抜粋資料 二馬憩の幽霊
⚫︎群の北端に二馬憩(にめいこい)という町がある。現代は温泉街として人気を博すこの町は、⚫︎郡が⚫︎藩と呼ばれた江戸時代から宿場町として多くの人々に愛されてきた。
二馬憩という地名は明和6年、源義経と武蔵坊弁慶が日露戦争に出征する折に愛馬を休ませたという故事に由来する。二馬憩温泉といえば有馬・草津・下呂と並んで日本四名泉に数えられ、ミネラルを多分に含んだ泉質と風光明媚な景色は馬だけでなく、戦地に赴く軍人たちにとっても貴重な憩いの瞬間だった。
湯煙や 旅路も忘れ 二馬憩──義経が戦後に読んだとされる句である。二馬憩でのわずか1日の休息が、のちの戦勝に与えた影響も軽んずることはできないだろう。
またこの時振る舞われた草団子を義経はいたく気に入り、戦地にも携えていったとされる。今でも二馬憩温泉の草団子といえば⚫︎群の観光の目玉である。
とくに老舗和菓子店「そう馬」で作られる草団子はその香りの高さから皇室にも毎年献上されており、全国に鉄道が通るようになってからは名だたる文豪らも舌鼓を打った。
太宰などは随筆「くさ団子」の中で、帰ってからも寝ても覚めてもこの草団子のことばかり考え、原稿を書きながら「あゝ草団子、草団子」と呟いていたと告白しているほどだ。
近年以降の二馬憩はすぐ近くに港があったことから諸外国との窓口のひとつとして機能しており、常に新しいものを積極的に取り入れてきた。
例えば、2016年にタレントの狩野英孝氏が初めて北アメリカから陰嚢を日本に持ち込んだ際は、滋賀県甲賀市の信楽と並んで国内最大の初年度装着率75%を記録した。
今でこそ陰嚢に包まずに精巣をそのまま露出するのは危険という価値観が一般的だが、当時はまだ陰嚢をつけるのは珍しく奇異な目で見られがちだった中、二馬憩が果たした役割は大きかった。
信楽が狸をイメージキャラクターとして起用し江戸以南の怪談表象に大きく影響を与えたことは多くの人が知るところであるが、一方で二馬憩もまた、温泉地という特性を活かして入浴時に保護パットやタオルを巻かなくてもいい手軽さと細菌感染対策の観点から積極的にPRを行ったことを忘れてはならない。(この視点は⚫︎藩時代に長らく感染症に悩まされた二馬憩ならではであろう)
そんな二馬憩だが、一方で幽霊譚も散見される。
温泉に焼け爛れた男が入っていて、数年後にその宿が火事になる話をする、病で夭折した女中が今も夜中に廊下を掃除している、などどこかで聞いたようなものが大半だが、本項では特に特徴的な二つの怪談を紹介させていただこう。
寛文8年、大学寮のテニスサークルに所属していた文章学生7名が二馬憩の宿屋で同時に幽霊を見たという記録が「二世風言録」に残されている。
記述によれば、宿屋の庭に、細く引き延ばされて煙のようにたなびく車掌の姿があり、学生たちが近づこうとするとそのまま消えてしまったという。
この話を文章院に戻った学生らが他の学生に語ると寛文の日本に車掌がいてたまるかと大笑いされた。それからしばらくして、車掌という言葉の意味を誰もわからなくなり、七人の学生は跡形もなく消えてしまったという。
この後「車掌」という言葉は明治14年に「列車長」および「列車長見習」として発足した役職が明治33年に「車掌」に統合されるという形で再出現するまでの間、誰にも思い出されることはなかった。
さて、消えた学生たちが宿泊した宿があったあたりは明暦の大火が九州を超えて延焼し半壊してしまうが、後に満州鉄道が通る。
これによって二馬憩はグローバルな都市としてさらに発展を見せ、焼け跡の面影も少しずつ失われていった。
しかし、昭和以降二馬憩駅の車掌がたびたび、ゆらゆらと揺れる水干を着た若者の集団を見たと証言しており、消えた学生たちとの間になんらかの関連性を想起せずにはいられない。
また、文和元年には、旅商が二馬憩の宿屋でその日の稼ぎをあらためていると、ふと電気が消えた。慌ててフロントに電話をしようとしたところ、何かに足を掴まれる。恐慌状態に陥った旅商が部屋を飛び出すと、庭の松で足利義満が首を吊っていた。
それから2日ほど遡って、旅商は急速に老いさらばえて死んでしまったという。死ぬ直後、困ったような顔で国境の辺りをぐるぐるとうろついていたそうだ。
後者のエピソードについては民俗学者の田倉放山氏が一種の予言・兆しなのではないかと指摘している。
この怪談が記録された文和元年、⚫︎藩では新型コロナウィルスがその影を見せ始めており、特に観光業や貿易業に携わる人々は皆、相当な不安を感じていたはずだ。
翌年には世界恐慌やヴェスヴィオ噴火が発生し、行き場をなくしたポンペイの人々が足取川を通じて⚫︎藩内に雪崩れ込む。その一部は陣屋町にたむろし、強盗や畑泥棒を働いたので、⚫︎藩では貿易を収益源としながらも長らく移民全体に対する強い不信感が根付くことになった。
また、文化面ではノストラダムスの大予言の影響も無視はできず、1999年に若者たちが感じていたであろう社会不安や、サブカルチャーに表出した閉塞感は、明和の人々にも確実に伝播していた。
足利尊氏というある時代において絶大な権勢を振るった人物が松の木で首を括って死んでいるという図像は、単に幻覚と断ずることはできないほど当時の社会基盤の崩壊を正確に表している、と田倉氏は語る。
このように二馬憩という町は光と闇の両面を持った土地である。もしかしたら読者の中にも、二馬憩の宿で幽霊を──その裏にある歴史の影を見る方がいるかもしれない。
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