第2話 男、誠一。ヨガをする。

 駅前にあるヨガ教室は、入り口からでも分かるくらい賑やかだった。

 俺が受付を済ませて靴を脱ぎ、マット敷きの教室に入ると、部屋の隅で談笑中だった山田さんがこちらに向かって歩いてくる。

「あら! 斉藤さん、いらっしゃい!」

 山田さんの他にも、俺と同年代と思われる女性が五人いた。彼女たちは俺を見るなりにこやかに挨拶をしてくれる。俺も、それに応えて頭を下げた。

 男が突然、彼女たちの輪に入って警戒されるかと思っていた。しかし、みんなは俺を快く受け入れてくれ、ほっと胸を撫でおろす。


 周りを見るに、一番若い生徒でも四十代後半だろう。想像していたヨガ教室のお洒落さよりも、むしろ公民館の健康教室じみた親しみやすさがある。勢いで体験会に来てみたが、ここに来る前に抱えていた年下の女性に囲まれて醜態を晒す怖さは少しだけ和らいでいた。

 一方で、インストラクターの先生はこの場の誰よりもはつらつとしている。娘と同じか、もしかするとそれより若い。俺には三十代後半に見えた。


「あの……先生。男がヨガ教室に参加するのって、大丈夫ですか?」

 ヨガ教室のチラシには“動きやすい服”としか書かれていなかったので、新しくジャージの上下を購入した。俺以外の生徒は半そでシャツと短パンを履いている。

 しかし、問題は服装ではなく俺自身だった。俺は、申し訳なくなりながら先生にそう聞いてみた。

美知留みちるさんのご紹介でしたよね。全然大丈夫ですよ! 曜日は違いますけど男性の生徒さんも何人かいらっしゃいますし!」

 先生はあっけらかんとそう言う。どうやら、俺の心配は杞憂に終わったようだ。

 そして、山田さんの下の名前は美知留さんというらしい。山田さんは「私が教えてあげる」と、俺の隣に座った。

「ここでは、みんな下の名前で呼びあっているの。私のことは美知留でお願いします」

 妻でもない女性を下の名前で呼ぶなんてとも思ったが、ここで断ったら空気が悪くなってしまうだろう。ここで堅物を発揮しても、しょうがない。郷に入れば郷に従えとも言うし……。


 そして、ここでは俺、いやが一番の下っ端だ。

 清子が亡くなってから今まで俺は何もしてこなかった。それがどうだ。何も変わらなかったじゃないか。何も変わらないことを嘆いていたのは誰だ? いつ、変わるチャンスがあった。僕は今、変わる機会を手にしているんじゃないか?

 だとすると、僕の何かを変えるとしたら今しかない。

 僕は、今、今日この時点から変わるのだ。

 一呼吸おいて、僕は覚悟を決める。


「分かりました。それでは、僕の名前は誠一でお願いします。美知留さん」

 僕が深々と頭を下げると、美知留さんは大声で笑う。

「あっはっは! 誠一さん緊張してる! 可愛い!」

 美知留さんの笑い声が伝染して、教室中が温かい雰囲気になる。一体いつ以来だろう。僕の周りでみんなが笑っている光景を見るのは。

 懐かしさと共に、僕の中に熱い何かが灯るような感触がある。

 先生が手を叩き、僕たちの注目を集める。歓談もそこそこに、早速ヨガの授業が始まった。


 先生を中心に、僕たちは輪になった。

 ほんのり汗が滲むくらいの柔軟運動をする。それぞれ二人一組でペアになり、僕は美知留さんと体の伸ばしあいっこをした。

 全員が準備運動を終えると、真ん中に座った先生がヨガの基礎的な話をし始める。それは、型やポーズなんかの表面的なことではなく、おそらくもっと奥深くにある、先生がヨガを通して感じてきた核のような話だった。

