第7章:暴走紅、羽交い締めハル

 ライブ会場の照明が落ちると、空気が一変する。

 観客のざわめきが、呼吸を潜めるように静まり、

 スポットライトが、ステージにまっすぐ降り注ぐ。


「本日、トリを務めます――Stella☆Nova、そして……Crimson Beat!」


 紹介の声と同時に、客席から歓声が弾ける。

 中央のセンター位置、紅の姿にライトが当たった瞬間、

 客席から「紅ちゃーん!」という甘やかな声がいくつも飛んだ。


「キャー!ハルさまぁぁああ!」


「王子〜!!こっち見て〜〜!」


 対バンの特別ステージ。

 観客の大半が女性で、その誰もが双眼鏡を構え、目を潤ませていた。

 ファン層の色は明確に分かれている。


 Stella☆Novaは、王子様ハル様推しの大人女子たち。

 Crimson Beatは、紅を甘やかしたいお姉様たち。


 それぞれの熱量がぶつかり合いながらも、

 今夜は「推しが共演する奇跡」に揺れる夜。


 ステージ中央、紅は冷静だった。

 そのはずだった。


 演じている。不思議キャラを。

 感情は抑えて、あくまで“計算されたミステリアスさ”を。


 マイクを構え、視線をすっと流しながら、

 決められたセリフを口にする。


「今夜は……夢かも。ふわふわしてて……けど、全部、ホンモノだよ」


「紅ちゃあああああああ!!」


 客席が悲鳴のような歓声を上げる。


 その横で、ハルが一歩前に出て続ける。


「夢じゃないよ。わたしたちが今、ここにいる。それが証拠だろ?」


「ハルさまー!語彙ぃぃぃいいい!」


 王子様ボイス。

 決まった。

 会場が震えた。


 ハルと紅が視線を交わす。

 いつもの“ライバル演出”を意識して、紅はくいっと顔を逸らした。

 それもまた、会場の「尊い!」の歓声を誘う。


 ステージが進む。

 楽曲が交差するように、ユニットをシャッフルしたパートも展開。

 Crimson Beatの楽曲をハルが一部カバーし、

 逆に紅がStella☆Novaの一節を歌い上げた。


 その瞬間、会場はまるで夢のような興奮に包まれた。


 しかし、事件はその直後に起きた。


 ――間奏のMCパート。


 ステージ上の紅が、マイクを持って観客を見渡していた。


「……ふふ、今夜、すごい景色……

 わたし、ステージ立つたび、夢叶ってる気がする」


 その言葉に、会場がざわめく。

 一部のファンが「がんばってー!」「大好きー!」と声をかける。


 だが――

 そのなかに、明確な“別の色”の声があった。


「夢叶っても、演技棒だとな〜〜!!」


「あー、あれか!ドラマ!ハルのやつな!」


「雰囲気でごまかしてる感じだったよね〜!」


 笑い声が、かすかに混じった。


 小さい声だった。

 だが、紅の耳にははっきりと届いた。


 血が、逆流するような感覚。 


 演技のことを言っていた。

 確かに、ハルのことを。


 紅じゃない。


 けれど――

 それが紅にとっては、何より許せない“引き金”だった。


 紅の体がわずかに揺れた。


 マイクを持った手が、ほんの少しだけ、強く握り締められた。


 観客はまだ騒がしい。

 だれも、紅の小さな“揺れ”に気づいていない。


 だが、ひとりだけ。

 モニターの向こうで、ハルは、その“異変”を見逃さなかった。


(紅……?)


