第15話 送り出す人のスープ

その報せを、サラは領主館の応接間で兄イリアス本人から聞かされた。


午後の日差しが、石造りの床に斜めの影を落とす静かな空間。


イリアスの前に座るサラの手には、王家の紋章が押された一通の書簡があった。


「……サラン平原・新王家より、婚姻の申し入れだ」


その一言で、室内の空気が少しだけ重くなった。


「政略結婚、ということ?」


「そう言って差し支えない。軍政が倒れ、王政が復古したあの国が、早急に国際的信頼を得たいと考えるのは当然だ。その象徴として、王家の縁者との結びつきを求めている」


サラン平原——かつて小王国が連なっていた土地。


二十年前、軍事クーデターが勃発し、王族は追放された。


以後、軍政が敷かれていたが、最近になって政権が瓦解。民意によって王政が復古され、新たな“暫定王家”が組織されたと噂されていた。


サラは返す言葉を失ったまま、視線を落とした。


「……厨房で火を扱う私が、誰かの政略に」


「お前が築いた火は、食卓だけでなく、街と国の関係すら温められる。……そう、俺は評価している」


その晩、アラベスクに戻ったサラは、厨房の隅で帳面を開いた。


今日の報せ:

・婚姻の申し入れ。

・理由:王政復古に伴う信頼回復の象徴として。

・感情:混乱、恐れ、責任。


料理では、火の調整で味が決まる。

人の心もまた、火をどう扱うかで温度が変わる。


わたしは、どうしたいのか——まだ、わからない。


筆を置いたあとも、サラはしばらく火の前を離れられなかった。


その炎は、問いかけのように揺れていた。


サラは、その夜ほとんど眠れなかった。


目を閉じれば、王家の印章が押された文書の文字が脳裏に浮かび、イリアスの静かな声が繰り返し響いた。


「……お前が築いた火は、食卓だけでなく、街と国の関係すら温められる」


アラベスクの厨房に立っていても、鍋の音が遠く感じた。


スープを煮込む火。

パンを焼くための火。

人を支える、ぬくもりの火。


そのどれもが、今のサラにとって、すこしだけ形を変えていた。


「サラさん、今日は……いつもより味が淡いかも」


レナの声に、サラははっとして顔を上げた。


「ごめん。……気を抜いたつもりはなかったのに」


「……悩んでるんですね」


サラは頷いた。


レナは、そっと湯気の立つ鍋を覗いた。


「サラさんにしか作れない味があるように、サラさんにしか選べない未来もあると思います」


サラは、その言葉に救われるような気がした。


翌日、サラはイリアスに面会を申し入れた。


「王家よりの申し入れ、確かに受け取りました。本日より一週間、自らの意思で判断するための時間をいただけますでしょうか」


イリアスはすぐに「承知した。そなたの選ぶ火が、いかなるものであれ、我が家門として恥じぬものであることを信じている」と返答した。


サラはゆっくりと息を吐いた。


夜、サラは帳面に記した。


・今日のスープ:かぶと麦の煮込み

・火の温度:弱火で、内側からあたためる


・迷いの中でも、火は灯る。

それなら、わたしは迷いながらでも、料理を続けよう。

答えが出るまで——焦がさず、消さず。


その言葉を書いたとき、サラの心の中に、ようやく“静かな空白”が生まれていた。


決意ではない。


でも、そこに火を灯す準備だけは、できていた。


時間は、静かに過ぎていった。


アラベスクの火は変わらず灯り続けていたが、サラの心の奥には、日ごとに静かな緊張が積もっていた。


自分が決めた“猶予の七日間”。


一日一日が、まるで料理の火加減を測るように、ゆっくりと流れていく。


(……私が厨房にこだわる理由は、きっと“誰かの火”を支え続けてきたからだ。だったら……“誰かの国の火”も、同じように支えられるのかもしれない。それが、私の姫としての責任……)




