第2章 ノックの音③
咲の背中が、ゆっくりと教室の出口へと遠ざかっていく。
未来は動けなかった。手を伸ばすことも、声をかけ直すこともできない。ただ、その背中を目で追いながら、自分の中に生まれた静かな喪失感を飲み込むしかなかった。
断られることは覚悟していた。それでも、どこかで“何か”が起きることを期待していた自分がいた。目を合わせてくれるとか、少しでも表情が揺れるとか、言葉の最後にためらいがあるとか——そういう、ささやかな兆しを探していた。
(……なに期待してたんだろ)
未来は自嘲気味に笑いそうになって、それすら喉の奥で止めた。
咲は一度も振り返らなかった。その歩幅は終始変わらず、感情の一切を背中に預けたまま、教室の外へ消えていった。潔いほどの無関心。未来の言葉は、まるで壁にぶつかって跳ね返っただけのようだった。
教室の中では、相変わらず私語や雑音が続いていた。それでも、どこか視線の一部がこちらに向けられている気配もあった。だが、未来にはもう周囲の音が届いていなかった。時間の止まった空間に、たった一人取り残されたような感覚だけが残っていた。
(あの人に届く言葉なんて、本当にあるのかな……)
机に置きっぱなしの鞄を取りに戻りながら、未来は窓の外に視線を向けた。咲の姿はもう見えない。太陽の光が校舎の壁に当たり、淡く揺れていた。
足元が少しふらついた。けれど、その感覚を無理やり押し込めて、未来は深く呼吸をした。
まだ、なにも始まっていない。
そう思いながらも、胸のどこかでは、小さな痛みがしこりのように残っていた。
咲の姿が完全に教室から消えて、未来は小さく息を吐いた。
立ち尽くしたまま、視線を落とす。足元には自分の影が、春の午後の光に溶けるように伸びていた。教室のざわめきはまだどこか遠くで続いているけれど、その一角だけ、時間が少し止まっているようだった。
「興味ないか……そりゃ、そうだよね」
口にしてみて、思ったよりも声が落ち着いていたことに少し驚く。
咲の反応は冷たかった。でも、それは想定の範囲内だったはずだ。未来はわかっていた。誰よりも遠くに立っているあの人に、たった一度の会話で届くなんて、都合が良すぎる。
それでも、ほんの少しだけ——何かが変わる可能性を、期待してしまっていた。
(でも……あれが全部じゃない)
未来はそう思った。咲の声、目線、立ち去るときの背中。あれほど何も感じさせない態度なのに、不思議と心には何かが残っていた。無関心、とは違った。むしろ、あれはどこか“自分を押し殺している”ようにも見えた。
「もうちょっと、頑張ってみるか」
誰に言うでもなく呟いて、未来は笑った。肩の力が少し抜けた気がした。
鞄を手に取り、教室の出口へ向かう。廊下に出れば、部活へ向かう生徒たちの足音が軽やかに響いている。未来も、そろそろ動き出す時間だ。
(今度は、どうやって声かけようかな)
すでに次の作戦を考え始めている自分に、少しだけ呆れる。だけど、それが未来らしさなのだと、自分でも思う。
簡単には届かない。だから、挑む価値がある。教室のドアが閉まり、未来の背中に陽が差し込んだ。
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