 紅の目が、明らかに違っていた。

 笑っていない。

 キャラでもない、素のまなざしだった。


 怒りと、焦りと、衝動と、何かをぶつけたい“熱”。


(やばい、これ、紅……) 


 紅は一歩前に出ようとしていた。


 明らかに、MCの流れではない。

 明らかに、何かを言おうとしていた。


 その瞬間、ハルが本能で動いた。


 駆け寄って、紅の肩をつかむ。


「紅っ」


「――離して、ハルちゃん」


 その声は、低くて、鋭くて、

 でもどこかで“泣きそうな子ども”のようだった。


(このままじゃ、飛び出す)


(このままじゃ……紅が“壊れる”)


 ハルの体が、無意識に動いていた。


 * 


 紅の肩が震えていた。


 マイクを握る指先は、白くなるほどに力が入っている。

 ほんの数秒前まで“演出されたミステリアス”だったその姿から、

 今は感情が剥き出しになりかけている。


 客席のどこかから聞こえた「演技が棒」――

 その何気ない一言は、まるでハルの心を刺したようで、

 紅にとっては、それ以上のことだった。


「紅っ、だめ!」


 ハルの声が割れるように響いたとき、

 紅は一歩、ステージの前へと踏み出していた。


 観客の歓声が、ざわめきに変わる。


 次の瞬間、ハルは駆け寄り、

 紅の体を後ろから羽交い締めにした。


「離して……離してよ、ハルちゃん!」


「やだっ、だめ!」


「離してって言ってるやんか! なんで止めるの!」


「だから……あたしが、守りたいから!!」


 ハルの叫びが、照明の中に溶けていく。


 会場の空気がざわつく中、ハルは全身で紅を抱きとめていた。

 暴れようとする体を、腕の力でなんとか支える。

 それでも、紅の足は一歩、客席のほうに踏み出そうとしていた。


「紅、あたしに言って。何があっても、あたしが聞くから!」


「うちは、うちはっ……っ、ハルちゃんのこと、馬鹿にされたんやで!?」


「わかってる。でも、暴れるのはちがう!」


「うちは、うちは……っ、悔しいっ……!」


 紅の叫びが、マイクに乗ってしまいそうなほど激しくなる。

 ハルはそっと、紅のマイクを自分の袖で覆って音を消しながら、

 舞台袖のスタッフに目配せした。


 すぐに照明が落ちる。

 非常用のスモークが入る。


 あらかじめ組まれていた演出のように見せかけて、

 ふたりはスタッフの誘導で、静かにステージから“捌けさせられた”。

 舞台裏。

 照明の落ちた廊下に、ふたりの息遣いだけが残る。


 紅はまだ、震えていた。

 体から怒りと悔しさの熱が抜けきっていなかった。


「はぁ……はぁ……なんで、なんで止めたん」


「暴れたら、もうステージに立てなくなるかもしれない。

 紅が傷つけられるのを、あたしは見てたくなかった……」


 紅は肩で息をして、俯いた。


「うち、怖かってん。

 ハルちゃんが、ハルちゃんのこと、見下されて、甘やかしてるのに、

“なんもできんくせに”とか、そんなふうに思われてるかもって思って――

 悔しくて、泣きそうになって、ほんま、殴りたかった……」


 その声は、怒りというより、泣きじゃくる子どものようだった。


 ハルは、ゆっくりと紅の腕を引いた。

 そして、そっとその体を自分の胸に抱きしめる。


「紅」


「……なに」


「あたしの大事な人だから。

 あたしのこと、そんなに怒ってくれるの、ほんとに、うれしい」


 紅の背中が、すぅっと揺れた。


 ハルの指が、紅の首元にそっと触れる。

 そして、耳元で小さく囁く。


「でもね、暴れる前に……こうすればよかったんだよ」


 そのまま――

 ハルは、紅の首筋に、そっとキスを落とした。


「っ……!」


 紅の体から、すぅっと力が抜ける。


 膝がふらりと崩れそうになるところを、ハルが支える。


「ほら、ふにゃ〜ってなってる」


「……う、うるさい」


「紅は首筋にキスされると、絶対ふにゃ〜ってなる。知ってたもん」


「こ、このタイミングでやるなや、ばかっ……」


「でも、こうしないと止まんないでしょ、うちの紅は」


 紅は顔をハルの胸に埋めて、もぞもぞと動くだけだった。

 耳まで真っ赤になっている。


 ハルは、そんな紅の髪をそっと撫でながら、

