第3章:ハルの演技、紅の嫉妬
「ドラマの仕事だって。受けるの?」
その一言は、控室の隅で、紅がぽつりと放ったものだった。
ハルは、思わず手にしていたペットボトルを落としそうになった。
「あっ、やっぱ知ってた? あー……やっぱウワサになってたか……」
紅はうなずいた。
表情は静かで、読みづらい。けれど、その沈黙の質には、微妙なものが混ざっていた。
「内容、聞いた?」
「……少しだけ。“女の子同士の恋”って」
「うん、それ」
ハルは照れたように笑いながら、頭をかいた。
「事務所が、いけるって言ってくれて。
ちょっと背伸びだけど、雰囲気は合ってるって……」
その言い方は、どこか弱気で。
決して、完全に自信を持っているようなものではなかった。
台本の入ったファイルを紅に見せる。
紅はそれを受け取り、ぺらぺらとページをめくった。
「演技、やったことないけど……なんか、言ってる意味が、わかんない台詞ばっかでさ」
「……うん」
「だから、ちょっと、練習付き合ってくれない? 紅」
紅はほんの一瞬、眉を寄せた。
でも、そのあとで軽くうなずいた。
「……わかった。読むだけなら、ね」
その夜。
紅の部屋の床にクッションを並べて、台本を持ち寄っての即席稽古。
「このセリフ、『あなたを好きになってはいけないって、わかってた。でも、気づいたら目で追ってた』……ねぇ、これ、どういう気持ちなの?」
「それを自分で考えるのが演技ってもんでしょ」
「紅、冷たっ……!」
「だって、甘えすぎ」
ハルはむうっと膨れながら、台本を持ち直す。
その仕草が、どうにも“演技”というより“甘え”にしか見えないのが、紅にとってはまたモヤモヤする。
「……じゃあ、もう一回。最初から」
「はいはい。『好きになってしまったら、終わり』、のところから?」
「うん!」
読み合わせが続く。
ハルは、たどたどしい。
感情のこもらない声。
感情の込め方を、どこに乗せていいか分かっていない。
けれど――
その表情だけは、とても綺麗だった。
紅は、ふと視線を止める。
カメラが回っていなくても、照明が当たっていなくても。
真剣に台本を見つめているその姿は、やっぱり人の目を引く。
「……ハルちゃんって、ずるいくらい、絵になるんだよね」
紅がぽつりとつぶやいた。
「えっ? なに、今の、褒めた?」
「褒めてない」
「褒めてたよね!? ツンデレきたこれ~~~!」
「うるさい。次、いくよ」
でも、紅の声に、どこか焦りが混ざっていたことに、ハルは気づかない。
読み合わせが進むうちに、
紅の表情が徐々に険しくなっていく。
ページを繰る手が、途中で止まった。
「……なに?」
ハルが首を傾げる。
紅は、黙ってページをめくり直す。
そして、該当の箇所を、指でトントンと叩いた。
「これ。……キス、するの?」
「えっ……ああ、あああ、うん、うん、ラストのほうね……」
ハルは気まずそうに笑った。
「まだ、そこは確定じゃないって。監督が“雰囲気でやれたら”って感じみたいで……その……」
「ふうん」
紅の声が、わずかに冷たくなった。
「演技なんでしょ?」
「う、うん、もちろん! 演技、演技だよ? お仕事だし」
「……でも、いやだな」
「紅?」
「……演技ってわかってる。でも、嫌だ」
紅の声が、細く震える。
「あたし、……自分がハルちゃんの隣にいられるの、演技じゃないから。
それだけは、嘘じゃないから。だから……なんか、嫌」
唇を噛む紅の姿に、
ハルは何も言えなくなる。
部屋の空気が、しんと静まる。
「紅、ありがとう。練習、付き合ってくれて」
「……うん。あとは、自分で頑張って」
紅は、それだけ言うと、
すっと立ち上がって、バスルームへと消えていった。
置き去りにされた台本と、
ページの隅に、指でぎゅっと折り曲げた跡。
ハルは、それをそっと開きながら、思う。
――演技なんて、やっぱり私には向いてない。
少なくとも、紅が悲しむような演技なら、絶対にしたくない。
*
「……本当に、外したいの?」
マネージャー・アキの声は、いつもより静かだった。
会議室の隅。
ドラマの脚本と撮影スケジュールを挟んで、ハルはじっと正面を見据えていた。
