第2章:アイドルって、誰のもの?

 その日、楽屋の空気は、ほんの少しだけ違っていた。


 自分の心が勝手に感じているだけかもしれない――そう思ってはみたけれど、

 それでも紅は、スニーカーの紐を結び直す手を何度も止めていた。


 背中のロッカーからは、先輩たちの笑い声が聞こえてくる。

 メイク直しをする音、髪を整えるスプレーの音。

 どれもが自分とは別の世界のもののように感じて、息が詰まりそうだった。


 でも、今日この場所に来られたのは、

 あの人がいたからだった。


 スタッフに案内され、ステージの確認とご挨拶に――

 そう告げられた紅は、ひとり別室へと通された。


 そこには、銀白の光に包まれたような女性がいた。

 鏡台の前でポニーテールを結び直しているその背中だけで、

「プロだ」とわかる空気をまとっている。


 その姿に、喉が音を立てた。

 ずっと画面越しに見てきた人。

 あこがれて、夢に見て、追いかけてきた人。


 月島ハル。


「黒瀬紅です。今日からCrimson Beatに加入しました。……ご挨拶、させてください」


 頭を深く下げた紅の声は震えていたけれど、しっかり前を見ていた。


 ハルはふり返り、少し驚いたような顔をして、それからやさしく笑った。


「そっか。……よろしくね。今日が初ステージ?」


「はい……ずっと、見てました。動画とか……ダンスも歌も全部、すごくて……私、ハルさんに憧れてアイドルになりました」


 ハルは、少しきょとんとした後、照れたように肩をすくめた。


「うわ、それすごいプレッシャー。……でも、ありがとう」


 その笑顔は、思っていたよりもずっと人間らしくて、やわらかくて――

 紅の中で、「画面の中の人」が、「触れられる人」に変わった瞬間だった。


 ステージ。


 紅の心臓は、ずっと走り続けているみたいに跳ねていた。

 耳の奥で自分の呼吸がうるさいほど鳴る。

 でも、足はちゃんと動いていた。


 フォーメーション、立ち位置、カウント――すべてが頭に入っているはずだった。


 けれど、その場に立ったとき、

 紅は自分が、光に呑まれていることに気づいた。


 ハルがいる。


 たったそれだけで、ステージの空気が変わる。

 動きが一段シャープに見える。声が、会場の奥まで届く。


 紅は必死で食らいついた。

 でも、どうしても目がハルに引き寄せられてしまう。


 ――“これが、プロのステージ”。


 どんなに練習してきたつもりでも、

 どれだけ画面越しに追ってきたつもりでも、

 今、目の前で見るハルは、桁違いだった。


 それでも紅は、ステージの最後で、ちゃんと笑った。


 やりきったこと。夢に追いつこうとしたこと。

 そして何より、“あの人の隣に立てた”ことが嬉しかった。


 控室。


 紅は、もう一度だけ、ちゃんと挨拶をしたいと思っていた。

 さっきの言葉は、ちゃんと届いていただろうか。

 あの場所で、何かが通じたと、そう思いたかった。


 でも、楽屋をそっと開いたとき――

 そこにいたのは、まったく違うハルだった。


 椅子にもたれるようにして、ハルは眠っていた。


 舞台で見たときとは別人のように、

 背中を丸めて、口をすこし開けて、柔らかそうな髪がはらりと揺れている。


 傍らにはマネージャーのアキが立っていた。

 彼女はハルの様子を見守っていて、紅に気づくと小さく頷いた。


「……疲れて倒れちゃって。ごめんね、びっくりさせたよね。ごめん、連絡してこなきゃ。紅さん、おねがいしていい?」


 その瞬間、ハルが目を開いた。


「ん……アキぃ……やだぁ……帰りたくないぃ……疲れた……」


「……起きたばっかりなのに、もうわがまま言わないの」


 アキは楽屋をスマホをもって出ていった。


