第五章(結末A案):終わりなき饗宴

 どれほどの時間を這い続けたのか。

 全身を蝕む不快な痒みと、脳髄を掻き乱す絶望的な幻影の中で、わたしは泥と腐臭にまみれながら、ただ闇雲に進んでいた。

 背後では、あの「構成体」たちが、まるで未知の異物を排除するように、不気味な音を立てて収縮し、遠ざかっていくのが分かった。

 しかし、安堵は一瞬たりとも訪れなかった。

 あの無感情な「声」が、塔のシステムそのものであるかのように、わたしの思考に直接響き続けていたからだ。


『塔のシステムは、君を処理できない。故に、このまま構成体に取り込まれ、他の落下者と同様に養分となるか、あるいは、君のイレギュラーな特性がシステムに何らかのバグを引き起こし、予期せぬ結果を招くかもしれない』


 その言葉が、まるで呪詛のように脳裏を反芻する。

 安堵すべきか、絶望すべきか。

 わたしは、ただ目の前の、粘液に覆われた狭い通路を、泥と化した足元を必死で蹴りながら進むしかなかった。

 やがて、通路は大きく開け放たれた空間へと続いた。

 そこは「頂上」と呼ぶにはあまりにも異質で、おぞましい場所だった。

 空間そのものが、脈打つ巨大な臓器のように蠢いていた。

 壁は粘液質の膜で覆われ、天井からは無数の管が垂れ下がり、その先端は、おびただしい数の「落下者」たちの変わり果てた姿に繋がっていた。

 彼らは、もはや人間の形を留めておらず、不定形な肉塊と化して、塔の生体組織の一部と化していた。

 彼らの眼窩は空洞と化し、しかしその内側からは、無数の細い光の糸が伸び、頭上へと吸い上げられていく。

 わたしは、それらの肉塊の一つが、かつて共に塔を進んだはずの仲間の変わり果てた姿であることに気づき、胃液が逆流するような吐き気に襲われた。

 彼らの肉体は、完全に塔に吸収され、魂だけが、あの光の糸となって吸い上げられているかのようだった。


「ようこそ、最高の獲物よ。」


 どこからともなく、だが確かに、直接脳に響く声が聞こえた。

 それは、これまで塔の中で感じていた「意志」そのものだった。

 声には感情がなく、ただ純粋な捕食者の飢えと、獲物に対する冷酷な満足が滲んでいた。

 周囲の粘液質の壁が、ゆっくりと形を変え始める。

 まるで巨大な眼球が、わたしを凝視しているかのように。

 その中心には、深淵な闇が口を開けていた。

 しかし、その闇の奥から、形を成さないながらも、確かに「何か」がわたしを見つめ返している。それは、塔の意志そのものか、あるいは……。


「お前は、特別な存在だ。『再生者』…そして『NO IDノーアイディー』。お前の恐怖は、他の追随を許さない。幾度も死を経験し、その度に恐怖を更新し、深化させてきた。そして、その『再生』の能力で、新たな恐怖を無限に供給する。まさに、我々にとっての最高のご馳走。尽きることのない宴だ。」


 塔の声は、わたしの知覚する全てを揺るがした。

 塔が、生きている。

 そして、わたしを、そして「落下者」たちを、文字通り「食べていた」のだと。

 彼らが求めていたのは、肉体ではなく、精神が味わう「恐怖」の味だった。

 そして、わたしという「再生者」は、何度も「恐怖」を再生し、献上する、最高の食材だった。

 絶望が、乾いた砂のように喉の奥に広がる。

 その瞬間、闇の奥に揺らめく「何か」の輪郭が、微かに、だが確かに形を成し始めた。

 それは、わたしのよく知る、しかし見るはずのない、おぞましくも懐かしい姿。

 ――未来の、わたしの姿だった。

 その眼窩は空洞と化し、全身は塔の粘液質の壁と融合していた。

 まるで、壁から生え出た、しかし確かに「わたし」である、巨大な肉の彫像。

 その口元は、無数の管に繋がれたままで、ゆっくりと、しかし確実に動く。その存在からは、腐りかけた臓物のような甘ったるい匂いと、長きにわたる絶望が凝縮されたかのような、乾いた埃の匂いが混じり合って漂っていた。


「諦めろ……無駄だ……抗うな……」


 それは、第4章で聞いた「声」とは比べ物にならないほど、明確で、直接的で、そして狂気に満ちた、わたしの声だった。

 未来のわたしは、すでに塔の一部となり、わたしを「ご馳走」へと変質させるための、最初の「味付け」役と化していたのだ。

 背後から、無数の細い触手が伸びてくるのが見えた。

 それは、壁と化した肉塊から生えているようにも、塔の生体組織そのものから伸びているようにも見えた。触手は、すでに変質した仲間の肉体を吸い尽くしたのだろうか、乾いた音を立てていた。

 触手からは、古びた血液の錆びた匂いと、苔むした岩肌の陰湿な土臭さが混じり合った、吐き気を催す異臭が放たれていた。


「さあ、始めよう。お前の終わりなき饗宴を。」

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