第23話 残された遺志、そして変わる未来

天正十四年(1586年)に弟・小一郎秀長が病に倒れ、天正十三年(1591年)にその生涯を閉じてから、秀吉の心には、ぽっかりと穴が開いたかのような空虚感が広がっていた。天下を統一し、栄華の絶頂にあった秀吉だったが、その心は満たされることがなかった。これまで、どんな時も冷静に、そして的確に自分を支えてくれた弟の不在は、秀吉の行動に微妙な変化をもたらしていった。


秀吉は、小一郎が生前残した膨大な書物と、彼が書き記した奇妙な記録を、何度も読み返した。そこには、この時代の人間には理解できないような、「未来」の言葉や図形が満ち溢れていた。最初は意味不明だと感じていたそれらの記述も、今となっては、小一郎が語った数々の奇跡と結びつき、秀吉の脳裏に、弟が本当に未来から来たのかもしれないという、漠然とした、しかし確かな疑念を抱かせた。


特に秀吉の心に強く残ったのは、小一郎が繰り返し訴えていた「海を越えての争いは避けるべきだ」という言葉だった。小一郎は、その言葉を口にするたびに、いつも深い悲しみを帯びた目をしていたことを、秀吉は今でも鮮明に覚えていた。弟は、なぜそこまで強く、大陸への野望を戒めていたのか? その問いは、秀吉の心の中で、次第に大きな重みを持つようになっていった。


「小一郎…お前は、この先、何が起こるかを知っていたというのか…?」


秀吉は、弟の残した記録の中に、未来の戦の悲惨さや、無益な争いがもたらす膨大な犠牲について示唆する記述があることを見出した。そこには、この時代の誰もが考えもしないような、世界全体が繋がり、争いが波及していく様子が描かれていた。秀吉は、自身の朝鮮出兵の計画が、弟が危惧していた「無用な争い」に他ならないのではないかと、深く考えるようになった。


秀吉の心の中で、小一郎の遺志が、ゆっくりと、しかし確実に影響を及ぼし始めていた。彼は、朝鮮出兵の準備を進めながらも、以前のような盲目的な熱意が薄れているのを感じていた。家臣たちとの軍議でも、以前は即断即決だった秀吉が、しばしば沈思黙考する場面が増えた。


小一郎が残した知識は、単なる未来の予言に留まらなかった。それは、秀吉という一人の人間が、自身の野望と、弟が残した平和への願いの間で葛藤するきっかけとなった。秀吉は、小一郎の死後、彼が語っていた「人々の暮らしを豊かにする政治」へと、より一層力を入れるようになった。太閤検地や刀狩令の徹底は、小一郎が目指した民の安定と平和への基盤作りでもあった。


小一郎の死は、秀吉の行動を、史実とは異なる方向へと導き始めていた。未来のタイムトラベラーが残した「遺志」は、兄の人生の舵を、わずかだが確実に、良い方向へと切り替えようとしていたのだ。秀吉は、弟の面影を追いながら、真の太平とは何かを、深く問い直すようになっていた。

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