「さて、この教室のテーマは、『よりよく生きる』です」

 先生が教室の中央で座禅を組みながら、僕たちを見回す。柔軟運動で得た充足感のお陰で、深い呼吸と共に先生の言葉が胸の中にすっと染みわたってきた。


「ヨガは人生に必要なことではないかもしれません」

 ヨガの先生がヨガは必要ないなんて言うのか。

 はっきりと、しかし何かを見据えたように、先生はそう言い放つ。

「しかし、人との繋がりを感じながら、主体的に身体を動かすことは、人生を豊かにしてくれます」

 先生の話を聞いて、生徒たちはみんなうんうんと頷いている。

 なるほど、確かに僕は今まで人生に必要なことしかしてこなかったような気がする。人の繋がりも、身体を動かすことも、退職してからは随分と関わり合いがなかった。

 教室に、穏やかな時間が流れる。瞑想に近い時間。僕が心地よい内省の時間を享受していた、その時だった。

 

 目を細めていた先生の眼がカッと開く。それを見て、他の生徒が臨戦態勢に入った!

山のポーズターダーサナー!」

 そう言うと、先生はおもむろに立ち上がる。

「ハッ!」

 僕以外の生徒は短い発声の後、きびきびと両足で立ち上がってみせた。

 一方の僕は、おっかなびっくり立ち上がったので、周りと反応が少しだけ遅れる。先生は僕が無事に立ち上がったのを確認すると、大きく深呼吸をし、僕たちに同じようにするよう促した。僕たちは、先生を真似て呼吸を整える。


戦士のポーズⅠヴィーラバッドラーサナ・ワン‼」

 続けて放たれた号令に、生徒たちは応える。

 今度は両腕を真上に上げ、足を縦に開いてアキレス腱を伸ばす動きだ。

 勢いを伴いつつもしなやかな鞭のように姿勢を変える先生を横目に、僕は五十肩で上がり切らない腕を必死に伸ばしながら、まるで生まれたてのような小鹿の姿勢でポーズを試みる。

「ヤッ!」

 一方で、僕以外の生徒はスムーズに先生と同じポーズを遂行する。みんな真剣そのものだ。ヨガ開始前のあの和やかさはどこにいったのか。美知留さんに得意げな顔をまじまじと見せられ、俺は正直、裏切られたと思った。

 というか、この発声はいるのだろうか。想像していたヨガ教室とは若干違う気がする。僕が目で訴えると、隣の美知留さんは大きく頷いた。

 ……なるほど、声を出してはつらつと動くことで、心の底から元気になろうという魂胆らしい。確かに、実際にやってみると、黙っているよりも力を使う分、身体の中のもやもやとしたものが外に出ていく……気がする。僕は、息を吐きながらそう思った。


戦士のポーズⅡヴィーラバッドラーサナ・トゥー‼」

「アイッ‼」

 今度は真上に上げていた両腕を地面と並行に、前後に開いた両足の上に出すような姿勢で固定する。加齢により落ちた筋肉のせいで、空中に腕を維持し続けるのが至難の業だ。いや、加齢を言い訳にしてはいけない。僕と同年代のみんなは涼しい顔をして先生に指示された姿勢のまま、全く動かず呼吸だけしている。

「すいません、先生……」

 これは僕の身が危ない。はた目から見ればゆったりと映るヨガも、真剣にやれば全身の筋肉が悲鳴を上げるくらいしんどい。それに、僕の運動不足は思ったよりも酷かった。静と動。心技体。ヨガの深奥はこれほどまでに深いのかと、わずか三分で分からされる。もう限界だ。先生に伝えて、もう少しリズムをゆったり目にしてもらえないだろうか。僕はプルプル揺れる腕を上げ、提案しようとした。その時だった。


戦士のポーズⅢヴィーラバッドラーサナ・スリー‼」

 先生は、とんでもないことをした。無慈悲にも両手を前に突き出し、後ろ脚を空中に投げ出したのである。そしてそのまま、片足立ちの状態で上半身の体重を前方にかけ、身体を水平に近づけていく。それは無茶だ。そのまま倒れるかと思った先生の身体は、しかし、まるで空間にピタリとハマるかのように、T字の姿勢で静止した。

 いや、ちょっと待て。流石にこの動きは六十代の生徒には出来ないだろう。そう思って隣を見ると、みんな何事もなくT字になっていた。僕は度肝を抜かれた。

 これは、やるしかないのか。僕は、一人取り残された教室で片足立ちを試みる。

 しかし、運動不足の右脚は、上半身の体重を支え切れなかった。バランスを崩した僕の身体は、教室のマットにゴロゴロと横転したのである。

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