第4話 他人にとっては柄でもなくても、僕にとっては違うかもしれない
「全く、神崎君と来たら本当に迷惑な……」
学校の帰り道、僕は一人先ほどの嫌な出来事を思い出しながら、とぼとぼ歩いていた。
帰りのHRが終わり、ようやく帰れると鞄を持ったところで彼に止められた。その理由は、明日の化学の小テストで助けてほしいという理由からだった。
今日の六限目は化学で、その担当の先生が実はサッカー部の顧問も兼ねている。つまり、神崎君はその先生から大層目をかけられているのだ。
そして、授業終わりの際には明日の小テストで満点を取れなかった暁には満点取るまで帰れまてんという罰ゲームを喰らうことになったらしく。その対抗策として、僕に小テスト対策の任務を押し付けてきたのだ。
迷惑千万、お陰でスマホの時計は18:00を示しており、既に日も傾きかけて……いると思う。何せ、今にも降り出しそうな天気だからだ。
「何か、買って帰るかな。というか、お金持ってたっけ」
僕は左ポケットから財布を取り出して、現在の所持金確認した。
お札は一枚一枚丁寧に財布の中を覗き込んで確認し、小銭は掌に乗せて感触を確かめる。ひー、ふー、みー…四千五百円くらいか。
まあ、これなら食べるには困らないはずだ。スーパーにでも寄って、今週末までの献立でも考えて……。
歩き慣れた道だったので、この先には確か横断歩道があったなと思いふと顔を上げた。
横断歩道の白線の上には、幼稚園か小学一年生くらいの小さなポニーテールを引っさげた女の子がいた。彼女は嬉しそうにボールを拾い、無邪気な笑顔を浮かべて大事そう抱きしめている。
この光景だけなら、見ていた微笑ましい日常の一コマくらいにしか思わない。
けど僕は、考えるよりも先に走り出していた。大事なはずの財布を放り出し、とにかく全力で彼女に向かって走り出す。
遠くから聞こえるゴムの擦れるような音の連続体は、記憶に照らし合わせれば体の奥底が沸騰するかのような不快感をもたらすほどに最悪の和音だ。
このまま波が引いてくれれば良かったけど、残念ながら予感は当たっていた。それも、最悪の予感だった。
僕が横断歩道へ足をかけるのと同時に、視界の右端から白い一対のフラッシュライトが猛スピードで迫ってくる。連続体は途切れることなく、むしろ隙間を埋めるように密度を増して巨大な質量と共に突っ込んでくる。
「間に合ええええええ!」
鳴り響くクラクションの音と自分の声、果たしてどちらの音が聞こえていたのか分からないくらい頭に血が昇っていた。女の子を素早く抱きかかえ、自分の身など省みず腕の中の少女を守りながら転がった。
上下左右も分からない中、ようやく止まってくれたのは、すぐ目の前にあった公園の外周に設けられた塀のお陰だった。
心臓の音が煩く、息も絶え絶え。腕の中の子供が無事なのかもまだ分からない。
耳鳴りが酷い。まるで大雨の中、傘もささずに人混みの横断歩道を渡っているかのような耳障りな雑音だ。
ともかく、まずは深呼吸をして冷静になり、次に腕の中にいる女の子の様子を確かめる。腕や足に少しばかり傷を負わせてしまったけれど、顔などの大事な部分は無事らしかった。
彼女は不安そうにこちらを見て、肩をびくつかせた。まだ怯えているのだろう。
それが僕に対してなのは明白だったけれど、ここで叫ばれても困るのでらしからぬ優しい声音とやらで話しかけた。
「大丈夫? どこか、痛いところはない?」
「……うん。大丈夫。お兄ちゃん、は大丈夫?」
「平気だよ、この通り。無事で良かった。それはそうと、起き上がりたいから立てるなら立って欲しいな。立てそう?」
「平気。ありがと」
彼女が起き上がったので、僕も何とか痛みを堪えながら起き上がった。
その時だ。向こうからタッタッという忙しない足音が向かってきたのは。
「真那!」
彼女は滑り込むようにしゃがんで女の子を抱きしめると、目の端から涙を流していた。
「ごめんなさい! 私が目を離したばっかりに、あなたを危険な目に遭わせて! 本当にごめんなさい!」
「お姉ちゃん、ごめんなさい……。心配、かけて……。ごめんなしゃい……」
