第二十七話『器と、黒い蛇』

『――例の『器』の準備は、最終段階に入っている。しくじるなよ』


冷たい声の残響が、カビ臭い地下室に吸い込まれていく。

通信機の光が消え、後に残されたのは、墓場のような静寂だけだった。


俺たち三人は、金縛りにあったかのように、その場に立ち尽くしていた。

今、俺たちは、間違いなく、敵の、それも、かなり上位の存在の声を、聞いてしまったのだ。


「……『器』……?」


セレスが、震える声で呟く。

その言葉に、俺の心臓だけが、他の二人とは全く違う意味で、冷たく跳ねた。

『世界の安定値の低下』『未定義エラーの発生』。

俺が引き起こした世界の『バグ』が、敵の言う、その『器』の準備とやらに、悪影響を及ぼしていないと、誰が言い切れる?

俺は、もしかしたら、敵の計画を、手助けしてしまったのかもしれない。


「それに、帳簿に描かれていた、あのシンボル……」


リリアーナが、険しい表情で付け加える。

――尾を喰らう、『黒い蛇』。

それが、俺たちが追うべき、敵対組織の名称、あるいは象徴なのだろう。


「……長居は無用よ」


最初に我に返ったのは、やはりリリアーナだった。


「この通信機で、向こうにこちらの異常が伝わらないとも限らない。すぐにここから離脱するわよ。証拠は、十分に揃った」


彼女の言葉に、俺とセレスは、はっと頷く。

俺たちは、気を失っているクローリーを魔力封じのロープで厳重に縛り上げ、研究室にあった帳簿や重要そうな資料、そして、あの黒水晶の通信機を証拠品として確保すると、足早に、あの忌まわしい骨董品店を後にした。



王都の夜は、すでに始まっていた。

俺たちは、人目を避けながら、リリアーナの先導で、王都騎士団の詰め所へと向かった。

彼女が、家の紋章が入った身分証を提示すると、衛兵の態度は一変し、俺たちは、奥の応接室へと通された。


しばらくして、部屋に入ってきたのは、あの時、学院で事情聴取を行った、特務部隊の隊長その人だった。


「――クレスフィールド公爵令嬢。このような時間に、一体、何事かな」


事情を知らない隊長は、いぶかしげな表情をしている。

だが、リリアーナが、テーブルの上に、確保した証拠品の数々――特に、『黒い蛇』の紋章が入った帳簿と、黒水晶の通信機を置いた瞬間、その顔色が変わった。


俺たちは、今日、目撃したこと、そして、最後に聞いた、謎の通信の内容を、ありのままに報告した。

俺たちの報告を聞きながら、隊長は、特に、人形たちが同士討ちを始めたという点に、深く眉をひそめた。


「……人形たちの制御を、外部から奪ったかのような、統率の取れた内乱、だと?馬鹿な。そんな現象は、前代未聞だ。それほどの規模の魔術的干渉を行えば、この地区一帯の魔力平衡(マナ・バランス)が、大きく崩壊するはずだが……」


隊長のその一言が、俺の心臓に突き刺さった。

やはり、そうだ。俺の力の行使は、この世界の理に、確かに、傷をつけている。専門家が調べれば、その痕跡は、いずれ見つかってしまうだろう。


全ての報告が終わった時、隊長は、深く、重いため息をついた。


「……信じられん。まさか、学生である君たちが、我々が半年も追っていた『黒蛇(ブラック・サーペント)』のアジトの一つを発見するとは……」

「ブラック・サーペント……!」

「ああ。王都で暗躍する、禁術専門の犯罪組織だ。君たちは、とんでもないものを、踏み抜いてくれた」


隊長は、俺たちを叱責するでもなく、むしろ、その功績を称えるような目で見つめた。

「大手柄だ、諸君。心から感謝する。この男と、証拠品は、我々が責任を持って預かろう」


その言葉に、俺たちは、ようやく安堵の息をついた。

これで、俺たちの役目は終わりだ。あとは、プロである騎士団に任せればいい。


「だが」


部屋を出ようとした俺たちを、隊長が呼び止めた。


「一つ、気になることがある。この地図に記された、赤い印……。そのほとんどが、王都の魔力供給ラインに集中している。だが、数カ所だけ、全く関係ない場所にも印がついている」


隊長は、地図の一点を指差す。


「……特に、この一点。印が、集中している」


その場所を、俺たちは、知っていた。

いや、知りすぎていた。


そこは、王立アエテルガルド魔導学院。俺たちが、毎日を過ごしている、学び舎だった。


隊長は、俺たちの顔を見ながら、静かに、しかし、重い言葉を続けた。


「奴らが言っていたという、『器』……。あるいは、その『器』の準備に必要な何かが、君たちの学院にあるのかもしれん。我々も警備を強化するが、くれぐれも、注意を怠るな」


その言葉は、俺たちが得た、束の間の安心感を、粉々に打ち砕いた。


敵の巣穴の一つを潰した。だが、それで終わりではなかった。

本当の脅威は、今も、俺たちのすぐ側に、潜んでいる。


俺たちは、顔を見合わせることしかできなかった。

戦いが、終わったのではなく、始まったばかりなのだという、残酷な事実を突きつけられて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る