第二十七話『器と、黒い蛇』
『――例の『器』の準備は、最終段階に入っている。しくじるなよ』
冷たい声の残響が、カビ臭い地下室に吸い込まれていく。
通信機の光が消え、後に残されたのは、墓場のような静寂だけだった。
俺たち三人は、金縛りにあったかのように、その場に立ち尽くしていた。
今、俺たちは、間違いなく、敵の、それも、かなり上位の存在の声を、聞いてしまったのだ。
「……『器』……?」
セレスが、震える声で呟く。
その言葉に、俺の心臓だけが、他の二人とは全く違う意味で、冷たく跳ねた。
『世界の安定値の低下』『未定義エラーの発生』。
俺が引き起こした世界の『バグ』が、敵の言う、その『器』の準備とやらに、悪影響を及ぼしていないと、誰が言い切れる?
俺は、もしかしたら、敵の計画を、手助けしてしまったのかもしれない。
「それに、帳簿に描かれていた、あのシンボル……」
リリアーナが、険しい表情で付け加える。
――尾を喰らう、『黒い蛇』。
それが、俺たちが追うべき、敵対組織の名称、あるいは象徴なのだろう。
「……長居は無用よ」
最初に我に返ったのは、やはりリリアーナだった。
「この通信機で、向こうにこちらの異常が伝わらないとも限らない。すぐにここから離脱するわよ。証拠は、十分に揃った」
彼女の言葉に、俺とセレスは、はっと頷く。
俺たちは、気を失っているクローリーを魔力封じのロープで厳重に縛り上げ、研究室にあった帳簿や重要そうな資料、そして、あの黒水晶の通信機を証拠品として確保すると、足早に、あの忌まわしい骨董品店を後にした。
◇
王都の夜は、すでに始まっていた。
俺たちは、人目を避けながら、リリアーナの先導で、王都騎士団の詰め所へと向かった。
彼女が、家の紋章が入った身分証を提示すると、衛兵の態度は一変し、俺たちは、奥の応接室へと通された。
しばらくして、部屋に入ってきたのは、あの時、学院で事情聴取を行った、特務部隊の隊長その人だった。
「――クレスフィールド公爵令嬢。このような時間に、一体、何事かな」
事情を知らない隊長は、いぶかしげな表情をしている。
だが、リリアーナが、テーブルの上に、確保した証拠品の数々――特に、『黒い蛇』の紋章が入った帳簿と、黒水晶の通信機を置いた瞬間、その顔色が変わった。
俺たちは、今日、目撃したこと、そして、最後に聞いた、謎の通信の内容を、ありのままに報告した。
俺たちの報告を聞きながら、隊長は、特に、人形たちが同士討ちを始めたという点に、深く眉をひそめた。
「……人形たちの制御を、外部から奪ったかのような、統率の取れた内乱、だと?馬鹿な。そんな現象は、前代未聞だ。それほどの規模の魔術的干渉を行えば、この地区一帯の魔力平衡(マナ・バランス)が、大きく崩壊するはずだが……」
隊長のその一言が、俺の心臓に突き刺さった。
やはり、そうだ。俺の力の行使は、この世界の理に、確かに、傷をつけている。専門家が調べれば、その痕跡は、いずれ見つかってしまうだろう。
全ての報告が終わった時、隊長は、深く、重いため息をついた。
「……信じられん。まさか、学生である君たちが、我々が半年も追っていた『黒蛇(ブラック・サーペント)』のアジトの一つを発見するとは……」
「ブラック・サーペント……!」
「ああ。王都で暗躍する、禁術専門の犯罪組織だ。君たちは、とんでもないものを、踏み抜いてくれた」
隊長は、俺たちを叱責するでもなく、むしろ、その功績を称えるような目で見つめた。
「大手柄だ、諸君。心から感謝する。この男と、証拠品は、我々が責任を持って預かろう」
その言葉に、俺たちは、ようやく安堵の息をついた。
これで、俺たちの役目は終わりだ。あとは、プロである騎士団に任せればいい。
「だが」
部屋を出ようとした俺たちを、隊長が呼び止めた。
「一つ、気になることがある。この地図に記された、赤い印……。そのほとんどが、王都の魔力供給ラインに集中している。だが、数カ所だけ、全く関係ない場所にも印がついている」
隊長は、地図の一点を指差す。
「……特に、この一点。印が、集中している」
その場所を、俺たちは、知っていた。
いや、知りすぎていた。
そこは、王立アエテルガルド魔導学院。俺たちが、毎日を過ごしている、学び舎だった。
隊長は、俺たちの顔を見ながら、静かに、しかし、重い言葉を続けた。
「奴らが言っていたという、『器』……。あるいは、その『器』の準備に必要な何かが、君たちの学院にあるのかもしれん。我々も警備を強化するが、くれぐれも、注意を怠るな」
その言葉は、俺たちが得た、束の間の安心感を、粉々に打ち砕いた。
敵の巣穴の一つを潰した。だが、それで終わりではなかった。
本当の脅威は、今も、俺たちのすぐ側に、潜んでいる。
俺たちは、顔を見合わせることしかできなかった。
戦いが、終わったのではなく、始まったばかりなのだという、残酷な事実を突きつけられて。
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