トラックが高速で迫ってきたら、大人だって怖いに決まってる。僕だって怖いと感じるのに、幼い子が怖くないはずがない。
きっと、安心したら泣きたくなってしまったのだろう。そういうのは、よく分かる。
僕は二人の感動の再会を邪魔するわけにもいかず、そのまま立ち去ろうと背を向け……。
「待って。あなた、私の可愛い妹を助けてくれたでしょ。お礼がまだよ」
僕は背を向けていたけれど、流石にこのままでは失礼かと思ってもう一度振り向いた。
「これくらい、どうってことはない。目を離したって言ってたけど、喧嘩でもしたのかな?」
いつもなら絶対に聞かないようなことだけど、この時だけはどうしても聞いておきたいと思った。何故なら、答えの如何によってはらしくないことを言わなきゃいけなかったからだ。
「その、実はお母さんから電話がかかってきて。ちょっと待っててって言って少し目を離した隙にいなくなっちゃってて……」
「目を離した隙に、か。子供ならあり得ることだね。危うく、轢かれるところだったよ」
「本当にごめんなさい。そして、ありがとう。私、お陰で世界一大事な宝物を失わずに済んだわ」
そう答えながら涙を拭う彼女の目元に、さっきまで無かったはずの黒い模様がうっすらと浮かび上がっていた。私服のようだけれど、足元をよく見ると輪郭も描かれている模様もチグハグな靴下を履いているし、どう見ても寝不足で疲れている様子だった。
どれだけ注意していても、寝不足で注意力が散漫になっていたら小さなミスもするだろう。けれど、それが取り返しのつかない事故につながるところでもあった。
「まあ、小さな子の面倒を見るのは大変だよね。でも、それでその子が大怪我をしたら? もし、死んじゃってたら? 後悔しても、もう遅いんだ」
「それは、その……」
彼女は俯いて、黙ってしまった。より深く罪の意識を感じさせようと思ってわざと言ったのだけれど、少しやり過ぎたか。
「勘違いしないで欲しい。責めるつもりはない。でも、失ったものは戻らないんだ」
僕はそれを、誰に向けて言ったのだろう。目の前にいる人間でなければ、一体誰に向かってそんな大層知ったような口を開くのか。
……これ以上は止めよう。
僕は一呼吸置いてから、なるべく柔らかい笑みを浮かべて言葉を吐いた。
「ともかく、今後は気をつけて。いつでも助けられるわけでもないからね」
僕は一歩距離を詰め、小さな女の子の前でしゃがんで小さな頭に僕の手を添えた。
「いいかい、もうお姉ちゃんから離れちゃダメだ。お兄さんとの約束。真那ちゃんは良い子だから、できるよね?」
「……うん。約束する!」
「よし」
僕は立ち上がり、彼女らに背を向けて歩き出した。後ろから「待って! まだお礼をしてないわよ!」と叫んでいるのが聞こえたけれど、お礼なんてされたら無関心を極めた僕の美学に反してしまう。
今は、一刻も早く立ち去らなければ。そう思って、むしろ駆け足になって家の方角へと向かった。
……そういえば、あの声どこかで聞いたことあるような? どこだったか?
そうして帰った頃には雨が降り出していて、先ほどの一幕も雨水と一緒に頭の中から薄れかかっていた。
確かに衝撃的な出来事だったけれど、体のところどころに痛みを感じる以外は至って普通だからだ。
これも明日になれば普通の日常に戻るのだから、僕にはもう関係ないことなのだ。
「すっかり忘れてたけど、買い物に行かないと……ね?」
そう思って何となく左ポケットを探るも、あるはずのものがない。そこで、ようやく思い至った。
「そう言えばあの時、財布を放り出したんだっけ……」
外は大雨、しかも真夜中。落とした場所がはっきりしているとはいえ、あんな事故を経験したばかりの僕は流石に取りに行く気にはなれなかった。
「前言撤回。この事故のことは、暫く忘れられなそうだ」
案の定、食材は切らしてしまっていたので、僕は致し方なくカップ麺を啜ることで晩御飯を済ました。
そのカップ麺からは何故か、鉄の鈍い味と、ほんの少し苦いような味わいを感じ取ったのは気のせいではないのかもしれなかった。
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