第二十八話『学園に潜む影』

騎士団の詰め所からの帰り道、俺たち三人は、誰一人として口を開かなかった。

月明かりが、俺たちの重い影を、長く、長く引き伸ばしていた。


勝利の昂揚感など、どこにもない。

敵のアジトを一つ潰したというのに、心は、鉛を飲んだかのように重かった。

『黒蛇』という組織。

『器』という謎の言葉。

そして、敵の真の狙いが、俺たちの学び舎――王立アエテルガルド魔導学院にあるという、残酷な事実。


寮の分岐路に差し掛かった時、リリアーナが、ふと立ち止まった。


「……アッシュ・君」

「……なんだ?」

「今日のあなたの『感じ』……あれがなければ、我々は、あの店がアジトだと確信できなかったわ。……ありがとう。助かったわ」


それは、彼女からの、初めての、素直な感謝の言葉だった。

そこには、もはや劣end生への侮りの色はない。不可解な存在への、警戒と、そして、その能力への信頼が、確かに含まれていた。


「……別に。俺は、何もしてない」

「そうね。あなたは、何もしていないのでしょうね」


リリアーナは、意味深にそう言うと、「二人とも、くれぐれも気をつけなさい」と言い残し、女子寮の方へと去っていった。

セレスも、「また、明日ね」と、少し不安そうな顔で手を振り、その後を追う。


一人残された俺は、自室へと、重い足取りで向かった。

扉を開けると、そこには、俺の帰りを待ちくたびれたのか、椅子に座ったまま、こくりこくりと舟を漕いでいるルナの姿があった。


その無防備な寝顔を見た瞬間。

騎士団隊長の、あの言葉が、脳内で雷鳴のように轟いた。


『奴らが言っていたという、『器』……。あるいは、その準備に必要な何かが、君たちの学院にあるのかもしれん』


『器』。


俺は、目の前の少女を見た。

記憶がない。

正体も、不明。

だが、その身には、世界の理(ことわり)に愛された、『修復』の権能を宿している。

『黒蛇』の連中は、彼女を「神の御使い」と呼び、執拗に追っていた。


……まさか。


心臓が、嫌な音を立てて軋む。

点と点が、線で結ばれていく。

最悪の、そして、あまりにもあり得る、一つの可能性へと。


もしも。

もしも、ルナこそが。

敵組織『黒蛇』が血眼になって探している、『器』そのものだったとしたら……?


ぞわり、と全身の産毛が逆立った。

そうだとしたら、全てに説明がつく。

なぜ、彼女が追われていたのか。

なぜ、敵の活動拠点が、学院の周辺に集中しているのか。


俺は、彼女を危険から遠ざけるために、安全な場所だと思って、この学院に匿った。

だが、それは、とんだ見当違いだった。


俺は、狼の群れがうろつく草原の、ど真ん中に、一匹の子羊を連れてきてしまったのだ。

俺の部屋は、聖域などではない。

敵地の中に孤立した、絶望的な最前線だった。


さらに、もう一つの、より深い絶望が、俺の心を蝕む。

俺の力――《システム・インターセプト》。

その力の行使は、世界の安定値を、確実に、削り取っていく。

もし、敵の目的が、『器』を使って、不安定になった世界を『再起動』させることだとしたら?


俺が、ルナを守るために力を使えば使うほど、世界は不安定になり、結果として、敵の目的達成を手助けしてしまうことになるのではないか?

守るための力が、守るべきものを、より危険に晒す。

なんという、救いのない矛盾(パラドックス)だ。


俺は、眠るルナの頬を、そっと撫でた。

その寝顔は、あまりに、無垢で、穏やかだった。


(……そうか)


腹の底から、冷たい、しかし、燃えるような覚悟が、湧き上がってくるのを感じた。


(……そういうことかよ、黒蛇)


もう、迷いはない。

騎士団を待つ?悠長なことを言っていられるか。

犯人捜し?違う。


これは、戦争だ。


俺の、たった一人の大切なものを、奪おうとする、汚れた蛇どもとの。


俺は、ルナの隣に膝をつくと、静かに、しかし、決して揺らぐことのない誓いを、立てた。


「……見つけ出して、叩き潰す。俺が、お前たちを」


劣等生の仮面の下で、俺の瞳は、これまで宿したことのない、冷徹な光を放っていた。

受動的な守りから、能動的な攻撃へ。

俺の戦いは、この瞬間、全く新しい意味を持ったのだ。

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