「……はい。キスシーン、無しにできないですか?」
「演技なんだよ? 現場も、あくまで表現の一環として、特別な意味はないって話してたでしょ」
「でも、それでも、できません」
その言葉は、ハルにとって簡単に出てくるものではなかった。
アイドルは、求められるものに応える存在。
番組、スポンサー、スタッフ、ファン。
“やります”と言えば、次に繋がることだってある。
わがままを言えば、それだけ道が狭くなる。
それは、ハルがいちばんよく分かっていた。
でも、それでも。
「……あたし、今回の作品、すごく好きなんです。雰囲気も、セリフも、世界観も。
だからちゃんと、心をこめて演じたいと思ってます」
「うん」
「……だからこそ、紅が悲しむようなことは、したくないんです」
その言葉に、アキが目を細めた。
「紅ちゃんのため、なんだ」
「……紅は、全部に正直な子なんです。
自分が“嫌だ”って思う気持ちを、我慢して見ないふりしたりしない。
あたしには、そういうとこ、すごくまぶしくて……」
「……」
「紅を大事にしたいって思ったら、もう……これだけはできないなって。
自分でもびっくりするくらい、すぐに思いました」
アキは、小さく息をついて、
そのまま立ち上がると、そっとハルの頭を撫でた。
「……わかった。あたしからも話してみる。
たぶん、完全に“無し”にはできないけど、アングルでごまかす方向で相談できると思う」
「……ありがとう、アキ」
部屋を出ると、長い廊下の先にある窓から、夕陽が差し込んでいた。
橙色の光の中に、ハルはひとりで立ち止まる。
心が、すうっと軽くなる。
紅のことを守れる、と思っただけで、
胸の奥のモヤモヤが、少し晴れた気がした。
「……紅、どんな顔するかな」
その夜。
ハルは、いつものように紅の部屋の前に立って、インターホンを押した。
扉が開くと、いつもより少し無表情な紅が顔を出す。
「……練習?」
「ううん。もう、練習しない」
「え?」
部屋にあがり、ハルは台本を紅に見せた。
ページの端、キスシーンの箇所には、赤いペンで大きく×が引かれている。
「これ、なくなった。
……正確には、“カメラに映らないキス”に変わった。
つまり、“見えない”ってこと。演技の流れはあるけど、直接じゃない」
紅は黙って台本を受け取って、それを見つめた。
しばらくして――
「……言ったんだ」
「うん。自分で言った。アキにも、制作にも」
「どうして?」
ハルは、少しだけ目を伏せた。
それでも、ちゃんと答えた。
「紅が、嫌がってたから」
「……演技なのに?」
「うん。演技ってわかってても、紅が悲しいのは嫌だった」
「……ハルちゃん、バカ」
紅は、そう言いながら、でも顔をそらして口元を少しだけゆるめた。
「……紅」
「なに」
「“紅が嫌がるからやめた”って言ったけど――
たぶん、それだけじゃない」
紅が、目を向ける。
ハルは、少し照れたように笑って続けた。
「たぶん、あたしが、したくなかったんだ。……他の人と、そういうシーン。
ほんとに紅が好きなんだなって、気づいたから」
紅の目が、見開かれる。
しばらく沈黙。
そのあと、紅はぽつりとつぶやいた。
「……バカ。……知ってるよ、そんなの」
「……えっ」
「とっくに、知ってた」
そう言って、紅は小さく笑って、
そっとハルの髪に手を伸ばした。
「……ありがと。……あたしのために、選んでくれて」
「……選んだっていうより、選んじゃった、って感じかな……」
「それでも、嬉しかったよ」
ふたりの手が、自然に触れた。
どちらともなく、指が絡む。
ハルは、まるで演技のワンシーンのように、静かに言った。
「こういうのなら、演技じゃなくても、ずっとしてたいな」
「……あたしも」
部屋の照明が、ふたりの頬をやわらかく照らす。
誰にも見せない、
本当の“心で交わしたやりとり”が、今ここにあった。
*
夜の紅の部屋は、いつもと変わらず静かだった。
壁の鏡が柔らかく室内灯を反射して、クッションが並ぶ床をふんわりと照らしている。
床の真ん中にはタブレットがひとつ。
その前に、ハルと紅がぴったり寄り添って座っていた。
「……はじまるね」
紅が言うと、ハルは小さく息を吸って、何度も頷いた。
