第7話 村瀬愛梨3


《愛梨 side》



――彼が楽しそうに仕事の話をするのを、隣で聞いているのが、何よりも好きだった。


マサくんと出会ったのは、高校二年のとき。

美月のパパのコネで、憧れていたアクション映画の出演者だけが集まるパーティに参加させてもらった。そのとき、彼に出会った。


私も柔道をやっていたから、アクションには興味があった。でも、彼の動きは次元が違った。しなやかで、迫力があって、美しかった。――あの瞬間、一目で心を奪われた。


彼は当時、まだ役者見習いだった。

でも努力家で、着実に評価されていって、やがては大きな仕事も任されるようになった。


私のことも大切にしてくれた。同棲はしていなかったけれど、私がいつでも来られるようにと、マンションの一室を買ってくれた。


私はいつも、彼の稽古をそっと見守っていた。


「今度、憧れの先輩と共演することになったんだ。愛梨も観てくれるか?」


「もちろんだよっ! 映画公開されたら最前列で観に行くんだから! 頑張ってね」


彼がはにかんで笑う。私も思わず笑ってしまう。

あの時間が、何より幸せだった。本当に、本当に、彼のことが大好きだった。


でも――


『特集! 人気俳優T、犯罪歴のある女性と交際か』


そんな記事が出て、マサくんがずっと憧れていた先輩俳優は、バッシングを受けた。


予定されていた共演は中止になり、マサくんは降板。

その後、仕事も激減して、ついには役者を辞めてしまった。


「なんで……! この人、何も悪くないのに!」


「仕方ねぇよ。俺らの世界は、イメージが全てだからな」


そう呟いたマサくんの顔。――諦めの表情。

それを見るのが、私は心底つらかった。


なんで、怒らないの。

なんで、悔しがらないの。


あんなに、あの人と演じるのを楽しみにしてたのに。



私は、ニンファーの敷地で絡んできた不良を、無意識のうちに殴っていた。

彼らが倒れていくのを見つめながら、自分の手を見下ろす。


……私、女なのに、こんなことしてる。


一方、今のマサくんは注目の的。

人気絶頂で、メディアにも持ち上げられているけど、その裏では彼を金儲けのネタにしようと、記者やライターが周囲を嗅ぎ回っていた。


私のもとにも取材が来た。まだ関係はバレていないけど、この生活を続けていれば、時間の問題だった。


――こんな私が、彼の“彼女”だと知られたら……


「大丈夫なの?」と私が訊ねたとき、彼は笑って言った。


『そうなったらなったで、まあ、仕方ねぇよ』


「……距離、置いた方がいいんじゃないかな」


そう言った私に、彼はいつものように笑って見せた。


その笑顔が、悔しかった。あまりにも、悔しくて。



「やっぱり、私たち……別れた方がいいと思うの」


「またその話かよ。だから、俺のことは気にしなくていいって言ってるだろ」


「でも……」


「お前が俺のこと嫌いにならない限り、絶対に別れないからな」


最近は、そんな言い合いばかりだった。

それでも、マサくんは私を愛してくれていた。優しく引き止めてくれていた。


でも――


『貴方、灰狼町の人間ですよね?』


あの日。マンションから出た私を、彼のマネージャーの女性が待ち伏せしていた。


『雅紀の近くにいないで。邪魔だから』


彼女は淡々と、告げた。


記者たちはすでに、私のことを嗅ぎつけ始めていた。

業界にも噂が広まりつつあると、彼女は言った。


『家庭環境も悪く、大学もまともに行っていない。不良とつるんで喧嘩ざんまい。そんな子が雅紀の彼女だなんてバレたら、雅紀は一瞬で終わるわ』


私は、灰狼町から離れて暮らすことも考えた。

でも――私の過去も、家族も、美月たちのことも、全部捨てることなんてできなかった。


そして――もう、限界だった。



「……好きな人、できたの」


「……は? 嘘つくなよ」


「嘘じゃない。……マサくんのこと、もう嫌いになった」


本当はそんなこと、一度も思ったことなんかないのに。


私はそう言って、泣きそうな顔を隠すように、彼の元から走り去った。







少し、眠っていた。


目を覚ますと、傍らに美咲が座っていて、今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。私は瞬きをして、ぼんやりと尋ねる。


