第20話『シェルターの夜、静かに灯る明かりの陰に潜む新興宗教』

その場所は、駅から徒歩十五分ほど離れた住宅街の一角にあった。

 看板もなく、雑居ビルの一階に「女性専用」と小さく書かれた札がかかっているだけ。地図がなければ見つけられなかっただろう。


 薄暗い廊下を抜けると、小さな受付カウンターがある。年配の女性が座っていて、奈緒に穏やかに声をかけてきた。


「初めてのご利用ですね? お名前は、仮名でも構いませんよ」


 奈緒は、少しだけ口を開き、名乗った。


「……山本で」


「山本さん、ようこそ。今日から三日間、こちらでお休みいただけます」


 受付は簡素だった。身分証の提示もなければ、細かな質問もない。

 紙の申込書に仮名と年齢、緊急連絡先の欄を空欄のままにして提出すると、すぐに案内された。


 個室はなかった。

 十畳ほどの部屋に、布団が三つ。すでに先客が二人眠っている。仕切りも、カーテンも、ない。だが清潔だった。


 壁にかかった掲示板には、こう書かれていた。


 「あしたの光は、きっとあなたを照らす」──NPO法人『あまねく光の会』


 奈緒はその言葉の柔らかさに、少しだけ安心しかけた。


 だが、すぐに違和感は忍び寄る。


「山本さん、夜のお食事、必要ですか?」


 声をかけてきたのは、施設のスタッフと名乗る若い女性だった。笑顔が妙に整いすぎていて、奈緒はぎこちなく頷く。


「こちらでお食事をする方には、“感謝の祈り”を一緒にお願いしています。簡単なものです」


 祈り? それは、宗教的なものなのか。


 奈緒は一瞬ためらったが、空腹には勝てなかった。

 案内されたダイニングには、他に六人の女性が座っていた。全員、同じ色の薄ピンクのブランケットを肩にかけている。


「新しい方がいらっしゃいました。山本さんです」


 スタッフの女性がそう紹介すると、全員が一斉に微笑んだ。だが、どこかその笑顔は無表情に近い。無理に笑顔の仮面を貼りつけているようだった。


「では、“感謝の言葉”を」


 全員が、手を胸に当てて、唱和する。


「……わたしたちは、光に感謝します。今日の命に感謝します。導きの声に、耳を澄ませます」


 淡々としたその言葉に、ぞわりと背筋が寒くなる。だが、異議を唱えられる空気ではなかった。

 奈緒も、言葉をなぞるふりをして、手を合わせた。


 食事は温かい。野菜の煮物とごはん、味噌汁。普通においしい。

 だがその味も、なぜか喉を通るたびに、警戒の色を深めていく。


 食後、スタッフが一人ひとりに冊子を手渡していった。


「こちら、“夜の導き”です。寝る前に目を通しておくと、明日が少しだけ優しくなりますよ」


 奈緒もそれを受け取った。

 冊子の表紙には、同じ言葉が書かれていた。


 『あしたの光は、きっとあなたを照らす』


 開いてみる。

 そこには、まるで聖書のような文体で、「光の会」の教義が並んでいた。


──あなたは選ばれた存在です。

──孤独は試練、試練は導きの証。

──導く者に従えば、あなたの魂は癒やされます。


 奈緒は、本能的に危険を感じた。

 これはただのシェルターじゃない。“教化”が、始まっている。


 就寝時間になった。布団に入り、部屋の灯りが落ちる。


 隣の布団で寝ていた若い女性が、ぼそりと呟いた。


「……あたし、三日前にここに来たの。最初はご飯もらえるだけでありがたかった。でも、気づいたら、スマホも財布も預けることになってて。今さら逃げるの、怖くて……」


 声は震えていた。


「ここ、“お金も心も空っぽな人”が、一番騙される」


 奈緒は、眠れなかった。


 深夜二時。

 こっそり部屋を抜け出して、廊下の隅でスマホを取り出した。

 バッテリーは10%を切っていたが、ギリギリで検索する。


「“あまねく光の会” 評判」


 ……出てきた。


 「“女性専用シェルター”を名乗り、信者勧誘を行っている実態が判明」「生活困窮者をターゲットに、財産供出を迫るケースあり」


 背中に冷たい汗が流れた。


「逃げなきゃ」


 けれど、どこへ? 夜の街を、女ひとりで?


 そのとき、小さなメモが足元に滑ってきた。

 暗闇に目を凝らすと、廊下の端の影から、さきほどの若い女性が小さく頷いていた。


 ──“明け方、裏口から出る。あなたが行くなら、一緒に行く”──


 紙には、震える文字でそう書かれていた。


 誰も信じられないと思っていた。

 でも、誰かとなら──この夜を、抜けられるかもしれない。


 明け方まで、あと四時間。

 静かな明かりの下、奈緒は眠らないまま目を閉じた。

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