 静かに言葉を重ねた。 


「ありがとう、紅。あたしのこと、そんなに思ってくれて。

 でも、もう、ひとりで抱え込まないで。

 あたしに、もっと甘えて。怒りも、悲しみも、なんでも、ぶつけて」


「……ハルちゃん」


「紅の全部、あたしが受け止めるから」


 少しずつ、紅の呼吸が落ち着いていく。


 感情の嵐が過ぎたあとに残ったのは、

 寄り添い合うふたりの、しずかなぬくもりだった。


 ふたりはスタッフの合図を受けて、もう一度ステージに戻る準備を始めた。

 ただ、次に登壇したとき――

 観客の誰もが感じることになるだろう。


“さっきまでと、なにかが違う”ことを。


 * 


 ステージの照明が、もう一度ゆっくりと上がる。

 さっきまでの熱気を再点火させるように、観客が一斉にざわめいた。


「……あれ、雰囲気変わった?」


「紅ちゃん……なんか、泣いてた?」


「ハルさまが……いつもより柔らかい……?」


 紅とハルは、再び中央に立っていた。


 だが――

 たしかに、先ほどまでと“なにか”が違っていた。


 紅の表情は、どこか熱を含んでいて、

 視線をまっすぐ客席に向けていたはずが、

 今はほんの少しだけ、ハルの方へ寄っている。


 ハルの姿勢は、いつもの堂々とした“王子様スタイル”のままだ。

 けれど、その隣にいる紅の肩を、

 ほんの一瞬、そっと触れそうな距離で見守っていた。


 ふたりの間に、空気のゆらぎがあった。


 それは恋愛の仕草でもなければ、

 演出で盛られたアイドルらしい“百合営業”でもなかった。


 ただそこに、

 なにか本当のものが、存在していると――

 観客は、全員が、直感的に感じ取っていた。


 次の曲のイントロが流れ始める。

 2人ユニットの、特別編成楽曲『shining trick』。

 互いを意識するような歌詞の掛け合いと、手を取り合うような振付で、

 観客は「尊い!!」の連続。


 けれど、その中で、

“何かを知ってしまった後”の紅の表情が、

 あまりにも強くて、柔らかくて、

 ファンの胸を一撃で貫いた。


「紅……目が潤んでる」


「これ演技?演技なの?ちがうよね?演技じゃないでしょ……?」


「え、今の紅ちゃんの歌声……ぜんぜん違う」 


 紅の声は、確かに震えていた。


 それは怒りでも、悲しみでもない。

 強くて、あたたかくて、愛情に満ちた震え。


 その感情が、歌声に乗って、客席の奥まで届いていた。


「……私だけが、あの人を知ってる。

 その涙も、甘えた声も、誰にも見せない顔も。

 わたしが守る、あの人のこと」


 歌詞と実際の想いが重なっていく。

 まるで、今この場で“告白”が行われているかのように。


 ハルは、まっすぐ紅の方を見ていた。


 優しい微笑みをたたえながら、

「ありがとう」と言うように、そっと手を差し出した。


 紅は、その手を握る。


 それだけで、

 客席からは一斉に悲鳴のような声が漏れた。


「え、やばくない!?今の……今の演技じゃないよね!?」


「演技でもよくない!?でも……まじでこのふたり、なにかある……!」


「完全にハル姉×紅妹じゃない……うわエモい!!」


 ネットは即座に反応した。


 ライブの映像がリアルタイムで切り抜かれ、

「この時の紅ちゃん、完全に彼女の目してる」とか、

「羽交い締めの直後と思われる」「ふにゃ顔からの切り替えが神」といったタグが踊る。


 ステージの上では、ふたりが最後の決めポーズをとっていた。


 紅は、少しだけ体をハルに寄せ、

 ハルは紅の肩に手を添え、カメラのフラッシュに微笑む。


“営業”じゃない。


“匂わせ”でもない。


 ただ、そこに“本当”があるような気がして、

 観客は、息を飲んでいた。 


 やがて、照明が落ちる。

 会場の拍手と歓声が波のように響き渡る。


 そして――

 ふたりが手を繋いだまま、軽く会釈して、

 一歩、舞台裏へと戻っていったその背中にも、

 観客はひとつの“予感”を感じていた。


 あのふたりは、なにかを共有している。

 それはもう、偶像の域を超えている。

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