第9話 マスターの修羅場




仕事に行く悠と別れ、少し街をぶらついて買い物を済ませる。


家に帰り、リアルタイムで流されているBloom周辺のカメラの映像を開いて眺めた。


マスターが、開店準備のためだろうか、Bloomへと向かう道を歩いている。

そこにヒールを履いた女性が現れ、マスターに話しかけたかと思うと――


パシンッ!


その手で彼の頬を勢いよく叩いた。


女はそのまま駆け出していき、マスターは髪をかきあげながら憔悴した顔で立ち尽くしていた。



「これ、修羅場? ぷ…ぷくく…」



その面白い映像に、しばらく笑いが止まらなかった。










「マスター、やっほー」



Bloomが開店する時間を見計らって店に入り、満面の笑みで声をかける。


マスターはグラスを拭く手を止め、じとっとした目で私を見返した。



「なんか気味の悪い笑い方してるね」


「なっ、失礼っ」



ムスッと頬を膨らませてからカウンター席に座る。今日は平日だし、お客さんは少ない。



メニューに目を落とす。

いつも頼んでいる“オリジナルカクテル”の欄。


一番上とその下は、たしか前に飲んだやつだよね。

じゃあ、この――



「『エル・ディアブロ・ムーン』って、どんなの?」


「テキーラとカシスリキュールがベースだよ。そこにジンジャービアが少し。ほんのりスパイシーで、秋っぽい味」


ふむ、と頷く。


「上二つは春と夏をイメージしてるんでしょ? で、一番下は冬……。ってなると、これだけ季節感なくない?」


「……見てなよ」


マスターがロンググラスを取り出し、静かにシェイクを始める。

テキーラの深みある香りが立ち、カシスの甘さが重なり、

注がれた液体は――ブラウンから赤への、美しいグラデーション。


「わあ……綺麗。これ、紅葉?」


「そうそう。ぽいでしょ?」


「うん!」



マスターは最後に冷凍庫からタッパーを取り出し、黄色い氷菓子のようなものを乗せた。


これ、三日月だ。



「可愛い!」



紅葉の木の下で、お月見してるってことかな?


