第22話 秀吉の悲嘆、そして空虚な孤独
天正十三年(1591年)一月。弟・小一郎秀長の死の報は、秀吉の心を深く抉った。天下統一を目前にしたその絶頂期に、最も頼りとし、最も深く信頼していた片腕を失った喪失感は、計り知れないほど大きかった。聚楽第の華やかな栄華も、この時ばかりは色を失って見えた。
「小一郎…お前まで、わしを置いていくのか…」
秀吉は、まるで魂が抜けたかのように、ただ呆然と弟の位牌を見つめていた。彼の人生において、小一郎は単なる血縁者ではなかった。貧しい中村郷の農家から、信長の草履取り、そして天下人へと駆け上がっていく壮絶な道のり。その全ての局面で、常に秀吉の影として、時には知恵袋として、時には冷静な諫言者として、小一郎は存在し続けた。
秀吉は、小一郎が語った数々の奇妙な知識を思い出した。墨俣一夜城の効率的な築城法。金ヶ崎の退き口での的確な状況判断。長篠の戦いにおける火縄銃の運用術。安土城の革新的な構造。そして、何よりも、本能寺の変後の「中国大返し」を可能にした周到な準備。それらすべてが、小一郎の言葉から生まれたものだった。秀吉は、自分自身の才覚と運だけでは、決して成し得なかったであろう偉業の数々を、弟が陰で支えてくれていたことを、今さらながら痛感したのだ。
小一郎の死は、秀吉の心を支配していた強固な自信に、ひび割れを生じさせた。これまで、どんな困難も乗り越えられると信じていた秀吉だったが、弟の存在は、彼にとって無意識のうちに絶対的な安心感を与えていたのだ。その安心感が失われた今、秀吉の心には、ぽっかりと空いたような孤独感が広がる。
「お前が、止めてくれるはずだったのにな…」
秀吉は、小一郎が病に倒れる直前まで、しきりに「海を越えての争いは避けるべきだ」と訴えていたことを思い出していた。あの時は、天下統一の熱狂と、自身の野望に目が眩み、弟の言葉に真剣に耳を傾けなかった。しかし、今となっては、それが小一郎の、そして未来の弟・ヒデナガの、最後の、そして最も重要な忠告であったことを、秀吉は漠然と感じ取っていた。
小一郎が残した膨大な書物や、彼が書き記した奇妙な図面は、秀吉の心を揺り動かした。そこには、未来の知識の断片と、兄への深い愛情、そして日本の太平を願う弟の「遺志」が記されていた。秀吉は、それらの記録を読み返し、弟の真の偉大さを改めて知ることになる。
しかし、秀吉に残された時間は、もう長くはなかった。そして、小一郎の死によって、彼の行動を唯一諫めることができた存在が失われたことで、秀吉の制御不能な野望は、加速していくことになる。天下の覇者は、かけがえのない片腕を失い、空虚な孤独の中で、破滅への道を歩み始めることとなるのだ。この時、史実の歯車は、小一郎という楔を失い、悲劇的な方向へと動き始めていた。
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