【短編】僕は、おばあちゃん。

鷹仁(たかひとし)

第1話 男、誠一。スカートを履く。

 定年退職して四年。妻が死んでからは一年ちょっと。

 そろそろ、まじめに暇だ。


 市役所を総務部長まで勤め上げて、新聞にも名前が載った。

 退職の日、部下に言われた言葉は「地域に尽くした誠実な人柄の部長」。

 けっこう。でも、そんな肩書きなんか、いま押し入れの奥でネズミの餌になっている。


 今日は暇つぶしがてら買い物に来た。

 駅前の、ちょっと古びた婦人服売り場。


 ――スカートが、欲しかった。


 渋いワインレッドのやつに手を伸ばすと、隣で品出し中の女性店員が声をかけてくる。俺の娘よりも若い。


「奥様へのプレゼントですか?」


「いえ、自分用です」


「……はい?」

 彼女は虚を突かれたように、目を見開いて固まる。手元のスカートを握る力がわずかに強くなった。

 それもそうだろう。自分のおじいちゃんと同じ年代、それも現役時代のスーツ姿、ポマードで髪をセットした男が自分用にスカートを買いに来たと言ったのだ。

 別に、驚かせたいわけではないのだが。俺は癖で鼻の頭を掻いた。


「驚かせてごめんなさい。僕にも着れそうなスカート、ありますか?」

 言いながら、ちょっと笑えてくる。

 あくまで客として自然に、紳士然に振る舞う。しかしそれが逆に不気味さを演出してもいた。なにやってんだろ、俺。


 でも、言っちまったもんは仕方ない。

 若いころの俺なら、言えなかった。言える空気もなかった。


 男ってだけで、戦うことを求められた。稼げ、守れ、押し殺せ。

 地元の国立大学を出て、親の期待通りに公務員になった。

 安定と普通を求めて今は亡き妻と結婚、子どもが生まれ、孫まで出来た。

 今は別居しているが、世間の体裁を考えれば俺は成功したと言えるだろう。それで十分だった。

 女の子になりたいなんて願いは、深海に沈めて鍵かけて……それで、うまくやってきたつもりだった。


 でも、鍵はもういらない。

 俺にはもう、仕事も、家族も、誰かの期待もない。

 法に背くことをしなければ……たとえ地域の人に後ろ指さされたって居場所を失う心配なんて、もういらない。


 今さらだけど――。

 俺は、スカートを穿いて、街を歩きたかったんだ。


 店員は一瞬黙ってから、少し笑って、店の奥から淡めの黄色いスカートを持ってくる。そして「これでしたら、ウエストがゴムなので」と言って、びよんびよんと生地を引き伸ばして見せた。

「着たいお洋服に合わせていくつか見繕いますけど……」


「結構。それをください」

 あんまり長居しても、他の客に迷惑だろう。

 すれ違う女性客の顔がどこか異物を見るように歪んで見えた。

 紙袋にスカートを入れてもらい、最後まで丁寧に接客をしてくれた店員に俺は深々と頭を下げる。


 貯金はそれなりに、ある。退職してからしばらくは、月に一度、妻と国内旅行に行っていたくらいだ。それに、妻の入院も短かったので、覚悟していたよりも入院費は安く済んでいる。

 妻は延命治療を望まなかった。脳卒中で倒れ、体が動かなくなった日に、彼女は点滴もいらないと言った。わがままを言わない妻が初めて見せた顔だった。俺は、妻の意向を尊重した。


 家に帰って、スカートを履いてみた。そして、妻のタンスから俺でも着れそうな服を見繕う。が、どれも俺にとっては小さすぎた。それもそうだ。俺は背丈が百八十センチもある。妻は百五十センチくらいだ。

 スカートと一緒に服も買っとけば良かったと後悔する。窓の外で熊よけの鈴が鳴った。ランドセルの革とぶつかって鈍く響いている。西陽が台所に落ちた。最近、時間が経つのが早い。気がつくと、すでに近所の小学生の下校時刻だった。


 ぴんぽーん。玄関の呼び鈴が鳴る。客が来た。

「こんにちは、斉藤さん」

 鍵を閉めていなかったからか、俺の返事もなしに家の中に入ってくる。隣の家の山田さんだ。妻と同学年で、俺の二つ下。山田さんは手に回覧板を抱えたまま怪訝そうな顔でこちらを見た。

