第2章 ノックの音④

卓球部の部室は、体育館の裏手にある、少し古びた棟にあった。

 男女共用のため、更衣室も兼ねているが、人数が少ないこの部ではそれでなんとかなっていた。

 練習前は、自然と時間をずらしたり、着替えが不要な服装で来たりと、それぞれが気を遣ってやりくりしている。

 未来は扉を開け、引き出しからラケットケースを取り出した。

 中にはラバーの匂いが染みついていて、ほんの少しだけ汗とホコリのにおいも混じっている。

 荷物を所定の棚に置くと、モップを手に取り、床を軽く拭いてから隣の体育館へと足を向けた。

 扉の先からはすでにボールの打球音が聞こえてくる。

 窓から差し込む西日が、卓球台の上に淡い光と影の模様を描いていた。

 「じゃあ、いつもの通り三本勝負で!」

 軽い口調の声に応じて、部員たちがラケットを手に取り始める。

 ポン、ポン、と軽快なラリー音が部屋に響いた。

 その音は、未来にとって安心できるものだった。リズムが整っていて、落ち着く。

 その響きの中で、未来はようやく「ここにいていい」と思えるようになる。

 ——でも。

 耳を澄ませば、そのリズムはどこか緩かった。

 打球が台から外れる音、打ち損じたラリーのたびに、冗談交じりの声が飛ぶ。

 「……またアウト。タイミング合ってなさすぎ」

 「サーブ甘いって、今の絶対返されるやつだよー」

 笑い声はある。けれどその笑いの奥には、少しだけ“あきらめ”が混じっていた。

 部内の雰囲気は穏やかだが、どこか覇気に欠けている。

 勝ち負けにこだわるより、“今日も楽しくやろう”という空気が色濃かった。

 かつて、白凰の女子卓球部は中学時代、神宮寺咲を中心に団体で全国まで進んだ。

 だが、当時の主力メンバーはほとんどが別の道に進み、今も卓球を続けているのは1年の岡部優菜、たった一人。

 彼女は今、部で一番の実力者であり、未来にとっても憧れの存在だった。

 けれど、咲がいた頃の空気とは明らかに違う。

 競技としての熱も、目指すものも、どこか輪郭がぼやけているようだった

 未来は掃除用のモップを引き出しから取り出し、床を拭いていった。

 誰に言われたわけでもない。いつもの習慣だった。

 黙々と作業するのは得意だ。でも今日は、なぜか床の埃がやけに気になった。

 (……このままじゃ、変わらない)

 そんな思いが胸の奥にひっかかる。けれど、口に出せるほどの自信はない。

 自分はまだ実力も中途半端な、ただの部員だ。言える立場じゃない。

 でも——。

 「神宮寺、どうだった?」

 背後からかけられた声に、未来は思わず手を止めた。

 振り返ると、部室の入り口に顧問の大沼が立っていた。腕を組み、こちらを見ている。

 「……ダメでした。やっぱり、興味なさそうで……」

 正直に答えると、大沼は小さく息をついた。

 言葉を選ぶように、少しだけ間を置いてから口を開く。

 「まあ、そう簡単には動かんだろうな。——あいつは一度決めたら固い」

 その言葉に、未来は小さく頷いた。

 それでも、自分が間違っていたとは思えなかった。たとえ一歩でも、今日の自分は、昨日より前に進んでいた

 ラケットの打球音が、また少しズレたリズムで部屋に反響した。未来はモップを止め、静かにその音を聞いていた。

 体育館の隅にある倉庫にモップを戻した未来は、汗をぬぐいながら小さくため息をついた。

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