第8話 正義と犠牲

 真帆は都庁地下の記録保管庫にいた。

 それは、制度発足前――代理自殺制度がまだ「特例処置」と呼ばれていた時期の、わずか数件の記録を保管する場所だった。


 “試験的実施”

 として非公開で運用されていた、最初期の事例。

 その中に――真帆の妹・茜の名前があった。


 


 保管ファイルには、極めて簡素な記録が残されていた。


■記録番号:00-0002

■対象者:日向 茜(ひなた・あかね)

■年齢:17歳

■代理対象者:匿名希望(女性・40代・希死念慮強)

■経緯:被申請者の意向により、日向茜が自発的に同意。報酬辞退。

■実施方法:鎮静薬投与後、意識下での「死の可視化」セッションを経て心停止。

■備考:倫理審査非承認。記録凍結。


 


 倫理審査非承認。記録凍結―



 目の前が白くなった。


 


 茜は、制度の成立前に――実験として“誰にも知られず”、死んでいた。

 本来なら実施できなかった“非合法な死”として。


 


「……なぜ、こんなことを……」


 


 真帆の記憶の中で、茜はいつも笑っていた。

 小さな頃、アイスのスプーンを投げてきた。

 高校生になっても、部屋でボソボソと歌を歌っていた。

 そしてある日突然、机の上に一通の手紙を置いて、消えた。


 


「姉ちゃんは、ちゃんと生きて。

あたしは、ここまででいいから。

誰かに使ってもらえるって、幸せなことだと思うよ?」


 


 それが、最後の言葉だった。


 


 彼女は、自分の命を“譲渡”したのだ。

 制度という名の枠すらなかった時代に、“価値のある死”を演じることで。


 


 ――死は、贈与であってはならない。


 真帆はそう信じていた。

 それなのに。

 妹の死が、“誰かの生の補強材”に使われていたとしたら。


 


「……ふざけないで」


 唇が震えた。


「そんな死の、どこが“正義”なのよ……!」


 


 足元がぐらつく。


 「制度」は、妹の死を隠すために設計されたのではないか?

 “死ぬことを許容する仕組み”が、すでに存在していたからこそ、あの女たちは笑っていたのでは?


 佐伯京子も、日向茜も、そして――岸本響も。


 


 自分の中の「正義」が、崩れていく。


 姉としての、職員としての、たった一つ残っていた“信じる軸”が、音を立てて折れる。


 


***


 


 そのころ、佐伯京子は“部屋”を準備していた。


 都内の築年数の古いマンション。ひとつの部屋が、ほぼ“舞台装置”として設えられている。


 カメラ。マイク。スピーカー。薄く張られた鏡。


 床には、無数の小さな女児用スニーカーが並べられていた。


 壁には、小さな掌型の血のスタンプが。


 


「ここが、“終わらせる場所”。」


 そう呟いた京子の声は、静かだった。


 


 彼女にとって、これは正義ではない。救済でもない。

 これは“演出”であり、“証明”だった。


 響という存在に、「あの子の顔をかぶせて」――

 そしてその死をもって、“被害者の時間を止める”のだ。


 


「あなたが、“あの子”じゃなくても構わない。

 でも、“あの子に似た顔”が死ぬことで、私の人生が閉じるの」


 


 その言葉に、誰も答えなかった。


 


***


 


 夜。

 真帆はアパートの風呂場で、鏡の前に立っていた。


 水滴が頬を伝う。

 それが涙かどうかも、もう分からなかった。


 


 ふと、スマホの通知が震えた。


【メッセージ受信:岸本響】


「日向さん。

明日、佐伯さんに会いに行きます。

最後に、どうしても確かめたいことがあるんです」


 


 真帆の指が、画面を強く握り締めた。


 


 明日、何かが終わる。

 でも、それは本当に“響の意思”なのか――それとも、他人に書かれた“脚本”なのか。


 


 真帆は決めた。


 


 儀式の現場に、自分も行く。

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