「……美咲、また来てくれたの?」


「……」


黙ったまま、じっと私を見つめる美咲。その表情に、違和感を覚える。最初に会った時は、大人びていて何を考えているかわからない人だと思った。けれど今は、感情がすべて顔に出ていて、年相応に見える。


彼女は何かを言いかけては飲み込み、唇をぎゅっと噛んだ。やがて、意を決したように口を開いた。


「私……前に“彼氏いたことある”って言ったけど……」


「……うん」


「それ、半分嘘で、半分本当で……」


彼女は、何か怖いものを思い出しているような顔をしていた。言葉を絞り出すようにして続ける。


「私は、その人が大嫌いだった。怖くて、逃げ出したかった」


「美咲……」


「実際に、全部捨てて逃げてきた。だけど、それ以来――人に大事にされることも、大事にしたいと思うことも、全部いらないって……思ってる」


そう言った美咲の顔が、ふっと歪んだ。


「ごめんね……ニンファーに入ったばかりなのに、こんな話……」


「ううん、いいよ。続けて?」


「……だから、わかってるの。こんなの、ただの押し付けって。でも――」


美咲の目に、見る見るうちに涙が浮かび、それがほんの一瞬、青く光ったように見えた。


「――心から大切に思える人と、離れないでほしいの」


「お願い、愛梨……」


そう懇願するように泣く美咲の背中を、私は慌てて撫でた。


どうしてここまで泣くのか、正直、よくわからなかった。私とマサくんのことを、マサくんから聞いたんだろう。でも、出会って間もない私たちの関係が終わることで、美咲がこんなに苦しむ理由が、まだ理解できなかった。


