月の浜の妖怪伝承:補遺
以下は東京大獣害で倒壊した月奏寺の残骸から発見された、ビデオカメラ映像の書き起こしである。カメラの経年劣化から、おそらく天保以前に撮影されたものと推定されている。
【状況説明】
畳張りの部屋の中でカメラの前に正座した男性に対し、カメラの持ち手がインタビューを行っている。
男性は冒頭で「徳田さん」とカメラの持ち手に呼ばれているため、以下「徳田」と表記する。
カメラの持ち手は、以下「撮影者」と呼称する。
◆
撮影者「それでは徳田さん、あの海で見たものについて教えていただけますか?」
徳田「はぁ。かしこまりまして候。とはいえ、なんと言ったものか。そうですな……拙者が見たのは、水死人でした。狂って溺れ死んだ男の成れの果て、なのでござろう」
撮影者「その男はなぜ、狂って死んでしまったのですか?」
徳田「さぁ。人が狂う理由などそれぞれでしょう。なぜ狂ったかと探求すれば理由らしきものは見つかりましょうが、それはそれほど意味があるものには思えませぬ。そもそも、狂うた狂うたという側が正気の保障もありますまい」
撮影者「それもそうですね。そもそも、このような場を設けていただいている時点で徳田殿も正気ではないのですし」
徳田「左様。故に拙者が語ることができるのはあの水死人は狂って死んだということのみでござるよ」
撮影者「では、質問を変えます。その水死者の生前を、徳田殿は知っているのですか?」
徳田「うむ。長次郎という絵師でござった。元は江戸で探幽に師事していたとのことであったが、3年ほど前からこの地に流れ着いたのだ。多少卑屈なところはあったが、野良仕事の手伝いなどして駄賃をもらっては、月の浜の様子を絵に描いておった」
撮影者「絵師、ですか。以前1人、旅の僧が死んだという話は聞いておりましたが」
徳田「ああ、そんなこともありもうしたな。そのものは確か、思いを寄せていた稚児を師に寝取られて身投げをしたのでござるよ。確か旅の僧ではなく、月奏寺の門下だったはずでござるよ。仏門に入っても、愛欲とは縁が切れんらしい」
撮影者「ああ、ではあの浜では少なくとも2人が身を投げているのですね」
徳田「ん?まぁ、2人以上は身を投げておろうが……ある意味では立地も良いでござるしな。されど、長次郎は海に身を投げて死んだわけではござらんよ」
撮影者「しかし、溺死と」
徳田「場所は二馬憩の方の安宿でしてな。タライに顔を突っ込んで死んでいたらしい。タライの中に溜まっていたのは、水ではなく馬の小便であったらしいが」
一瞬、徳田の顔にノイズが走る。
撮影者「屋内で、ですか」
徳田「左様。長次郎には親類縁者も居らず、日見々坂の辺りにある小さな寺で無縁仏として弔われたのでござる。遺書が残っておってなぁ、なんでも江戸で絵師の修行をしていたものの、色の扱いがなっていないとこっぴどく言われ、逃げ帰ってきたのだそうでござる。それで月の浜の美しい情景を描くことができれば師も認めてくれようと砂や貝殻を砕いて絵の具に使っていたようだが、思ったようにはいかなかったらしい」
撮影者「それで心を病んで、と」
徳田「左様にございましょうな。それから少しして、月の浜のあたりで長次郎を見たというものが絶えぬようになりもうした」
徳田が数秒沈黙する。
撮影者「徳田さん?」
徳田「あいすまぬ。少々考えておりもうした。ええ、それでですな……拙者自身はそのような噂は特に気に留めてはおらなんだ。無論知ってはいたし、故にあまり月の浜のあたりに寄ろうとも思っておりませんでしたが……その日は、そうさな、気づけば…とでも申しましょうか」
撮影者「月の浜のあたりを歩いていたと?」
徳田「左様。赤作という馴染みの漁師が海に落ちて死んだばかりであったから、何か思うところがあったのかも知れませぬな。月の浜の砂は全て人の骨のように白く、夏も冷たい。足が沈むとひやりとして、なんとも心地が良かった」
撮影者「その時に、見たんですね」
徳田「左様にござる。するとな、月の浜には枝ぶりの見事な松の木があるのでござるが、そこで女が1人首を吊っておりもうした」
撮影者「その人が……」