「どうしたんですか? スカートなんて履いて」

 慌ててきたもんだから、俺は着替えるのを忘れてしまった。スカートを履いた俺に、山田さんは申し訳なさそうな笑いを漏らす。


 初対面の店員に見られるのと、知っている人に見られるのでは訳が違う。オトコ誠一、一生の恥だ。

「あいや、新しいことを、しようと思いまして……」

 咄嗟に言い訳を述べるが明らかに苦しかった。山田さんから、やりきれない思いが漂ってきている。ような気がする。

「そうですかぁ。あらあら、まあまあ! ふふっ!」

 しかし、しばらくの間、山田さんは俺の様子を眺めていた後、急に可笑しなものを見たというように手を口にやった。

「何か?」

「だったら、こんなのはどうかしら!」

 彼女の反応の意図が掴み切れずに俺が聞き返すと、山田さんは回覧板に挟んであったチラシを取り出し、俺に渡してみせる。

 チラシには、“シニア向けやさしいヨガ体験会”とあった。


「ヨガ教室ですか?」

 ヨガというと、若いご婦人が体のシェイプアップの為に行く。という認識だ。

 俺のようなジジイが行ったところで、場違いも甚だしいだろう。

 俺が山田さんに疑いの目を向けると、彼女は曇りのない目で見つめ返してきた。

「ええ。私も最近通い始めたんだけど、運動不足解消にどうかと思って!」

「男がヨガって、変じゃないですか?」

「変じゃないわよ〜、お友達が増えるのは嬉しいし、それに清子すみこちゃんも喜ぶわ」

 妻の名前を出されて、俺の身体が一瞬、強張る。


「清子が?」

 家のことを清子に任せていたせいか、俺は、町内会のことも清子が家で何をしていたかも全く知らない。清子は、山田さんとどんな話をしていたのだろうか。

「清子ちゃんがいなくなってから、斉藤さん、元気がないみたいだったし……新しいことを始めるんだったらヨガ教室、どうかしら」

 俺は、山田さんの提案に返事が出来ないでいた。

 今まで避けてきた仕事外での人付き合いを始めたところで、周囲に奇異な目で見られるのではないか。それに、スカートを履いてみたのは暇すぎるが故の気まぐれでしかなく、自分ひとりで出来る趣味を見つければ、周りに気兼ねすることなく暇つぶしが出来ると思ったからだ。

 思わず眉間に皴が寄ってしまう。市役所でも部下に怖いからとたしなめられた癖が、退職してから久しぶりに出てきたようだ。


「それに、清子ちゃん、ウチの旦那が真面目過ぎるってよく愚痴を……」

 俺が迷っていると、山田さんは聞き捨てならないことを言い出した。

「何て?」

「あっ!」

 俺が聞き返すと、山田さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 どうやら、彼女は気を抜くと人の秘密をばらしてしまう性分らしい。

「いえ、良いんです。清子のこと、教えてくれませんか」

 しかし、これは好都合だった。もしかしたら山田さんから清子のことを聞けるかもしれない。しかし、山田さんは「夕食の準備をしなくちゃ」と言って、帰ろうとしている。

「続きはヨガ教室で。斉藤さん、お待ちしています!」

 そう言うと、山田さんは頭を下げて出て行ってしまった。


 日の暮れた居間の机に置かれたチラシを前に、しばらくの間動けなくなった。

 新しいことを始めるのは、こんなにもエネルギーがいるのかと、呆然としながら、しかし、静子がいなくなってから今まで、何も新しいことを初めて来なかったと思い返していた。


 俺のスマホが光ったのは、鳩時計が十八時を知らせた時だった。

 還暦祝いに娘からプレゼントされたシニア向けのスマートフォン。通知をタップすると、そこには娘の浩美ひろみから一通のメールが来ていた。


“お父さん、元気? 歳なんだから無茶しないでよ”


 まるで見透かしたような文面に、俺は何故だか腹が立ってきた。

 浩美ひろみに最後に会ったのは、清子の四十九日が終わった日だ。その日以降、浩美は時たま俺に年寄扱いするようなメールを送ってくる。

 俺は浩美に年寄扱いするなと言いたい。還暦を過ぎても、身体は意外と元気だ。若い頃と比べて多少なまっているけれども、杖も使わず不自由なく歩けている。ただ、清子がいなくなってから、何故だかちょっとだけ疲れてはいた。おそらくこれは、環境の変化が原因だろう。気力では、まだまだ浩美にも負けない自信があった。


“無茶してないわい(# ゚Д゚)”


 俺は、浩美に返事をする。そして、浩美に年寄扱いをされたので、何とか見返してやろうという気持ちになった。そうだ、今こそ新しい環境に打って出て、一人でセカンドライフを楽しんでいるところを娘に見せつけなければいけない!

 シニア向けスマートフォンをいじりながら、俺は、ヨガ教室に行くことを決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る