第8章:甘々バレと、誤解と公式

 ライブ翌日、朝10時。

 ハルは、ソファに座ったままスマホを見つめて固まっていた。


 その背後では、紅が水を飲みながら、ちらっと覗き込んでくる。


「……なに見とるん?」


「……紅、覚えてる?昨日、あの、ほら……ちょっと取り乱したあと、裏でさ……」


「……」


 紅の頬が、わずかに赤くなる。

 視線を逸らして、ごくりと水を飲み干す。


「……ああ、あれな。キスのとこな」


「やっぱ覚えてるよね!? しかも“キスのとこ”って言ったね今!? そこまで明確に!?!?」


「なんや、否定するん?」


「いや、否定は……しないけど!てかあれ、けっこう……だいぶ、えっちじゃなかった?」


「首筋にキスしたん、ハルちゃんやん」


「それは……そうだけど!!!!!」


 2人の静かな攻防の最中、ハルのスマホに通知がどんどん届く。


【#羽交い締めキス事件】

【#紅ちゃんがふにゃってなった理由】

【#ハルさま、紅ちゃんの首に“なにかした”件】


 SNSのトレンドには、明らかにおかしな単語が踊っていた。


 中には、拡散されたファン撮影の映像が切り取られ、

 ハルが紅を後ろから抱きしめ、

 紅がふにゃりと膝を抜かす瞬間をスロー再生にした動画まで存在する。


「ハルさまの、手の位置がやばい」

「紅ちゃん、絶対“されてる”顔してる」

「これはガチ。これは営業じゃない」

「これは女同士の演出を超えてる」

「てかあれ、ふにゃってなってる理由、1択しかないでしょ???」


 ハルは画面をスクロールしていた手を止め、

 静かに紅に向き直った。


「ねぇ、これ……どうする……?」


「……もう遅い気がするなあ」


 紅は、涼しい顔でカップを片付けながら呟いた。


「だって、これ見て。

“紅ちゃんが“ふにゃ〜”ってなるの、たぶん首筋キス”って言われとる」


「バレてる!!!!!!」


「誰にも見られてないと思っとったのに、なあ……」


「……紅の、首筋反応……もうファンに共有されてるのやばすぎるでしょ……」


 さらにタイムラインを遡ると、

 ファンたちの考察は、加速していた。


 ・「羽交い締めで止めるの、百合営業じゃなくてガチの“暴走阻止”に見えた」

 ・「暴れようとした紅を止めて、裏で“落ち着けの首筋キス”とか、尊すぎて泣いた」

 ・「冷静に考えて、紅→ハルの好意ヤバない?」

 ・「でもポジション的には、ハル姉×紅妹だよね」

 ・「百合で言うと攻×受でしょ。王子様×かわいい妹」


「……ポジション的には、ハル姉×紅妹だよね」


 この一文を読んだ瞬間、

 ハルと紅はぴたりと動きを止めた。


「……え、これ、もしかして」


「……うち、“妹で受け”って思われとる?」


「いや、まぁ……ポジション的には……」


「ちがうよ!? あたしが、毎晩甘え倒して、

 膝枕されて、なでられて、

“甘やかされてる”のは、あたし!」


「いや、それを世間は知らんから……」


「それはそうなんだけどっ!!」


 ハルは顔を真っ赤にしながらソファに崩れ落ちた。

 紅はやれやれという顔で、そっとタオルを差し出す。


「とりあえず、公式はどう動くんやろ」


「うち的には、黙っててほしい……もう……このまま何もなかったことにして……」


「……無理やと思う」 


 そう言って、紅がテレビをつけた瞬間――


『芸能情報フラッシュ!』のコーナーに、ふたりの映像がばっちり流れていた。


『昨日のスペシャル対バンライブで起きた、通称“羽交い締めキス事件”――

 動画が拡散され、ファンの間で“本当に付き合ってるのでは”との声も。

 所属事務所からのコメントはまだなし。今後の動向に注目が集まっています!』


「うわあああああああああああ」


「テレビ出とるがな」


「やめてえええええええええええええ!!!!!」


 * 


 SNSでの“羽交い締めキス事件”が加熱する中、

 ファンたちの考察は次のステージへと突入していた。


「やっぱハルさま、紅ちゃんを引っ張る姉ムーブ最高」


「王子様な姉に、ちょっとワガママな不思議系妹!尊い!!」


「ライブの一連の流れ、もう完全にハル姉×紅妹案件では?」


 紅がスマホを眺めながら、小さく首を傾げる。


「……うちって、そんなに“妹感”ある?」


「ない!!!!ないないないないないないない!!!!」


 ハルは全力で否定した。 


「紅のどこが妹なの!?」


「いや、実際は違うってあんたもわかっとるやろ。でも、こう見えるんやて」


「いやいや、違う! 紅は、ダンスも歌も完璧で、スタイルは小さいけど頭も回って、

 精神年齢どう考えてもあたしより上で、

 部屋はミニマリストで風呂掃除ちゃんとしてて、

 いつもあたしのダメなとこ拾ってくれて、

 寝る前には“もう甘えてええよ”って……っ!!」


 言いながらハルの顔は真っ赤になる。


「ほら、やっぱあたしが“妹で甘え受け”なんだってば……」


 紅は、そんなハルをじっと見つめて、ぽつりと呟いた。


「……ちょっと黙っとるだけで、世界からの認識って、ぜんぜん変わるんやな」


「ね!? そうなんだってば!? 逆なのに!? ほんとに逆なのに!!」


「ハルちゃん……落ち着いて、深呼吸」