「やだぁ……着替えたくない、脱ぎたくない……しんどいぃ……チョコのむ……」


「チョコは飲み物じゃないよ」


 紅は、呆気に取られていた。


 さっきまで自分が憧れていた「完璧なアイドル」は、

 今、目の前で――ただの甘えん坊な女の子になっていた。


 紅は、なぜか胸がぎゅっとなった。


 びっくりしたのに、怖くはなかった。

 むしろ、うれしかった。

 夢の人だったハルが、“人間”としてそこにいたことが、

 なぜだかとても、愛おしかった。


「……その、ハルさん……あの、衣装、脱がせるの、手伝ってもいいですか?」


「……ん……紅ちゃん……?」


 ハルが、かろうじて紅を認識して、

 眠たげなまま、微かに手を伸ばした。


 紅はその手を取って、そっと引き寄せる。


「腕、上げてください。……いっせーの……せっ」


 力をかけすぎないように気を配りながら、

 舞台衣装のファスナーをそっと下ろしていく。


 ハルは、されるがまま。

 ぼんやりとした顔で、何度も瞬きをしながら紅を見上げていた。


「……紅ちゃん、やさしい……」


「紅、でいいですよ」


「紅……いい名前ぁ……かわいいぃ……」


 脱がせ終わって、

 紅はすぐに楽屋のミニ冷蔵庫から紙パックの飲み物を取り出す。

 イチゴミルク。


「……あまいの、飲みたかったですよね?」


「紅ぃ……天使ぃ……」


 受け取ったハルがぐびぐびと吸って、頬をゆるめる。


「は〜〜〜〜……しあわせぇ……」


 そして、ぽてんと紅の膝に頭をのせてきた。


「……あっ……」


 さすがに戸惑ったが、

 紅は手を止めなかった。


 そっと、ハルの髪を撫でてみる。


 さらさらしていた。

 きっと、舞台の前に手入れをしたばかりなんだ。


 ハルの表情が、ふにゃっとゆるむ。

 猫みたいな声が、小さく喉から漏れる。


「……ん……もっと……して……」


 撫でてほしいとねだる姿が、なんとも言えず無防備で――

 でも、どこか安心して見ていられる。


「ハルちゃん」


 と、紅は呼んだ。


「……ん?」


「私、今日、ほんとうに嬉しかったです。ハルちゃんの隣に立てて。……すごく、ドキドキして」


「そっかぁ……うれし……」


 ハルは目を閉じたまま、笑った。


「紅ちゃん、かわいいなぁ……あたし、もうがんばれそう……」


 その言葉に、紅の胸の奥に、何かが“かちり”と音を立てた。


 甘やかしているのに、

 甘やかされているような――

 不思議な感覚。


 それはきっと、

“この子のことをもっと知りたい”という気持ちからくるものだった。


「紅ちゃん……」


「はい?」


「また明日、会える?」


「もちろんです。会いに行きます。絶対に」


「よかった……ありがと……」


 そう言って、ハルは、紅の膝の上で寝息を立て始めた。


 紅は静かに息をつき、

 その髪をもう一度だけ、そっと撫でる。


 優しくて、頼りなくて、でもまっすぐな人。

 この人を守ってあげたい、と思った。


 たとえ年下でも。

 たとえ体が小さくても。


 この人のことは――私が甘やかしたい。


 ふたりの関係の最初の鍵が、

 この夜、しっかりと音を立ててはまった。


 まだ誰にも知られていない、

 たったふたりだけの、やさしい始まりだった。


 *


 舞台の上で、ふたりの距離は絶妙に“開かれて”いた。

 決して手が届かないように、でもいつも視界の端には入っているように。


 その演出が、「ライバル感」として評価された。

 ネットでも、SNSでも、ラジオでも。

 それは“売れる匂い”がする、と。


 そして、事務所はその流れにすぐさま乗った。


「ハル姉×紅妹」


