第5話 台風の目はこの世で一番危険な目

「はぁ〜……」


「珍しいな、朝からそんな大きな溜息吐いて。大前の次は、今度は雪でも降るのか?」


 今日、朝練が休みらしい神崎君はほぼ僕とほぼ同じタイミングで着席するなり話しかけてきた。


「確かに珍しいかもね。僕が他人に対して、こんな露骨に感情を表現するなんて」


 特に、溜め息や苛立ちみたいな負の感情は人の視線を集めやすい。無関心を貫く僕にあるまじきとは思いつつも、流石に堪えるのは難しい心境だった。


「……何があった?」


「財布を失くした」


「財布を? 零が?」


 神崎君は心底驚いているらしく、二度三度目を泳がせてから、神妙そうに目を細め……。


「雪どころか蜥蜴や蛙が降ってきてもおかしくねえよ」


 と、声を潜めながらも、その声量に反したとんでもない爆撃音のしそうな追撃を喰らわしてきた。


 想像するだけでゾッとする恐怖感が背筋を駆け巡るも、とにかく平静を装って苦笑いに返答する。


「日本でそれはあり得ないかもしれないけれど、珍しさって意味では違いないかもね」


「声が震えてるぞ」


「き、気のせいだよ……」


 海外では台風がやってきた結果、蜥蜴や蛙のような生物が降ってくることがあると聞く。まるで地獄のような光景だ、向こうの人はどうやって生活をしているのか。


 ああ、変なことを思い出したら余計に恐ろしくなってきた。少し気分も悪い。


「そういや、お前って爬虫類とか昆虫とか苦手だよな」


「苦手じゃない。大嫌いだ」


 そう、僕はああいう足が何本もあったり、体表がヌメヌメしてたり、急に翼を広げて飛んだりする生物が大嫌いなのだ。

 

 だから、もしもそんなことが起これば失神しかねないし、今はそれと同じくらい最悪の気分と言える。


「何があった? 話、聞いてやろうか?」


「神崎君がそう言うのって、結構珍しいね」


「零の前ではな。他の奴が相手なら、普通に相談聞いたりするさ。で、どうする?」


「……まあ、神崎君なら大丈夫か」


 財布を失くしたショックが自分でも相当大きかったのか、普段はしない身の上話をからにしてしまった。


 車に轢かれそうになった子供を助けたこと、その時に財布を投げ出してしまったこと、気づいた時には大雨かつ夜中で回収不可能だったことを簡潔に。


「それで? 失くした場所には行ったのか?」


「朝食前、朝イチで行ったよ。けど、無かったんだ」


「交番は?」


「最寄りに行ったけど、届いてなかった」


「なるほどな。盗まれたってことか」


「うん。幸い、その日はキャッシュカードとかは入れてなかったけど。今月分の食費がパーになった」


「そりゃ、ご愁傷様だな。昼食くらいなら分けてやるから落ち込むな」


「ありがとう。恩に着るよ」


「零からそんな言葉を聞くことになるとは、相当重症だな。それで? 財布はどうする?」


「うーん、届け出は出したけど見つからないと思うよ。盗んだ人からすれば、学生の持ってるお小遣いなんて端金だろうけどさ。それでも、お金はお金だし。それに、返す気があるなら交番に届けてるって」


「それもそうか。残念だったな」


「本当に、その通りだよ」


 神崎君は無言で自分のバックを漁ると、ひょいと目の前に小さな牛乳パックを差し出してきた。どうやら、彼なりに慰めてくれているらしい。


「ありがとう。今日のところは、遠慮なく貰っておこうかな」


「おう」


 早速ストローを突っ込んで飲んだ牛乳は、どこにでもありふれた味の牛乳だった。それを知ったことで根拠のない安心感が生まれて、やっと日常に戻ってきたかのような錯覚にすら陥っていた。


 そう、油断してしまっていたのだ。そのまま何事もなく一日を終えられるなんて思っていたばかりに、初動が遅れてしまった。


 昼休み、学校一のマドンナこと白銀様が僕の目の前に現れたことで。

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