第5話 過去の記録
夜。
都庁の端末室には、真帆のタイピング音だけが鳴っていた。
“職務外アクセス”――本来、禁止されている操作だった。
だが、あの女の言葉が頭から離れない。
「あなた……“あの子の過去”、気づいてるんじゃない?」
響の戸籍は確かに存在している。けれど、何かが「後から埋められた」ような不自然さがある。
義務教育記録、接種履歴、写真付きの生徒名簿。どれもあるにはあるが、“輪郭”だけが整っていて、中身は希薄だった。
(……作られてる)
真帆の直感だった。
何かが隠されている、ではない。“最初から無かった”ことにされている過去がある。
まるで彼の存在自体が否定されているように。
彼の小学校以前の記録――住所、世帯構成、親権者――全てが、「都内某児童養護施設」という曖昧な記述で止まっている。
そこから先に進もうとすると、“保護者からの公開拒否”のフラグが立ち、アクセスはロックされる。
「……保護者?」
真帆は小さく声に出していた。
岸本響の“保護者”とは、いったい誰なのか。
たったひとつだけ、アクセスできる項目が残っていた。
【施設職員記録:面談ログ 2017年8月】
それは、響が中学に上がる直前、施設の職員によって記録された“一件のみ”のカウンセリングログだった。
真帆は画面を開く。
記録は簡潔だった。だが、冷たく鋭い針のような一言が記されていた。
「本人に対し、過去の記憶に触れる会話を行うと、身体的過反応が顕著。
特に『名前』『学校』『女の子』といった語に反応し、過呼吸および手指の痙攣を訴える。
外部刺激による記憶の逆流が懸念されるため、トラウマ性解離と判断し、以降は再問診を控える」
読み終えた瞬間、背中に寒気が走った。
彼は、自分が誰だったかを“知らない”のではない。
思い出すと壊れるほど、深い記憶を持っているのだ。
そしてその記憶の中に――“女の子”がいる。
被害者か、友人か、それとも。
ガラス窓の向こう、夜の新宿のビル群が歪んで見えた。真帆の鼓動が速くなる。
***
一方その頃。
ネットカフェの個室で、岸本響は天井を見つめていた。
部屋の中は薄暗く、冷房の送風音だけが耳に残る。
小さな液晶テレビでは、バラエティ番組が流れていたが、彼の目は映像を見ていない。
――また夢を見た。
音がしない、ぬるい、灰色の夢だった。
カーテンの向こうに誰かが立っていて、声を出そうとしても、喉が凍りついている夢。
胸元の皮膚を指でなぞると、点字のように細い線がいくつも浮いている。
かつて刃物で刻んだ傷。
誰にも見せたことはない。
けれど、時折そこが疼くとき、自分の“生きてきた証拠”のように思えて、少し安心する。
「……もう少しで、ちゃんと終われるのにな」
そう呟いた響の声は、どこか安堵すら含んでいた。
ふと、スマホが震えた。画面を見ると、見知らぬメールアドレスから一通のメッセージ。
件名:お役に立てて、うれしいです。
本文:
「あなたは選ばれた。
これは贖罪ではなく、“儀式”です。
すべて、終わらせてくれることに感謝します。」
発信者名はなかった。だが、誰からの言葉か――響は理解していた。
佐伯京子。
彼女は、儀式を始めている。
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