けれど――このまま私が頷かなければ、美咲はどこか遠くへ行ってしまいそうで。


「わ、わかったよ……。ちゃんと、マサくんと話してみる。だから、泣かないで?」


私もなんだか泣けてきてしまって、一緒になってハンカチを目元に押し当てていた。


美咲は安心したように、涙声で「ありがとう」と言った。



マサくんのマンションへ向かうと、後ろを歩く美咲が戸惑ったように言った。


「私も来ちゃっていいの……?」


「うん。私だけだとまた弱気になっちゃいそうだから……美咲にもいてほしいの」


インターホンを押すと、カメラ越しに私だと気づいたのか、マサくんは表情を変えずに扉を開け、私たちを迎え入れた。


「……マサくん、ごめん。好きな人ができたなんて嘘だった。マサくんのこと、嫌いなんかじゃない。むしろ、すごく好きで……でも、マサくんの邪魔になりたくなかったの」


向かい合って座って、私はそう素直に言った。


マサくんは、ふっと微笑んだ。


「知ってるよ」


「……っ」


それだけで、決壊しそうになる。もう泣かないって決めていたのに。


「迷惑じゃないって言っても、不満か?」


「だって……もし私の存在がバレて、マサくんが仕事を失っても、『仕方ねぇ』って笑うでしょ」


「そりゃ、仕方ねぇことは仕方ねぇって言うだろ」


「だめだよ、そんなの! マサくんが演技してる時、いちばん輝いてるんだよ?」


「なんだよ。役者じゃなくなった俺には興味ねぇのか?」


「そ、そんなわけない! でも……私のせいで、マサくんが好きなことできなくなるなんて……」


「――愛梨。勘違いすんなよ」


マサくんは真顔で私を睨んだ。


「俺はな、お前が不良のバカどもを殴り飛ばしてる姿が、好きなんだよ」


「……へっ?」


「初めて見た時から思ってた。10人くらい相手にして、全部ぶっ飛ばしてるお前見て、こんなかっこいい女がいるのかって」


「……」


「俺のために、自分の生き方を変えるなんてしてほしくねぇ。でも……お前の隣にはいたい。だったら、仕事なんかやめたっていい」


「それは……絶対ダメ!」


「だから言わなかったんだよ。怒られるってわかってたからな」


腹が立つ。私のこんな生き方が“かっこいい”だなんて。


でも、彼が心からそう言ってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。


「私……マサくんのこと、大好きだよ」


「知ってるよ。焦って離れようとしなくていい。記者に何か探られたからって、すぐに仕事がなくなるって決まったわけじゃねぇ」


彼はそう言って近づき、私の涙を指でぬぐうと、そっと抱きしめてくれた。


――何も解決はしていない。


あのマネージャーには、また何か言われるかもしれない。報道される日も近いだろう。


それでも。


こんなにもまっすぐに愛してくれる彼の隣に、私はもう一度立ちたいと思った。









マンションから少し歩いたところで振り返る。


二人の話しているところを見るのが辛くて、黙って出てきてしまった。


だけど、ほっとする。何とか誤解だけは解けたようだ。



それにしても、



「私、何やってるんだろうな……」


病室に行ったときは、愛梨を励ますつもりだった。

必要なら背中を押して、もし彼と別れた方がいいと判断したら、ちゃんと慰めてあげようって、そんなふうに考えていたはずなのに。


実際に彼女を目の前にしたら、口から出たのは支離滅裂な言葉と、自分の気持ちの押しつけ。


おまけに、あの人との過去まで口にしちゃって……私、本当にどうかしてる。


「……疲れた。帰って寝ようかな……」


独り言のように呟いて、重たい足を引きずるように家路につく。


そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。

画面を見ると、見覚えのある番号。


眉をひそめながらも、私はその電話に出た。



言われた場所に向かうと、彼はすぐに「悪かった」と頭を下げた。


「……謝って済むと思ってるの? 菊池くん」


冷えた声で返しながら、黙って頭を下げ続ける彼を見下ろす。


「悪かった……。宮瀬さんには“あいつらは俺の親戚だ”って伝えてたのに、まさかあんなことになるとは……」


「それで、あれが私たちだってバレた?」


「いや、太刀川さんはクスリが嫌いだから、宮瀬さんが勝手に売人たちと組んでたんだ。店も半壊だし、大事にしたくねぇってことで、あの件は“なかったこと”になってる」


「……勝手だね」


「言い返す言葉もねぇよ」


苦々しげな顔で言う彼に、私はふいと視線を逸らした。

これ以上話すこともなさそうだし、帰ろうとして踵を返す――と、その手首を彼が掴んだ。


「待ってくれ。あのことは……」


必死な表情で、私の顔色を窺うように言う彼。


……ああ、それが心配で呼び出したんだ。


「安心して。もうあんたには興味ないし、あんなことバラしたって私に得はないから」


鼻で笑って、今度こそ帰ろうと背を向けた――そのとき。


「……ブレティラ、辞めるわ」


彼の声が、背中に刺さる。


「……え?」


思わず振り返った。彼は真っ直ぐに私を見て、言い切った。


「本気?」


「ああ。こんな舐められてまで、続ける気はねぇよ」


自嘲気味に笑う彼。


「……ニンファーとか、入れてくれないか? ……ま、無理だろうけど」


その言葉に、少しだけ考える。


ニンファーは私の独断じゃどうにもならないけど――。


「本気で、ブレティラを抜けたいって思ってるの?」


「ああ」


「じゃあ、証明してくれる?」


にこりと笑って首を傾げると、彼は訝しげな顔をした。


「証明って……どうやってだよ?」


彼の前で私は、すっと上着を脱ぎ、スカートの裾を指でつまんだ。


「えっ、お、おい……!」 


狼狽する彼の反応を無視して、スカートを少しだけまくり上げる。


太もも――そしてお腹の下の方から、うっすらと伸びる桜のタトゥー。

花びらが肌の上を滑るように連なり、淡いピンクと黒のインクで繊細に描かれている。


彼は目を見開き、思わず息をのんだ。


「……お前、それ……」


「このタトゥー。こんな感じのを、体のどこかに入れてくれる?」


問いかけると、彼は目を逸らしながら苦笑いを浮かべた。


「……マジかよ……」


「ふふっ、冗談。本物じゃなくていいよ。シールで十分。

ずっとつけてて。――私の協力者の証としてね」


私は服を整え、カバンの中から小さなタトゥーシールを取り出す。

男でも似合うように、クールで少し無骨なデザインにしてある。


「……わかった。つけるよ」


彼は静かに受け取り、真剣な表情で頷いた。


「ありがとう。改めて言うけど、私は“情報屋のサキ”。菊池くんにはそのままブレティラに残って、情報を流してほしいの。辞めるって覚悟があるなら、それくらいできるでしょ?」


「“情報屋のサキ”って……まさか、お前が?」


「うん。今は“美咲”って名前で通してる。だから、バラさないでね?」


「……ああ、わかったよ」


そう言って、私は手を差し出した。


彼は一瞬ためらったあと、しっかりとその手を握り返してくれた。




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