第5話『お湯が沸かない午後』

昼過ぎになって、ようやく奈緒は重い体を起こした。


 今日は、寒かった。

 天気予報では「春本番」と言っていたが、奈緒の部屋にはその気配はなかった。

 暖房はつけていない。厚着をすればいいと思っていたが、指先が冷えると、どうにも何も手につかない。


 そういうときは、あたたかい飲み物を淹れるに限る。

 そう思って、奈緒は電気ケトルに手を伸ばした。


 だが、スイッチを入れても、ポツンと赤いランプがつくだけで、いつもの「ごぉ……」という音がしない。

 湯が、沸かない。


 コードを抜き差ししてみる。

 それでも、音はない。

 中の水は、冷たいまま。

 時間が経っても、沸騰音は戻ってこなかった。


「あれ……?」


 つぶやいて、もう一度コンセントを確認する。

 他の電化製品──レンジ、冷蔵庫、テレビ──は正常に動いている。

 つまり、ブレーカーではない。


 ケトルの寿命かもしれない。

 かれこれ8年は使っている。

 型も古いし、底に水垢がたまっていたのも知っていた。


 ──でも。


 「今日じゃなくてもよくない?」


 なぜ今日なんだろう。

 どうして今日、この小さな生活の柱が静かに崩れるのだろう。

 ケトル一つ。たったそれだけのこと。

 でも、奈緒にとっては、それが「日常の終わり」のような気がした。


 温かい飲み物を淹れるという、ただそれだけの習慣。

 それが壊れるということは、「今日という日を耐えるための手段が一つ減った」ということだった。


 奈緒は、ソファに沈み込む。

 寒さが、じわじわと体を包む。

 何もしていないのに、息が白くなるような気がした。


 「……買いに行けばいいか」


 口にしてみても、言葉はすぐにしぼんだ。

 買いに行くには服を着替えて、メイクをして、外に出て、電器店かホームセンターまで歩いて、商品を選んで、並んで、お金を払って、持ち帰って、箱を開けて、設置して……


 そこまでの工程が、今の奈緒には“山”にしか見えなかった。


 体は動かない。

 動かす理由が、見つからない。


 冷たい部屋。冷たい水。

 スマホの画面に映るのは、今日も明るく笑う他人の姿。


 奈緒は、キッチンの隅に視線をやる。

 そこには、やかんがあった。

 古びてはいるが、まだ使えるはずだ。

 ガスで直接お湯を沸かせばいい。


 ──けれど、火を使うのが怖かった。


 いや、怖いのではない。

 “面倒”だった。

 マッチで火をつけるのも、点火するのも、五分と待つのも。

 そして、五分後にたった一杯の白湯をすすったところで、心があたたまるわけじゃない。


 そんな予感が、奈緒の足を止めていた。


「……もう、いいや」


 そう言って、またソファに沈む。

 そのまま毛布をかぶる。

 ひとつ深く息を吐いて、スマホを手に取る。


 検索欄に「電気ケトル おすすめ」と入力しようとして、やめた。

 買っても、使うかどうか分からなかった。

 それに、どれを選んでも、きっと何も変わらない。


 熱い飲み物を飲んでも、温もりは“持ち時間5分”の儚さ。

 どのみち冷える。

 どのみち、独りだ。


 部屋は、静かだった。

 時計の秒針が、壁をかすかに刻んでいた。

 それが、今日唯一の“動き”だった。


 隣の部屋から、小さな音が聞こえた。

 カーテンを開ける音かもしれない。

 あるいは、窓を閉める音。

 生活の音。


 誰かが、そこにいる。

 そう思うだけで、自分の部屋の“空虚さ”がいっそう際立った。


 ひとりきりで過ごす午後。

 お湯の沸かないキッチン。

 音のないスマホ。

 毛布の中で、自分の体温だけが、じんわりと心許なく、広がっていた。

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