感動して、パシャパシャと写真を撮る。



「喜んで貰えて良かったよ」


「このメニューマスターが考えたの?」


「そうだよ」


「マスターって意外とロマンチックなんだね」


「褒め言葉って捉えておくよ?」



ドリンクを受け取って一口飲んでから、マスターを見てニヤッと笑う。



「マスターってさぞ、モテそうだよね〜〜」


「……なんだよその気持ち悪い顔」


「き、きも…っ!? ひどい!」



慌てて手鏡を取り出し、メイクが崩れていないかを確認。変装メイクは今日も完璧。おかしな所はない。



「ククッ」



マスターの噛み殺したような笑い声にはっと我に返り、彼を睨みつける。



「嵌められた」


「いや、なんも嵌めてないけど? 美咲ちゃん、顔のことに敏感なんだね」


「……そりゃ一応メイクが趣味なんだもん」



メイクひとつで素顔と全然違う顔にしてるのに、どこか変だったら大問題だ。



「そうじゃなくて…っ、マスターがモテるのかどうかって話」


「急になに? 別にモテないよ」


「うそだー。私、マスターが女の人と街歩いてるの見たよ?」



私が見たのはマスターが叩かれている場面だけだけど、そんなはったりをかましてみる。マスターは気まずそうに黙って視線を泳がせた。


心当たりあるんだ。


いつもニコニコと飄々としている彼のその珍しい表情に一気にテンションが上がる。


私の情報屋としての好奇心がムクムクと湧いてきた。



「……すごい楽しそうにするじゃん」


「え、え〜??? 別に、マスターの恋愛事情聞いても全然楽しくないよ? 楽しくないけど、しょうがないから聞いてあげる」


「誰も話すなんて言ってないよ。別に、恋愛でも何でもないし」


「ふふっ、遊びなんだー? ホスト上がりのバーテンダーだもん。絶対女泣かせだよ」


「そんなんじゃないんだよホントに。……ていうか、そういう美咲ちゃんはどうなんだ」


「私…?」


「今どきの女の子なんだし、浮いた話の一つや二つあるだろ?」



マスターがゆらっとそう首を傾げて、私は、う…っと話を逸らされたことに項垂れる。


そりゃあ、普通の子だったらあるかもしれないけど……。



「ないよ私はっ」


「好きな人も? 困ってるなら、俺が恋愛相談乗ってあげようか?」


「いらない〜〜。マスターの女泣かせの話が聞きたい〜〜〜〜〜」



睨み合い、バチバチと火花を散らしていると、カランとお客さんが入ってきた。マスターはすぐにそちらに視線を向ける。



「いらっしゃい」


「こんにちは、マスター。あ、美咲」


「美月!」



彼女の姿に驚きながら声をかける。美月も驚いたように私を見ると、私の隣に座った。


「楽しそうね」


「……そう見える?」


マスターとの軽口を、美月のその一言でさらりと片付けられて、なんだか複雑な気持ちになる。


「このお店、順調?」


「おかげさまでね」


「ふふ、よかった。じゃあ、あたしは……ジンベースの甘いやつ、適当に作ってくれる?」


「オーケー」


にっこりと微笑む彼女に、思わず目が釘付けになる。


か、かっこいい……。


メニューを凝視してキャッキャしていた自分がちょっと恥ずかしくなる。


「愛梨は元気?」


「ええ。もう退院したわ」


「それで……あの人とは……」


気になって、つい聞いてしまう。美月はふふんと得意げに笑い、カウンターに肘をついた。


「愛梨も美咲も、あたしのこと舐めてもらっちゃ困るな」


「……え?」


「愛梨と谷川雅紀の交際なんて、隠そうと思えばいくらでも隠蔽できる。昨日、父さんに掛け合ってきたわ」


「えっ……」


思わず目を見開く。


そ、そんなに!? お嬢様とは聞いてたけど、美月の家って……そんな力があるの?


灰狼町どころじゃない。芸能界まで通じてるなんて……。


そういえば、美月の苗字って「須藤」だったよね……?


須藤……スドウ……スドウ……


ま、まさか……!


「もしかして、美月のお父さんって……政治家とかやってたりする?」


「よく分かったわね。正確には祖父が国会議員よ。父は会社を経営してるの」


間違いない。国会議員の須藤紀文――あの大物だ。


しかも聞いた話では、この辺の飲食店は美月の父がほぼ仕切ってるって……。完全に、地元のボスじゃん……!


「よ、良かった……愛梨とあの人、幸せになってほしかったから……」


「そうね。私たちも、二人のことは前から応援してたし」


「み、美月も、なんか悩みとかあったら……私でよかったら相談乗るから……!」


「ふふ、ありがとう。今回の件もあるし、あたしは美咲のこと信用してるよ」


その笑顔に、少しだけ心が安らぐ。


でも――"あたしは"。


その言い方だと、海桜の方はまだ私のことを疑ってるんだろうな……。


「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」


「あ、うん。私も」


少し話し込んでから、ふたりで席を立つ。


「美月って、お酒強いんだね……」


伝票を見て驚く。カクテルだけで二万円オーバー……。


私は一杯だけだったのに……。


「美咲とマスターと喋ってたら、楽しくて飲みすぎちゃったかも」


そう笑う彼女は、少し酔っているようで、いつもの凛とした目元がわずかにとろんとしている。


「気をつけて帰りなよ。美咲ちゃんはタクシー呼ぶ?」


「お願い、マスター」


「ちょっと待っててね」


マスターが電話をかけてくれる。


……あ、そういえば、マスターとあの女の人の関係、結局聞きそびれたな。


恋人……か。




「ねぇ美月」


「何?」


「悠とニンファーのみんなは幼なじみなんでしょ?」


「そうよ」


「こういうの聞かれるの嫌かもしれないけど…悠とニンファーの誰かって付き合ってたりしないの?」


「え…?」



美月は瞬時に表情を消して、目を見開いた。そうして直ぐに、「してないよ」と首を振る。



「悠も他の皆も、兄妹みたいな感じなのよ」


「へ〜そうなんだ。良いね、そういうの」


「ええ」




―――やっぱりなんかあるな。



それが5人目と関係あるかわからないが、探って見る価値はありそう。まあでも内容が内容だけに、嗅ぎ回りすぎると嫌に思われるかも。



「もしかして美咲ちゃん、悠のこと気になってるの?」



電話を終えたマスターがカウンターに身を乗り出し、ニヤッと笑ってそう言った。



「あ、え…? そういうこと?」



美月もはっと気がついたような表情をして私を見る。



「なっ…違うよ!」



しまった…! このマスターの嫌な顔。さっきの仕返しをされる。



「あ、タクシー来た! 美月帰ろう!」



美月の腕を掴んで、マスターに何か言われる前にBloomを出た。




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