「無理無理無理、あたしが攻って思われるのはキツいってぇ……!」


 ハルはソファのクッションに顔を埋めて、うなだれる。

 その背中を、紅がぽんぽんと優しく撫でた。


「ま、イメージってのは、変えようとして変わるもんでもないしなあ」


「……でもさ、ファンに嘘ついてるみたいで、ちょっと……モヤモヤする」


 紅は少し黙ってから、静かに言った。


「うちは……ハルちゃんがハルちゃんのままでいてくれたら、それでええよ」


「……紅」


「うちは知っとるし。“あたしだけが知ってる”で、十分特別やもん」


 ハルは、その言葉にじんわりと顔をあげた。


「……ずるいなぁ、紅。

 その言い方されたら、全部どうでもよくなるじゃん」


「うん。そやろ」


 ふたりは見つめ合って、ふっと笑う。


 テレビでは、またワイドショーが流れていた。

 コメンテーターが「もしかして百合?」「ファンが勝手に言ってるだけでは?」などとにこやかに話している。


 画面の端には、写真が映っていた。


 あのライブのラスト、

 紅がハルの手を取って、

 ハルが紅の肩に手を添えていた、あのポーズ。


 そこに添えられたテロップは――


「王子様と妹姫」

“禁断の百合”の幕開け!?


「……違う」


「うん、違うなあ」


「……でも、いいよ。

 あたしだけは、ほんとの“構図”知ってるから」


「うん。うちらだけの、ほんまもんやな」


 そしてふたりは、手を繋いだ。


 誰にも気づかれないように、指先だけ。


 その繋がれた手の中に、

 誰にも見せない正しい関係が、静かに宿っていた。


 * 


 会議室の空気は、いつもよりざわついていた。

 所属事務所の幹部たち、広報、SNSチーム、マネージャーのアキ。

 そして当事者――ハルと紅。


 中央のモニターには、SNSでバズっているハッシュタグがずらりと並ぶ。


【#羽交い締めキス事件】

【#ハル姉紅妹】

【#百合営業かガチか論争】


「……まずいなこれ。完全に一人歩きしてる」


 広報のひとりが、ため息混じりに言った。


「まずいっていうか……もはや止められないよね。ファンの熱狂って、そういうもんだし」


 アキが机に肘をつき、珍しく渋い顔をしていた。


「私は……やめた方がいいと思います」


「理由は?」


「2人に負担がかかりすぎる。

 演出にしてはリアルすぎるって見られてるし、

 逆に、“あれ、ガチなんじゃ?”って勘ぐられる可能性も高い。

 それって、結局ふたりを傷つけることになる」


 一瞬、室内に沈黙が落ちた。


 その空気を破ったのは、プロデューサーだった。


「でもさ、だからこそ“公式”がうまく乗るのが大事なんじゃない?」


「……は?」


「“ガチ”かどうかの憶測を避けるためにも、

 こっちが“百合営業です”って笑顔で出しとけば、

 ファンの間で“ああ、そういうノリね”って流してくれる。

 むしろコンテンツとして楽しんでもらえるほうが安全でしょ」


 アキは明らかに納得いかない顔をした。

 その横で、ハルと紅は顔を見合わせ――そして、同時に、苦笑した。


「……ねぇ、紅」


「ん」


「これ……もう、流れには逆らえない感じ?」


「逆なんやけどなあ」


「うん。めっちゃ逆だよね」


「でも、“うちらだけが知ってる逆”って、ちょっとだけ特別かも」


 アキが思わず噴き出した。


「……なんなん、その開き直り」


「だってさ、どうせ誰にもわかんないもん。

 あたしが膝枕されて、甘やかされて、泣きついてるとか、

 ファンの人たちには想像もされてないでしょ」


「うん。“王子様が守ってる”って思われとるな」


「実際は、“王子様”が紅のお布団で甘えてるわけで」


「やめて、ほんとのこと言わんといて」


 ふたりはふふっと笑い合う。

 その空気が、少しだけ会議室をやわらかくした。


「じゃあ……営業に乗っかるのは、OKってことで?」


 広報が確認すると、

 ハルは一度だけ息を吸ってから、静かに頷いた。


「……ちゃんと事実は伏せてくれるなら、営業は営業としてやるよ。

 でも、裏ではちゃんと、あたしは“妹”でいたい」


「はいはい、うちがちゃんと甘やかしたる」


「やった~~~!じゃあそれで許す!!」


 アキが頭を抱えるのも無理はなかった。


 けれどその表情も、どこか安心しているように見えた。


 ハルと紅が並んで廊下に出る。


 そのまま手を繋ぐことはなかったけれど、

 ふたりの距離は、他の誰よりも自然だった。



「紅。こうなったら、わたしらもちゃんと“姉妹”の演技、練習しないと」


「演技って言うと、また棒読みになるで?」


「はっ。失礼な! 雰囲気はあるもん!!」


「ほな、“雰囲気だけの姉”でがんばって」


「“真実の妹”が言うと説得力あるねぇ……」


 くすくすと笑いながら、ふたりは歩いていく。


 甘やかされている側と、甘やかしている側。

 それを知っているのは、世界で彼女たちだけだった。


 そして、誰にも見せない“本当”の関係を、

 ふたりはちゃんと守りながら、

 今日も“姉妹アイドル”として、ステージに立ち続ける。

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