は釣れない。


 車に戻り、ふとポケットのスマートフォンを手に取ると、画面にカレンダーアプリの通知が表示されていた。


『汐里と付き合って3年記念日』


「……そっか、今日だったか」


 俺としたことが、すっかり忘れていた。最近の汐里の態度に気を取られて、一番大事な日を忘れるなんて、最低だ。


 もしかしたら、彼女が不機嫌だったのは、俺がこの日を忘れていると思ったからじゃないだろうか。そうだ、きっとそうだ。


「……よし!」


 俺は釣具屋へ向かうはずだった車のハンドルを切り、駅前の小さなアクセサリーショップに駆け込んだ。汐里が以前、雑誌を見ながら「こういうの、可愛いな」と呟いていた、イルカのモチーフがついたネックレス。幸運にも、同じデザインのものがショーケースに一つだけ残っていた。


 小さな紙袋を助手席に置き、足取りも軽く汐里のアパートへ向かう。


「驚くだろうな。怒ってたのが、これで機嫌直してくれるといいけど」


 そんなことを考えながら、頬が緩むのを抑えられない。彼女の笑顔を想像するだけで、ここ数週間の胸の靄が晴れていくようだった。


 彼女のアパートに着き、ポケットから合鍵を取り出す。インターホンは押さない。最高のサプライズにするんだ。


 そっと音を立てないようにドアを開け、忍び足で中に入る。


「しおりー? 勉強会、終わったかー?」


 小声で呼びかけてみるが、返事はない。


 部屋は静まり返っていた。いつもなら、彼女の好きなアイドルの曲が小さく流れているはずなのに。


 妙な違和感を覚えながら、俺は玄関で靴を脱いだ。


 その時、視界の端に、それがあった。


 見慣れない、一足の靴。


 俺の履き古したスニーカーの隣に、場違いなほど綺麗に並べられた、ブランド物の高そうなレザースニーカー。


 男物だ。


 ……友達って、男もいたのか?


 いや、でも、今日は女子だけで勉強会じゃなかったのか。


 心臓が、どくん、と一つ大きく脈打った。嫌な汗が背中をツーっと伝う。


 リビングを覗くが、誰もいない。テーブルの上には、二人分のグラスが置かれていた。片方のグラスには、飲みかけのオレンジジュース。もう片方には、琥珀色の液体が揺れている。ウイスキーか何かだろうか。


 ……なんだ、これ。


 まさか。


 そんなはず、ない。


 思考が、警報を鳴らしながら空回りする。


 その時だった。


 奥の部屋から、微かな声が聞こえたのは。


 寝室からだ。


「ん……ぁ……っ」


 甘く、蕩けたような声。


 それは、間違いなく汐里の声だった。


 でも、俺が今まで一度も聞いたことのない、熱に浮かされたような……そんな声。


 そして、それに重なるように、低く、知らない男の声が聞こえた。


「……声、でかいって。聞こえんだろ」


 足が、床に縫い付けられたように動かなくなった。


 廊下を進む一歩が、まるで鉛の塊を引きずるように重い。耳元で、自分の心臓の音がガンガンとドラムのように鳴り響いている。


 やめろ。


 見るな。


 今すぐ引き返せ。


 頭の中で理性が叫ぶ。だが、俺の身体は言うことを聞かなかった。まるで、抗えない力で悪夢に引きずり込まれるように、足が勝手に寝室のドアへと向かう。


 ドアは、数センチだけ、開いていた。


 その隙間から漏れる昼下がりの光が、俺を地獄へと誘っていた。


 俺は、息を殺して、その隙間から中を覗き込んでしまった。


 そこは、見慣れた汐里の部屋だった。


 壁には、俺と二人で撮った笑顔の写真が、今この瞬間を嘲笑うかのように飾られている。


 ベッドサイドには、俺が去年の誕生日にプレゼントしたイルカのぬいぐるみが……いや、それは無惨に床に蹴り飛ばされ、虚ろな目で天井を見つめていた。


 そして、ベッドの上。


 シーツがぐちゃぐちゃに乱れたその中央で、二つの影が、一つに重なり合って、蠢いていた。


 一人は、汐里だった。


 俺の、知っているはずの汐里。


 汗で額に張り付いた黒髪。日に焼けた健康的な肌。


 だけど、その表情は、俺のまったく知らないものだった。


 頬を紅潮させ、瞳を潤ませ、苦しそうに、それでいて恍惚とした表情で、天を仰いでいる。


 そして、彼女の上に跨るようにして身体を揺さぶる、もう一人の影。


 日に焼けていない、モデルのように整った顔立ち。


 色素の薄い、洒落た髪。


 汐里が、無邪気に、そして楽しそうに語っていた顔。


 狼谷、怜央。


 衣擦れの音。


 肌と肌がぶつかり合う、生々しく湿った音。


 汐里の、途切れ途切れの喘ぎ声。俺が一番好きだった、あの甘い声が、知らない男の下で、知らない音色を奏でている。


「……っ、れお……くん……、だめ……っ、もう……」


「いいじゃん。気持ちいいんだろ、汐里も」


 男が嘲るように笑い、抵抗するような言葉とは裏腹に、彼の首に回された汐里の腕に力がこもるのが見えた。


 世界から、音が消えた。


 色が、消えた。


 ただ、目の前の光景だけが、悪意に満ちたスローモーション映像のように、網膜に焼き付いて離れない。


 床に散らばる、汐里の制服のブラウスとスカート。


 その隣に無造作に脱ぎ捨てられた、見慣れないスラックス。


 楽しそうにしていた、汐里の笑顔。


 夕日の中で交わした、しょっぱいキス。


 座布団ヒラメを釣って、二人で抱き合ったあの日の喜び。


 俺たちの、全部。


 全部、全部が、音を立てて砕け散り、鋭いガラスの破片となって俺の心臓に突き刺さった。


 カタン。


 俺の手から、力が抜けた。


 汐里へのプレゼントが入った小さな紙袋が、床に落ちて、やけに乾いた音を立てた。


 その小さな物音に、ベッドの上の二つの影が、ピタリと動きを止めた。


 ゆっくりと、こちらを向く。


 最初に、怜央と目が合った。


 彼は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにその口元に、歪んだ笑みを浮かべた。それは、哀れな敗者を見下す、明確な勝利の色を湛えた、悪魔のような笑みだった。


 そして、彼の肩越しに、汐里が俺を見た。


 彼女の瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれる。


 顔から急速に血の気が引いていき、真っ青に染まっていく。


 恍惚の表情は跡形もなく消え失せ、そこにはただ、絶望と、恐怖と、取り返しのつかないことをしでかした人間の、凍りついた顔があった。


「…………あ」


 か細く、震える声が、彼女の唇から漏れた。


 その声を聞いた瞬間、俺の中で何かが、ぷつりと、決定的に切れた。


 何も、考えられない。


 何も、言えない。


 ただ、ここにいてはいけない、と本能が絶叫していた。


 俺は、踵を返した。


 もつれる足を必死に動かし、視界がぐにゃりと歪むのを感じながら、転がるようにしてアパートのドアを開け、外へと飛び出した。


 背後で、汐里が俺の名前を叫ぶ声が聞こえたような気がした。


 でも、もうどうでもよかった。


 冷たい三月の風が、いつの間にか溢れ出ていた涙で濡れた頬を、容赦なく殴りつけていた。

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