「王子様と不思議系少女のライバル構図」


「グループを超えた火花が、今、燃え上がる!」


 番組のキャッチコピーは過剰なほどに“関係性”を盛り立てる。

 収録ではMCが、わざと煽るように訊いてくる。


「ハルちゃん、最近紅ちゃんに負けてるって噂あるけど?」


「へーえ、あたしが? どこ情報よそれ」


 ハルは、キャラを守って返す。

 視線を鋭くして、低く声を落とし、

 あくまで「強気で引っ張る姉貴分」としての演技を忘れない。


 一方で紅は――


「紅ちゃん、あの“ハル姉”と対立関係って、実際どうなの?」


「え……ふふ……まぁ、そういう風に……見えるんでしょうね」


 言葉を濁す。

 それは、嘘ではないけれど、本当でもない。


「不思議キャラ」らしく微笑んで、

 ゆっくり首をかしげて、謎めいた雰囲気でやり過ごす。


 ――けれど。


 ふたりの内心は、少しずつきしみ始めていた。


 撮影後の控室で。

 タオルを頭に巻いたハルが、苦笑しながら髪を乾かしている。


「……なんか、あたし、“姉”って感じじゃないんだけどなぁ」


 鏡越しに紅を見る。


「紅、どう思う?」


 紅は少し考えてから、言葉を選んで答えた。


「……ハルちゃんは、ハルちゃん。あたしにとっては」


 それだけで、ハルはふにゃっと笑う。


「そう言ってくれるの、紅だけだわ〜……もう、甘えさせてくれんの、ほんとに」


「……甘えていいって、いつも言ってるじゃん」


 小さく、ほんの少しだけ口調が砕けていた。

 紅はたまに、気が緩むと三重の訛りが顔を出す。


 ハルはそれに気づいて、にやっとする。


「紅、今ちょっと方言出たよね?」


「っ……出てないし」


「出たし、かわいかったし〜〜〜〜っ」


 ハルが笑いながら近づいてくると、

 紅はタオルをぽすっと顔に被せて、誤魔化すように小声で言う。


「……もう……テレビじゃ言えんようなことばっかり、言うんだから……」


 ふたりはわかっていた。

“演じている自分たち”に、どこかでズレがあることを。


 事務所が売り出している「姉×妹構図」は、ファンにとってわかりやすい。

 反応もいい。数字も伸びる。


 けれど、それが“自分たちの本当”ではないことも、知っていた。


 SNSのタイムラインに流れてくるファンの投稿。


《やっぱハル姉×紅妹だよなぁ!!》


《年上で引っ張ってくれるハル姉、理想すぎる》


《紅ちゃん、ハル姉にちょっと反抗期な感じがたまらん〜〜!》


 それらを眺めながら、ハルはぼやく。


「……あたし、実際は、けっこう……」


「……甘えん坊」


「ちょっ、先に言わないでよ〜〜」


 苦笑混じりのその会話すら、

 カメラの前では決して見せられない。


 ある夜、ふたりで紅の部屋にいるとき。

 床にごろりと寝転がって、クッションに顔を埋めながらハルがぽつりとこぼした。


「……ねぇ、紅。アイドルって、誰のものなんだろね」


「え?」


「ファンのもの? 事務所のもの? グループのもの?」


 しばらく沈黙があって――

 紅は、ゆっくり言った。


「……あたしにとって、ハルちゃんは、あたしのものだよ」


 その声は、静かで、でも揺るぎなかった。


 ハルは顔を上げる。

 紅の目をまっすぐに見つめた。


 そして、笑った。


「……うん。じゃあ、あたしも、紅を独り占めしていい?」


「……しょうがないな」


 部屋の明かりは薄暗く、

 鏡の中のふたりは笑っていた。


 どんなキャラ設定よりも、ずっと自然な顔で。


 *


「……次の撮影では、紅ちゃん、もうちょっと“無機質寄り”な表情でお願いね」


「ハルちゃんは、相変わらず“ちょい煽り強め”で!」


 スタッフの指示が飛ぶ。


