第30話 関ヶ原の胎動、歴史の揺らぎ

慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死は、天下に静かな、しかし確実な波紋を広げた。弟・小一郎秀長の遺志を継ぎ、平和な内政に力を注いだ秀吉の晩年のおかげで、すぐに大規模な戦乱が起こることはなかった。しかし、天下を治める「楔」であった秀吉と小一郎という二つの巨星を失った豊臣政権は、次第にその重心を失っていく。


小一郎が生前に秀吉に遺した「未来の知識」は、秀吉の行動を確かに変え、慶長の役を断念させ、国内の安定に貢献した。その影響で、史実よりも日本の国力は温存され、民の疲弊も少なかった。だが、その知識の源泉は、秀吉の死とともに深奥に秘匿され、もはや活用されることはなかった。小一郎が直接的に介入できない世界で、歴史は再びその本来の軌跡を取り戻そうとしていたのだ。


秀吉の死後、豊臣政臣の間では、穏やかな権力闘争が始まった。五大老の筆頭である徳川家康は、秀吉の生前は忠実な家臣を装っていたが、その野心は隠しようがなかった。小一郎が生きている間に家康との関係をより強固にし、あるいはその台頭を事前に防ぐ手が打たれていたならば、歴史は変わったかもしれない。しかし、もはや小一郎はいない。


家康は、秀吉が築いた太平の世の裏で、着々と自らの勢力を拡大していった。他の五大老や奉行たちは、家康の動きに警戒を強めるが、秀吉と小一郎という圧倒的な求心力を失った豊臣家には、彼を抑えるほどの強いリーダーシップが欠けていた。秀吉が後継者として育てた豊臣秀頼はまだ幼く、その母である淀殿が政治に深く関与することで、家中の亀裂は深まっていった。


小一郎が残した「未来の知識」は、秀吉の晩年に大きな影響を与え、慶長の役を断念させた。このことは、日本の歴史において大きな「揺らぎ」を生じさせていた。史実の関ヶ原の戦いが起こる直接の原因となった朝鮮出兵がないため、大名たちの関係性や疲弊度合いは、史実とは微妙に異なっていた。しかし、家康の野心と、豊臣家中の内部分裂という根本的な問題は、依然として存在していた。


小一郎が変えた歴史の歯車は、太平へと向かっていたはずだった。だが、彼の死後、その影響力は次第に薄れ、人の欲と権力への執着が、再び歴史を動かし始めたのだ。遠く中村郷から始まった兄弟の物語は、秀吉の死とともに、新たな局面を迎えることとなる。


豊臣家と徳川家の対立は、日を追うごとに鮮明になっていった。それは、やがて来るべき、天下を二分する大戦の、静かなる胎動であった。小一郎が望んだ太平の世は、脆くも崩れ去ろうとしていた。彼の遺した知恵と願いは、一時的に歴史の流れを変えたものの、それを守り続ける者がいなくなった時、歴史は再び、その冷酷な法則に従って動かざるを得なかったのだ。この時、関ヶ原の戦いの火種が、すでに各地でくすぶり始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る