「こっわ……なんか、ライブより緊張してるかも……」
「大丈夫。ちゃんと録画もしてるし、逃げられないよ」
「え、そこは慰めてほしかった……!」
「嘘でも“かわいかった”って言えばよかった?」
「それは本気で言ってよ!」
ふたりの笑い声が重なる。
画面に「月島ハル、連続ドラマ初主演」の文字が現れたとき、
ハルはぎゅっと紅の手を握った。
ドラマが始まった。
いつものアイドル衣装とは違う、
柔らかい私服姿のハルが、画面の中で歩いている。
声は少しぎこちない。
セリフも硬さが残っていて、紅が聞いたことのある“練習中の声”そのままだった。
でも、不思議と浮いてはいなかった。
ハルのまっすぐな瞳や、ふとした瞬間の仕草が、画面に馴染んでいた。
「……なんかさ、棒読みなのに、ちゃんと見られるんだよね」
紅がぽつりとつぶやいた。
「褒めてる?」
「褒めてる。すごく“雰囲気”出てる」
「雰囲気女優って言われそう……でもうれしい……」
ドラマが進むにつれ、
ハルの表情が少しずつ柔らかくなっていく。
紅は、何も言わずにその変化を見つめていた。
そして、あの問題の“ラストシーン”――
キスを匂わせる、けれどカメラには映らない、
照明の落ちる中、肩越しに揺れるシルエットだけが映るシーン。
画面が暗転して、エンディングテーマが流れ始めたとき、
紅はゆっくりと息を吐いた。
「……やらなかったんだね」
「うん。……ほんとに、やらなかったよ」
「……ありがとう」
その言葉に、ハルはそっと紅の肩にもたれかかる。
「……紅が嫌がること、できないよ。……できるわけない」
「……うれしい。……でも、もっとごめんって言わせて」
紅は、ハルの頬に自分の手を添えて、
まっすぐに見つめながら話し始めた。
「わたしさ……ずっと、キャラを演じてばっかりだった。
“求められる紅”を守らなきゃって思って、
甘えることも、弱音吐くことも、忘れてた。
……それで、ハルちゃんにうまく気持ちを伝えられなくて……」
言葉が詰まりかけたとき、
ハルがそっと頭を寄せて、静かに言った。
「うん。わかってたよ、ちょっとだけ」
「え……?」
「なんか、紅の目が……“がんばって作ってる”って感じになってた。
でも、それを言うと、余計しんどくなるかなって思って、言えなかった」
「……わたしも。ハルちゃんが無理して“姉っぽく”しようとしてるの、わかってた」
ふたりの目が合った。
静かで、まっすぐな時間。
そのまま、ハルはふっと微笑む。
「ねえ、紅。あたしさ、もう全部、外では演じてもいいから、
家に帰ったら、紅に甘えさせてもらえたら、それでぜんぶがんばれる気がする」
紅は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと頷いた。
「うん。お家では、あたしがぜんぶ受け止める。……いっぱい甘えて」
「やった〜〜〜〜〜〜!」
ハルはそのまま紅に飛びつくように抱きついた。
「紅ぃぃ〜〜〜〜! 好きぃぃ〜〜〜〜!!」
「うるさい〜〜〜〜〜!」
「撫でて!もっと撫でて!頭なでなでして〜!」
「甘えん坊すぎ!!……はいはい、なでなで」
「ぅぁぁ……しあわせ……」
「……ほんと、バカ」
そう言いながらも、
紅の手は優しくハルの髪を撫でていた。
ドラマよりも、リアルで甘くて、
誰にも見せないふたりだけの愛おしい世界。
翌朝、SNSはハルの話題で持ちきりだった。
《演技はアレだけど雰囲気すごい》
《あの目線、ガチで恋してないと出せないやつ》
《これ、実際に好きな人いるんじゃ…?》
《ハルちゃんの相手役、違和感あった。紅ちゃんだったら良かったのに…!》
そのコメントを横目に、紅がひとこと。
「……わたしも、出たいな。ハルちゃんの相手役」
「えっ!?マジ!?オファーする!?オーディション出す!?」
「ばか」
「紅ぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜っ!」
甘え声が響く朝の部屋。
紅はハルの髪を、またそっと撫でた。
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