五日目、イリアスがサラの部屋に現れた。


サラは少し驚いたが、すぐに部屋に入るよう促した。


「……悩んでいるか?」


「はい。でも、毎日火を見ていると、答えがすこしずつ輪郭を持ってくる気がします」


イリアスは侍女が出してくれた紅茶の湯気の向こうで頷いた。


「それなら、信じよう。お前の出す答えが、何であっても」


サラは、兄の言葉に小さく微笑んだ。




猶予の六日目の朝だった。


厨房に柔らかな光が差し込むなか、サラはいつになくゆっくりとレナの隣に座った。


「レナ、少しだけ話があるの」


レナはボウルを拭いていた手を止め、真っ直ぐにサラを見つめた。


「……はい。何でしょうか?」


サラは一度だけ息を整えた。


「わたし、本当は……ハルキオン領主家の末の娘。ヴェルナード家の“姫”なの」


レナは瞬きを一度して、それから小さく頷いた。


「……そうだと思ってた」


「え?」


「気づいてたわけじゃないけど、なんとなく。サラさんの仕草や言葉の端々が、貴族のように感じていたから」


サラは少し笑って、目を伏せた。


「……驚かなかった?」


「驚いたよ。でも、わたしにとっては“アラベスクのサラさん”がいちばん大事だから」


サラの喉がきゅっと詰まり、次の言葉を出すまでに時間がかかった。


「……そのわたしに、縁談が来たの。サラン平原の新王家から」


「政略結婚、ってこと?」


「うん。まだ決めたわけじゃない。でも……たぶん、受けると思う」


レナは少しの間、サラの目を見つめて、それから目線を鍋の方へ移した。


「さみしい、です」


「……ごめんね」


「でも、応援する。だって、サラさんの火はきっと“どこに行っても”灯せるって、わたし、知ってるから」


サラは、ようやく堪えていた涙をひとすじだけこぼした。


「ありがとう……」


レナは立ち上がり、スープに香草を足しながら言った。


「今日のまかない、私が仕上げていい?“送り出す人”のスープ、作ってみたいの」


サラはしばらく声が出なかったが、やがてしっかりと頷いた。


「うん。……お願い」




七日目の朝、空はどこまでも澄みわたり、火の温度は穏やかだった。


アラベスクの厨房では、サラが最後の一鍋を仕上げたところだった。


「レナ、今日のまかないは任せてくれる?」


「……うん。いってらっしゃい、サラさん」


サラは、エプロンを静かに外し、深く息を吸い込んでから、領主館へと足を運んだ。


イリアスは書斎で待っていた。


積まれた文書の山、開かれたままの地図。その中央に置かれた椅子に座る兄の姿は、いつも通り静かで、けれどどこか少しだけ構えているようにも見えた。


「来たか」


サラは黙って頷き、扉を静かに閉めた。


「……決まったか」


「はい。……わたし、サラン平原の縁談を、受け入れます」


その言葉を聞いたとき、イリアスの顔にはほとんど表情の変化はなかった。


けれど、机の上で重ねられた彼の指先が、わずかに緩んだ。


「理由は?」


「料理と同じです。誰かのために火を灯す。それが、わたしの生き方だとしたら——国の火を支えることも、その延長にあると思いました」


「それは“献身”ではなく、“選択”として語れるか?」


サラは目を逸らさず、真っすぐに兄を見た。


「はい。わたしが厨房で積み重ねてきた時間は、ただの“下働き”ではなく、“ひとりの意思”の訓練でした」


イリアスは短く頷いた。


「この言葉で、正式な受諾としよう」


サラは小さく頭を下げた。


「ありがとう。……でもひとつだけ、お願いがあります」


「なんだ」


「わたしは、厨房を捨てません。どこに行っても、火の番人として生き続けます」


イリアスはその言葉に、わずかに口元をほぐした。


「それは命じるものではなく、お前自身の“選択”だ。……誇りに思う」


サラはその言葉を胸にしまい、静かに部屋を後にした。


背後で鳴った扉の音は、ひとつの火が“別の場所”に移るための準備の音だった。




縁談受諾の返書が王都へと送られた二週間後、正式な返礼が届いた。


『初回面談の場を、両領地の中間に位置する中継都市「ヴェルスト」にて設けたく存じます』


それは、中立でありながら双方に等しい距離にあることで知られる古い商業都市。


使節団を伴う旅には十日弱を要する計算だった。


領主館では、早くもその準備に向けての動きが始まっていた。


「ドレス、何着か選ばないといけないみたい……」


サラは、衣装見本を広げながら困ったように笑った。


「こういうの、慣れてないから……」


侍女が嬉しそうに目を輝かせた。


「こちら、サラ様によくお似合いになりそうですよ。花蜜の黄色って書いてあります」


「……料理みたいな名前ね」


「ほんとに、本日召し上がられたスープの色に似ていますね」


サラは照れ笑いしながら、布を指先でなぞった。


「料理の火と違って、“自分を飾る”火加減って、すごく難しい……」




出発の朝は、晴れていた。


空はどこまでも青く、風は夏の始まりを告げるように軽やかだった。


サラは薄黄色のドレスに身を包み、領主館の前に整列した一団の中央にいた。


使節団、護衛、従者——そして、きらびやかな装飾が施された馬車。


金細工の紋章、輝く車輪、厚く敷かれた布地の座席。


(これが“姫としての旅”の始まりなんだ)


サラは馬車に乗り込む直前、そっと振り返った。


遠く、アラベスクのある方角を見つめた。


馬車の列が街の通りに入り、やがてアラベスクの前を通るとき——


不思議なことが起きた。


最初に扉を開けたのは、パン屋の老夫婦だった。


次に、仕立て屋の少年。


そのあと、果物屋、鍛冶屋、薬草屋、花売りの子どもたち——


次々に家や店の扉が開き、人々が外に出てきた。


「……あれ?あれって、サラさんじゃないか?」


「姫って……サラさんだったの?」「なんで……そんな格好……?」


ざわめきが起こる中、サラはゆっくりと馬車の窓を開けた。


その顔がはっきりと見えた瞬間——


「サラさん!スープ、忘れられません!」「あなたのパン、大好きでした!」「あのまかない、また食べたい!」


「ありがとう!」「ありがとう!」「ありがとう、サラさん!」


あちこちから飛び交う声。


アラベスクの前に立つレナは、目に涙を浮かべて、小さく手を振った。


サラは馬車の窓辺から、両手で胸元を押さえた。


「……ありがとう、みんな……」


涙がこぼれそうになるのをこらえながら、精一杯微笑んだ。


パレードのように進む馬車の列のなかで、サラの心はあたたかく満ちていた。


(わたしは、“アラベスクのサラ”として、ここを出ていくんだ)