徳田「いえいえ、これは単に女でござる。夜鷹であろうか?顔が唐瘡で酷く爛れておった。全身油まみれでなぁ。これは下ろしてやらねば可哀想だと思うて、木に登ったところ、すうっと海の中から何かが登っていくのが見える」
撮影者「水面から、という理解でよろしいでしょうか?」
徳田「問題ござらん。ぼんやりと青く光っておって、その表面がゆらめいておる。拙者はそれよく見ようと身を乗り出した。するとそれは、拙者に近づくように大きくなった」
撮影者「それが…」
徳田「その丸いものは、水面でござった。ゆらゆらとゆらめく丸い水面。そこに長次郎の顔がぬっと突き出して、酷く苦しげにしておった」
撮影者「その、つまりタライの底から水の中に顔を突っ込んだ長次郎さんを見上げたような様子、でしょうか?」
徳田「左様左様。おっしゃる通りにござるよ。拙者はそれを見ながら、なるほど長次郎はこのように苦しんで死んだのかと思った。少しして、海からまた丸いものが浮き出してくる。一つや二つではない。三十はあったはずだ。それはいずれも水面であった。丸い入れ物の底から、水に顔を突っ込んで溺れる人間を見上げたような水面の虚像、あるいは実像であったのかもしれんが、そんなものがびっしりと月の浜の空を覆っている」
撮影者「……素晴らしい」
徳田「そうでござるか?拙者には気色の悪い情景にしか見えなんだ。幼い頃、毛むくじゃらの猿のような人間の子どものような生き物が踊りを踊っては、あちこちの国の子どもに呼びかけるような、そんな芝居を見たことがある。その芝居の中に、赤ん坊の顔がついた太陽が出る場面があってな、幼い拙者はそれが怖かったのでござる。あれは、歌舞伎だったか、それとも……」
撮影者「その話はまた後日としましょう。それに似ていた、ということですよね?」
徳田「左様。よく似ていた。だが、着いているのは赤ん坊ではなく、長次郎だ。いや、長次郎の顔だと思っていたそれは、徐々に顔を変え、さまざまな老若男女の顔が浮かんでいた」
撮影者「面白いですね。どのくらいの年代に顔が多かったのですか?」
徳田「正確には言えませぬが、子どもは少なかったように思いまする。そうさな、三、四十ばかりの齢の女性が二十ほどであったか」
猫の声が入る
徳田「おお、玉か。おいでおいで」
襖が開く。何もいない。
撮影者「飼っていらっしゃるんですか?」
徳田「いえいえ、近所の野良でしてな。一度餌付けしてから我が物顔で入ってくるようになったのでござるよ。なー、玉?」
徳田が何もいない空間を撫でるような死ぶりをする。
猫の鳴き声。
撮影者「撫でながらで結構ですので、お話の続きをお聞かせ願えますか?」
徳田「これは失敬。やがてどの水面に映っていた顔も、だらりと表情が緩み動かなくなっていきもうした。死んだのでしょう。みな、濁った目をして、ただひたすら、髪を揺らしておりました。拙者はあまりに気味が悪くて、よろめいた拍子に松の木から落ちてしまいもうしてな。恥ずかしながら気絶してしまいもうしたのです」
猫の鳴き声。
撮影者「椿の木の女の死体はどうなったのですか?」
猫の鳴き声。
徳田「これもよくわからんのでござる。拙者が目を離すと松の木からはだいぶ離れたところに寝かされておりましてな。あの女の死体のことを思い出して木の方に行くと、何者かが火を放ったのか、死体共々焼け落ちておりました」
猫の鳴き声。
撮影者「なるほど、結局女の身元は分からなかったのですね?」
猫の鳴き声。
徳田「いえいえ、拙者が焼けた木と女を見た数刻後、どちらも忽然と姿を消しましてな。同じ女の水死体が、海から流れてきもうした。顔は奇妙にのっぺらぼうになっておりましたが、身につけていたお守りから足取り川で足を滑らせて死んだ“いよ”という女であるとわかりもうして。親族に引き渡し、先祖代々の墓に入れて弔ったとのことでござるよ」
猫の鳴き声。
撮影者「どちらも、ということは松の木もですか?」
猫の鳴き声。
徳田「左様。そちらは二馬憩のとある宿の庭で、突然現れたとのことでござる」
猫の鳴き声。
撮影者「なんとも、因果の見えない話ですね」