 その言葉は、キャラづくりの補強。

 何度も繰り返されてきた調整。

 紅もハルも、もう慣れたはずだった。


 だけど、その日のリハーサル終わり――

 控室の空気は、いつもより少しだけ重かった。


「……ふー」


 ハルが背中をソファに預けて、汗を拭いながら小さく吐息を漏らす。


 隣では、紅が静かに鏡の前で髪を整えていた。


 ハルはちらりと紅を見た。

 けれど、言葉が出てこなかった。


 紅の横顔は、どこか無表情で、

 鏡に映るその目は、どこを見ているのか分からなかった。


「紅、疲れてる?」


 問いかけてみても、返事は「ううん、平気」という決まり文句。


「そっか……」とだけ返して、ハルは黙った。


 嘘だってわかってる。

 でも、それを突っ込んでしまったら、

 何かが崩れてしまいそうな気がして、できなかった。


 ここ最近の紅は、どこか無理をしている。

 バラエティ番組でも、不思議キャラを守ろうとするあまり、

 まるで台本通りに答えているように見えることがある。


 そのことに、誰も気づかない。


 ファンは「紅ちゃんブレないね!」と褒めてくれる。

 事務所も「紅は安心感あるね」と評価する。


 でも、ハルはわかっていた。


 それは“紅の本当”じゃない。


 いっぽうで、自分も同じだった。


「強気な姉キャラ」


「頼れるリーダー」


「紅を引っ張っていく存在」


 ファンが期待する自分を裏切らないように、

 言葉を選び、声のトーンを作り、振る舞いに迷いがないふりをする。


 けれど実際は、

 紅に甘えたい気持ちで胸がいっぱいになる瞬間が、日に日に増えていた。


 夜。マンションの廊下を挟んで向かい合った部屋。


 ドアを開けて、紅が覗く。


「……ハルちゃん、起きてる?」


「起きてるよ。てか、来て〜〜〜〜〜〜」


 ソファでだらしなく寝転がるハルの声は、明らかに“かまって”のトーンだった。


「紅〜、疲れた〜、だるい〜、元気出ない〜」


「それ、ライブ前のセリフじゃないよ……」


 呆れたように言いながらも、

 紅は部屋に上がり、座ってハルの頭を自分の膝にのせた。


 ハルがふにゃっと笑う。


「ここがいちばん落ち着く〜〜……」


「ほんとは……もうちょっと、引っ張ってくれると嬉しいんだけど」


 紅がぽつりと言った。


 その瞬間、空気が止まった。


「……なに、それ」


「……ううん、なんでもない。こっちの話」


 ハルは、ゆっくりと起き上がった。


「紅……今、ちょっと怒ってる?」


「怒ってない」


「でも、なんか拗ねてる……?」


「……拗ねてない」


「うそ。方言、ちょっと出てる。紅は、感情出ると絶対……」


「うっさいな!」


 いつもより少し強い声。


 ハルは驚いて、目を見開く。

 紅も、言ってから気づいて、肩をすぼめた。


「……ごめん……ちょっと、しんどかっただけ」


「……わたしも。ごめん」


 ふたりの間に、重たい沈黙が降りた。


 そのあと、ぎこちなく並んで歯を磨いたり、

 バスタオルを貸し借りしたりしながら、

 どちらも、何かを言い出せないまま時間が過ぎていった。


 ベッドの中、並んで横になっても、手は繋がなかった。


 ほんの少しのズレ。

 でも、その“少し”が、心の奥では大きな影を落としていた。


 ファンの前では、いつも通りのふたり。


 でも、

 自分たちの関係が“自分たちのもの”じゃなくなっていくような、

 そんな不安が、静かに胸を締めつけていた。


 アイドルって、誰のもの?


 ――もしかしたら、もう、あたしたちのものじゃないのかもしれない。

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