(火を囲んで生きた記憶が、わたしのなかにちゃんと灯っている)




中継都市ヴェルスト。


両領地の境界に位置するその町は、古くから交易の要所として栄えてきた石造りの町だった。


使節団の馬車が城門をくぐり、中央広場にある迎賓館の前に止まったとき、サラの胸は静かにざわついていた。


広場の噴水、見知らぬ言葉が飛び交う市場、屋台の匂い。


どれも初めて訪れるはずなのに、どこか“異国”ではない気がした。


(きっと、ここも誰かが火を守っている町なんだ)


それでも——迎賓館の扉が開かれた瞬間、サラの心に影が差した。


「この扉の向こうに、“わたしの婚約者”がいる」


会う相手の名も、顔も、まだ知らない。


政略結婚とはいえ、まったくの他人と“将来を結ぶ”という現実が、初めて現実味を帯びて迫ってきた。


サラは深く息を吸い、控室の椅子に座った。


鏡のなかの自分を見つめる。


ドレスに包まれた肩、きちんと編まれた髪。


そこにいるのは“姫”としてのサラ・ヴェルナードだった。


(わたしは、ここに“火を届けに来た”はず)


けれど、心の奥の片隅に、どうしても拭いきれない問いが浮かぶ。


(わたしは——トルクのことを、忘れられるのかな)


まかないの香り、並んで立った火の前、乾いた笑い声、皿を拭く背中。


どれもが、心の奥でくすぶっている。


“過去”として終わらせるには、まだ温かすぎる。


“思い出”として片付けるには、火が強すぎる。


控室の扉が、軽くノックされた。


「サラ様、お支度の確認と面談のご案内にまいりました」


サラは立ち上がり、口元に小さな笑みを湛えた。


「……はい。お願いします」


その笑みの奥に、まだ燃え残るものがあっても。


サラは一歩、扉へと向かった。




迎賓館の応接室に案内されたサラは、ひとつ深呼吸をした。


部屋の奥には、すでにひとりの人物が立っていた。


背の高い男。礼装の上着をきちんと着こなしているが、どこか“戦場の名残”を感じさせる肩の構え。


その姿が、サラの視界に入ったとき——


時が止まった。


「……え?」


男もこちらを向き、同じように絶句した。


「……サラ?」


「……トルク……?」


沈黙。


空気が一瞬、どこにも流れなくなった。


「まさか……君が……この縁談の相手だったのか?」


「わたしも、あなたが……」


お互いに声を失ったまま、立ち尽くす。


長い道のりを経て、たどり着いた先で。


まったく知らなかった未来の扉の向こうに——


最もよく知っていた“火の隣人”が立っていた。


先に口を開いたのは、トルクだった。


「……俺、実は昔……サラン平原の王族だったらしい。当時の王の弟の子——つまり、王の甥ってやつだ」


サラは息をのんだ。


「じゃあ……」


「クーデターのとき、侍従たちが俺だけをこっそり連れ出して、孤児院に預けたらしい。王族の血筋を絶やさないようにって」


「……生き延びさせるために」


「そう。俺はそのこと、つい最近まで知らなかった。王政復古のときに家系を洗い直されて……そこで名が出てきて、呼ばれた」


トルクは肩をすくめて笑った。


「なんか、よくある昔話みたいだろ?」


サラは、しばらく黙っていた。


そして小さく笑った。


「……サラって、食堂の子じゃなかったのか?」


「……ええ。ハルキオン領主家の末妹。どうしても厨房に立ちたくて。誰かの“おいしい”のそばで生きたくて、こっそりアラベスクで働いてたの」


トルクはゆっくりと息を吐いた。


「……ずいぶんと、奇妙な再会になったな」


「でも、たぶんこれが“火の縁”なんだと思う」


ふたりは、ようやく笑った。


笑って、呆れて、そして——どこか少しだけ、胸が熱くなるような再会だった。


「これが、料理の神様のイタズラか、運命の鍋か……」


「……じゃあ、まずは一緒に“火加減”を確かめるところからね」


トルクは静かに頷いた。


「うん。焦がさず、でも火を絶やさずにな」


ふたりは見つめ合いながら、再び同じ“火の輪”のなかに立った。


それは、政治の駒でも、偶然のいたずらでもない。


自分たちで選びなおす“再会の火”だった。

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