猫の鳴き声。
徳田「そうさな。因果を求めて整理しようとすれば、際限なく意味のわからぬ話ではござります。ですから拙者も、もう、外には出られぬのです」
猫の鳴き声。
撮影者「あの、一つよろしいでしょうか?」
徳田「なんでござるか?」
撮影者「長次郎の話と、海に身を投げた僧侶の話を混ぜて他の人々に語ってもよろしいでしょうか?他の話も、いくつかの別の話と混ぜて、整理させていただくような形で」
徳田「それは構わぬが……貴殿はそれで良いのでござるか?」
撮影者「はい。先に泡座頭という名前は決めているのですが、先ほど聞いた話の中でも美しい色を出せずに死んだ、という動機と空いっぱいの水死者という情景は素晴らしかったです。せっかくですしその色に関しても脚色してみます。例えば、師匠に色使いについて否定された、では弱いので“存在しない色”を再現しようとしていたとか!」
徳田「ふむ、まぁ好きになされよ。されど……泡座頭でござるか。ちと安易ではござらんか?」
撮影者「安易?」
徳田「泡座頭、というのはアザトホートの捩りでござろう?今時なんでもかんでもクトゥルフ由来というのも、ひねりがござらんように思えまするが……」
カメラが後退し、和室風のセットが用意された撮影スタジオが映る。
スタジオには徳田と撮影者の他にも、20代前半と思わしき男女が数人いる。
撮影者「アドバイスありがとうございます。一応クトゥルフ以外のネタもあるので、一辺倒にはならないはずです」
徳田「ああいや、こちらの方こそ不躾な物言いでござった。申し訳ない」
猫の鳴き声。
徳田「では、次の予定が押しておりますゆえ、失礼仕る」
猫の鳴き声。
徳田が立ち上がり、セットを出る。
ひとりひとりに挨拶をしてドアに手をかける徳田。
男女の中から「お疲れでーす」「演技良かったです!」と言った声が聞こえる。
猫の鳴き声。
撮影者の元に女性が1人駆け寄る、ペットボトル入りのコーラを差し出す。
女性「お疲れ様です。大武さん」
撮影者「ああ、ありがとう」
撮影者は女性からコーラを受け取って女性を突き飛ばす。
女性は薄い紙に印刷されており、ひらひらと舞っていく。
他の男女の全て等身大の写真パネルであり、バタバタと倒れていく。
猫の鳴き声。
「お疲れ様でーす」「演技良かったです!」と繰り返すスマートフォンを撮影者が停止する。
撮影者がスタジオ全体を引きで撮影する位置まで下がり、静止する。
スタジオの壁が四方に向けて倒れる。
スタジオの外には真っ白い砂浜が広がっている。
月の浜である。
徳田は呆然と立ち尽くしている。
空は夜である。しかし太陽が浮かんでいる。
老人の顔をつけた太陽が浮かんでいて、呼吸器をくわえ、サージカルテープで固定している。
撮影者「全部作り事みたいなメタオチの方が時代遅れですよ」
空から無数の水死体が降り注ぎ、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が流れる。
撮影者「そもそも、テキストとして記述された時点で虚実の差異は存在しません。それらは等しく、“書かれた情報”に過ぎないからです」
海から巨大な蛇にようなものが顔を出し、猫にそっくりな声で鳴く。
撮影者「この土地は、もっと面白くなりますよ」
水死体たちが拍手している。
撮影者は海へと入っていき、水に触れる。
立ち上がってコーラを取り出す。中身を海に捨てると、空のペットボトルをレジ袋に入れて口を縛り海に捨てる。
一斉に三味線と琴の音色が響く。
空にも海にも人間の眼球では視認不可能な色が折り重なって輝いている。
太陽が明滅する。
太陽が明滅する。
太陽が焼け落ちる。
太陽が落下して海水が溢れ出す。
大波が発生し、撮影者が飲み込まれる。
画面外で徳田が絶叫するが、江戸時代に音声再生機器はないので、その声は聞こえない。
◆
本資料の貸し出し及び書き起こしを許可してくださった⚫︎民俗資料館の任崎館長に改めて御礼申し上げます。
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